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第22話 満月の夜(後編)

満月が、天窓の真上に来た。

召喚陣の光が、頂点に達した。

白い光が、柱を、天井を、広間の全てを塗りつぶす。

その光の中心で、勇者が、光の剣を振り上げていた。

モルドの骨の手が、勇者の右手首をつかんだまま、軋んでいる。

骨のひびは、指から手首へ、手首から腕へと広がっていた。

セルシアの氷が、陣の外周で、ぱきぱきと砕けていく。

ヴァルグレイヴは、勇者の目の前に、立っていた。

一歩の距離。

光の剣の切っ先が、魔王の胸の、真ん中にあった。


◆ ◆ ◆


ヴァルグレイヴは、懐から、布を取り出した。

使い込まれて、色の褪せた、何の変哲もない布。

端がほつれ、何度も洗われて、くたくたになっている。

勇者の、布だった。

魔王は、光の剣を握った勇者の右手ではなく、だらりと垂れた左手を、そっと取った。

籠手越しにも、震えているのが分かった。

その左手に、布を、握らせた。


「――返す」


静かな声だった。


「そなたの、布だ」


勇者の左手が、ぴくりと動いた。

指が、布を、握りしめた。


◆ ◆ ◆


霧の中にいた。

白石は、また、すりガラスの向こうから、世界を見ていた。

自分の右手が、光の剣を握っている。その切っ先の先に、黒いマントの、大きな人が立っている。

体が、言うことを聞かない。召喚の日と同じだった。

謁見の間の時と、同じだった。

でも、左手に、何かがあった。

くたくたの、柔らかい、手に馴染んだ感触。


(……私の、布)


元の世界から、ずっと、ポケットに入れていた布。

毒を拭い、罠を払い、亡者を拭い、凍った涙を拭った布。

ヴァルさんの手に、残った布。

――返す。そなたの、布だ。

白石は、左手の布で、右手の紋を、拭った。

落ちなかった。

もう一度。もう一度。何度拭っても、紋は、色一つ変えなかった。

地下牢でも、召喚された夜の宿でも、ずっと、そうだった。


(だめだ。これは、落ちない)


これは、勇者の証だから。召喚された時に刻まれた、自分の一部だから。

――本当に、そうだろうか。


◆ ◆ ◆


「異界の者よ!」


モルドの声が、霧を突き破った。骨が、砕ける寸前の、悲鳴のような声だった。


「それは、そなたのものではない! そなたの一部などではない!」


骸骨の眼窩の炎が、勇者の兜を、真正面から見据えていた。


「勝手に刻まれ、勝手に心を曇らせ、勝手に命を握る!

我にも、そなたにも、押しつけられたものだ!

それは――」


モルドは、三百年分の声で、叫んだ。


「――汚れだ!」


白石の手が、止まった。

汚れ。

その言葉が、すりガラスに、ひびを入れた。


「白石殿」


目の前の、大きな人が、言った。


「我の顔は、曇っていなかったそうだな。

焚き火の夜、そなたは、一度も、我の顔を拭こうとしなかったと、幻術師が言っていた」


穏やかな声だった。

不器用な、大きな字を書く人の声。


「ならば、教えてくれ。

そなたの手にこびりついている、それは、何だ」


白石は、右手の紋を、見た。

円と線を組み合わせた、複雑な紋様。

召喚の日、神官が、勝手に刻んだもの。

疑いを曇らせ、帰りたいという気持ちを曇らせ、

魔王を倒せという命令を、何も考えずに受け入れさせたもの。

森戸さんを、殺したもの。

千の兵の額に、浮かんでいたもの。

たった今も、自分の手を勝手に動かして、この人を斬らせようとしているもの。

勇者の証。自分の一部。

違う。


(――汚れてる)


そう思った瞬間、紋の見え方が、変わった。

ずっと、自分の肌の一部だと思っていた模様が、肌の上に、

べったりとこびりついた、黒い汚れに見えた。

誰かが、勝手に、自分の上に塗りつけていったもの。

落とさなきゃ。

気になったので、手を入れた。


◆ ◆ ◆


布が、紋を、拭った。

紋の線の一本が、すうっと、消えた。

ヴァルグレイヴは、息を呑んだ。

勇者の左手が、動いていた。

震えていた手が、今は、驚くほど迷いなく、丁寧に。

紋の線を、一本ずつ、布で拭い取っていく。

円が消えた。

線が消えた。

光の鎖が、ぶつり、ぶつりと、音を立てて千切れていく。

勇者の右手の光の剣が、輪郭を失い、ほどけて、光の粒になって散っていく。


――――――――――


【エラー】勇者の紋に、異常が発生しています。

【エラー】勇者の紋が、消失しています。

【エラー】制御が

【エラー】


――――――――――


板の文字が、乱れていた。

勇者は、最後の一本を、拭った。

手の甲には、何も残っていなかった。ただの、肌だった。


◆ ◆ ◆


召喚陣の光が、消えた。

満月の光だけが、天窓から、静かに差し込んでいた。

勇者の体から、力が抜けた。

ヴァルグレイヴは、崩れ落ちる勇者を、両腕で受け止めた。

軽かった。

鎧の重さを差し引いても、驚くほど、軽かった。

勇者の右手首をつかんでいたモルドの骨の手が、ゆっくりと離れた。

骸骨は、その場に膝をついた。骨のひびが、腕から肩にまで達していた。

勇者は、魔王の腕の中で、震える左手を、モルドの方へ伸ばした。

布を握ったまま。

骸骨の、骨の手の甲に刻まれた、もう一つの紋に。

拭った。

三百年、骨に刻まれていた紋が、すうっと、消えた。

モルドの眼窩の炎が、大きく、揺れた。


「……あ」


骸骨は、自分の手の甲を、見下ろした。何も、残っていなかった。


「……三百年……」


かすれた声だった。


「……軽い、な」


◆ ◆ ◆


――――――――――


【エラー】予言の成就が、不可能になりました。

【エラー】勇者の処理が、不可能になりました。

【エラー】

【通知】……再計算します。


――――――――――


ぱりん、と、何かが割れる音がした。

大神官オルヴェンの目の前の板に、ひびが入っていた。

神託の板が、蜘蛛の巣のように割れて、光の欠片になって、崩れ落ちていく。


「……馬鹿な」


老人の顔から、初めて、穏やかさが消えた。


「神託が……三百年、途絶えたことのない、神の……」


扉が、開いた。

白銀の聖騎士団長と、漆黒の黒騎士が、並んで入ってきた。

ディートリヒは、剣を抜いていなかった。


「大神官殿」


騎士団長は、静かに言った。


「勇者の処理は、中止です。神託は、もう、ありません」


国王ルドルフ十三世が、その場に、膝から崩れ落ちた。


「恩寵が……我が国の、恩寵が……」


ディートリヒは、国王の前に、片膝をついた。


「陛下。恩寵が途絶えたのなら、これからは、自分たちの手で、井戸を掘りましょう。

……手を入れれば、何とかなるものも、きっと、あるはずです」


国王は、呆然と、騎士団長を見上げていた。


◆ ◆ ◆


「勇者さんっ!」


光の消えた召喚陣を、ネフィが、転がるように駆けてきた。

シロが、その後に続く。

ヴァルグレイヴの腕の中で、勇者が、うっすらと、顔を上げた。

兜は、被ったままだった。


「……ヴァル、さん」


かすれた声だった。


「ごめんなさい……刺して、ごめんなさい……結界も……」

「いい」


ヴァルグレイヴは、首を横に振った。


「それと……ありがとう……布……」

「ああ」


勇者は、何か、まだ言いたそうだった。

兜の奥で、唇が動く気配がした。

ヴァルグレイヴは、その兜に、そっと手を置いた。


「話は、城でしよう」


魔王は、言った。


「約束だ。城で、会おう、と書いた。

……ちゃんと、城で、会おう」


勇者は、しばらく黙っていた。

それから、小さく、頷いた。


「……はい。……城で」


そう言って、勇者は、魔王の腕の中で、静かに目を閉じた。

眠っているだけだった。

穏やかな、寝息だった。

ネフィが、泣きながら、勇者の手を握った。

紋の消えた、右手を。

シロが、勇者の兜に、そっと鼻を押しつけた。


◆ ◆ ◆


7:魔王 ◆VaLgRaVe

取り戻した。

例の方は、自分の手で、紋を拭い取った。

今、我の腕の中で、眠っている。


8:名無しさん

うわあああああああああ


9:名無しさん

よかった!!!!


10:名無しさん

泣いてる


11:名無しさん

会社で泣いてる


12:名無しさん

紋、拭けたのかよ!!


13:魔王 ◆VaLgRaVe

元・最初の勇者が叫んだ。「それは、そなたのものではない。押しつけられた汚れだ」と。

それを聞いて、例の方は、拭い始めた。ずっと落ちなかった紋が、一本ずつ、消えていった。

それから、元・最初の勇者の、骨に刻まれた紋も、拭った。三百年、刻まれていた紋を。


14:名無しさん

森戸さん……


15:名無しさん

三百年分、拭われたのか


16:名無しさん

だめだ、涙止まらん


17:◆PDCAおじさん

魔王さん。

お疲れさまでした。

作戦の最後の項目を、確認させてください。

魔王さんは、ご無事ですか。


18:魔王 ◆VaLgRaVe

>>17

無事だ。一太刀も、受けていない。

城からも、知らせが届いた。

眠っていた炎の四天王が目を覚まし、瘴気の軍勢を、全て焼き払ったそうだ。

民も、兵も、秘書官も、無事だ。


19:名無しさん

イグニスさん!!


20:名無しさん

借り、返したのか


21:名無しさん

全員無事……!


22:◆PDCAおじさん

>>18

よかった。

作戦、完了ですね。


23:魔王 ◆VaLgRaVe

>>22

いや。

まだ、一つ、残っている。

例の方と、城で、会う。ちゃんと。

それが、我と例の方の、約束だ。


24:名無しさん

そうだよな


25:名無しさん

まだ、ちゃんと会えてないんだよな


26:名無しさん

最後のスレ、楽しみにしてる


――――――――――


【報告】勇者の進行度:測定不能


――――――――――


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