第22話 満月の夜(中編)
召喚の間は、白い光に満ちていた。
床一面に描かれた召喚陣が、天井の天窓から差し込む満月の光を受けて、脈打つように輝いている。
埃にまみれた柱。
黒ずんだ絨毯。
白石が召喚された日と、何も変わらない、手入れのされていない広間。
その召喚陣の、真ん中に。
鎧の勇者が、膝をついていた。
兜は、被ったまま。
右手の紋から、光の鎖のようなものが何本も伸びて、召喚陣の線に、絡みついていた。
勇者は、その鎖に縛られて、身動き一つできずにいた。
陣の外に、白い法衣の大神官オルヴェンが立っていた。
その傍らに、金の冠の国王。
大神官の目の前に、半透明の板が浮かんでいた。
――そして、その板は、ヴァルグレイヴの目の前にも、浮かんでいた。
――――――――――
【予言】魔王が、召喚陣に到達しました。
【予言】成就の条件が、整いつつあります。
――――――――――
「来たか、魔王」
大神官は、振り返りもせずに言った。
「神託の通りだ」
◆ ◆ ◆
「勇者さんっ!」
広間の反対側の扉が、勢いよく開いた。紫の髪の夢魔が、転がるように飛び込んでくる。
肩の上で、コウモリのピッチが、鍵束をくわえていた。
ネフィは、召喚陣の縁で、足を止めた。
陣の光が、壁のように、夢魔の行く手を阻んでいた。
「勇者さん! 勇者さぁん!」
勇者は、答えなかった。兜が、わずかに揺れただけだった。
ヴァルグレイヴは、召喚陣を見下ろした。
罠だと、分かっていた。
ヴォルフが言った通りだ。
システムは、魔王を、この陣の前に立たせたかった。
陣に入れば、何が起きるか分からない。
勇者の紋が、再び、勇者を操るかもしれない。
今度こそ、刃は逸れないかもしれない。
陣に入らなければ、勇者は、処理される。
「……魔王よ」
大神官が、ようやく振り返った。
老人の目は、穏やかだった。
どこまでも、穏やかだった。
「選ぶがいい。陣に入り、勇者に討たれるか。
陣の外で、勇者の最期を見届けるか。
どちらでも、予言は成る。
勇者が討つか、次の勇者が討つか。それだけの違いだ」
「……三百年、そうしてきたのか」
「そうだ。それが、神の定めた、この世界の仕組みだ」
ヴァルグレイヴは、懐に手を入れた。
使い込まれた、色の褪せた布に、指が触れた。
「――断る」
魔王は、召喚陣に、足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
陣の光が、爆発した。
勇者の右手の紋が、まばゆく燃え上がる。
光の鎖が、勇者の体を引き起こした。
勇者は、操り人形のように、ぎこちなく立ち上がった。
その右手に、光が凝り固まっていく。
剣の形に。
――――――――――
【予言】勇者は、魔王を討つ。
――――――――――
光の剣が、持ち上がった。
ヴァルグレイヴは、立ち止まらなかった。
一歩、また一歩、勇者に向かって歩いていく。
剣を抜かずに。両手を、体の横に下ろして。
「――待て、魔王」
乾いた声がした。
ヴァルグレイヴの横を、襤褸の外套が、すり抜けていった。
モルドだった。
骸骨は、迷うことなく陣の中に踏み込み、
光の剣を握った勇者の右手を、自分の骨の右手で、つかんだ。
紋と、紋が、重なった。
二つの紋が、共鳴した。
骨の手の甲に刻まれた紋が、三百年ぶりに、燃え上がる。
「ぐ……っ!」
モルドの骨が、軋んだ。
指の骨に、ひびが走る。
それでも、骸骨は、手を離さなかった。
「我の紋で……半分、引き受ける……!」
光の鎖の何本かが、勇者の体から剥がれて、モルドの骨に絡みついた。
勇者の動きが、目に見えて鈍った。
「異界の者よ! 聞こえるか! 曇るな!」
モルドが、叫んだ。
「あの日の我のように、なるな!」
陣の縁から、冷気が這い寄ってきた。
セルシアだった。
回廊の戦いを抜けてきた氷姫が、召喚陣の外周に両手をつき、陣の線を、端から凍りつかせていく。
「陛下! 陣の力を、少しでも削ります!」
陣の光が、わずかに、弱まった。
◆ ◆ ◆
回廊では、二人の騎士が、向かい合っていた。
漆黒の黒騎士と、白銀の聖騎士団長。
周りの聖騎士たちは、ミラージュの幻に惑わされ、
セルシアの氷に足を取られ、誰も二人の間に割って入れずにいた。
ヴォルフの大剣が、振り下ろされた。
ディートリヒの長剣が、それを受けた。火花が散る。
二度。三度。剣戟の音が、回廊に響く。互角だった。
「……なぜ、迷う」
鍔迫り合いの中で、ヴォルフが言った。
「その扉の向こうで勇者が殺されることを、なぜ迷う。
聖王国の騎士なら、迷う理由はないはずだ」
ディートリヒは、答えなかった。剣を押し返し、間合いを取る。
ヴォルフは、大剣を構え直した。
「三百年前、ある異界の勇者が、戦場で剣を下ろした」
ディートリヒの剣先が、わずかに、揺れた。
「その剣の下に、怯えて動けない、魔族の少年兵がいた。
勇者は、その少年を斬れずに、剣を下ろした。
そして、聖騎士団長の指輪で、紋を焼かれて死んだ」
黒騎士は、静かに言った。
「その少年が、私だ」
回廊に、沈黙が落ちた。
ディートリヒは、自分の右手を見下ろした。
指輪のない、指を。
「……その指輪は」
騎士団長の声が、かすれた。
「我が家は、初代から、聖騎士団長を出してきた家だ。
この指輪も、代々の団長が受け継いできた。
……初代の指輪は、三百年前、何者かに奪われたと聞いている。
今のものは、神殿が、同じ形に作り直したのだと。
勇者を導くための、神より賜った指輪だと。
……そう、聞かされてきた」
ヴォルフが、低い声で言った。
「初代の指輪を奪ったのは、殺された勇者自身だ。
骨になってから、な。
……今も、我が軍の四天王の指にはまっている」
ディートリヒは、長剣を、見つめた。
「先祖は、剣を下ろした勇者を、殺したのか」
「そうだ」
「そして、私は、同じことを、しようとしていた」
騎士団長の手が、震えていた。
「あの男に、指輪を砕かれた時。
私は、ほっとした。……ずっと、この指輪が、怖かった。
人の命を、指一本で、奪える指輪が」
ディートリヒは、ゆっくりと、長剣を、下ろした。
剣先が、回廊の石畳に、触れた。
「……剣を下ろすと、こういう気分になるのか」
ヴォルフは、大剣を、背に納めた。
「ああ。三百年前、あの方も、そうだったのだろう」
ディートリヒは、召喚の間の扉を、振り返った。
「行くぞ、黒騎士。大神官を、止める」
◆ ◆ ◆
同じ頃、魔王城。
城門が、破られた。
腐った木の裂ける音とともに、瘴気の影が、中庭になだれ込んできた。
獣の形をした影が、兵を押し倒し、民の松明を吹き消し、石畳を黒く腐らせていく。
「下がれ! 本丸まで下がれ!」
バルドが、斧を振り回しながら叫んだ。
ドルガンが、工兵たちと一緒に、中庭の通路に即席の柵を組み上げる。
民たちが、手ぬぐいを握りしめたまま、後ずさる。
リリエラは、本丸の階段の上に、立っていた。
影の群れが、階段の下まで迫っていた。
秘書官は、懐から、手ぬぐいを取り出した。
「ゆうしゃ」と、下手な刺繍の入った手ぬぐい。
逃げなかった。
「……陛下が、戻られるまで」
リリエラは、手ぬぐいを、握りしめた。
「ここは、私が――」
その時。
城の奥から、轟音が響いた。
天井が、揺れた。
本丸の窓という窓から、青い光が、噴き出した。
「――うるっせえなあ」
低い、寝起きの声だった。
本丸の扉が、内側から、吹き飛んだ。
赤銅色の肌。燃えさかる髪。
そして、胸の炉で、青く澄んだ炎が、ごうごうと燃え盛っていた。
炎獄のイグニス。
三週間、眠り続けていた四天王が、欠伸を噛み殺しながら、階段の上に立っていた。
「寝起きに、煤臭えもん見せやがって。……三百年ぶりに、気持ちよく寝てたってのによ」
イグニスは、中庭を埋め尽くす瘴気の影を、見下ろした。
それから、リリエラの手の中の、手ぬぐいを見た。
「勇者の、か」
「……はい」
「あいつは、今、どこにいる」
「聖王国です。陛下が、迎えに」
イグニスは、鼻を鳴らした。
「そうか。なら、俺の借りの返し方は、決まりだ」
炎の四天王は、胸の炉に、両手を当てた。
「――あいつが帰ってくる場所を、守る」
青い炎が、本丸の階段から、中庭へ、城門へ、平原へと、波のように広がっていった。
煤のない、澄みきった炎だった。
瘴気の影は、その炎に触れた瞬間、悲鳴も上げずに、跡形もなく燃え尽きた。
霧散するのではない。燃え尽きて、二度と、寄り集まらなかった。
腐っていた石畳が、炎に洗われて、白さを取り戻していく。
城壁の上で、民たちが、歓声を上げた。
イグニスは、その歓声を背に、南の空を見上げた。
満月が、天の真上に、差しかかろうとしていた。




