第22話 満月の夜(前編)
満月が、昇った。
聖王国アルシェの王都は、白い石造りの街だった。
城壁も、家々も、大通りの石畳も。
ただ、どこもかしこも、薄く煤けて、くすんでいた。
三百年、神の恩寵に頼ってきた国の、手入れの行き届かない白さだった。
巡礼者の一団は、王城の裏手の、使われていない礼拝堂の陰に身を潜めていた。
フードの下で、ミラージュが手鏡を構えている。
部隊全員を、ただの巡礼者に見せかける幻を、昨日から一瞬も途切れさせずに支え続けていた。
額に、汗が浮かんでいた。
「……陛下。わたくしの幻、あと一刻が限界ですわ」
「十分だ」
ヴァルグレイヴは、懐の宝物庫の目録を開いた。
嘆きの腕輪の欄の光の点が、すぐ足元で、明滅していた。
王城の地下。
この真下だ。
ヴァルグレイヴは、目を閉じて、念話を飛ばした。
魔力は、ほとんど残っていない。それでも、この距離なら。
『――ネフィ』
一瞬の、沈黙。
それから、頭の中に、泣き声が飛び込んできた。
『へ……陛下ぁ……! 陛下ぁぁ……!』
『落ち着け。勇者は、無事か』
『無事ですぅ! でも、さっき、騎士たちが来て……
勇者さん、召喚の間に連れて行かれましたぁ!
月が真上に来たら、処理を始めるってぇ……!
わたしは、牢に残されてぇ……!』
ヴァルグレイヴは、目を開けた。
月は、東の空を、だいぶ高くまで昇っていた。
真上まで、あと一刻。
『ネフィ。今、ピッチが、お前の牢に向かう。
鍵を開けさせる。勇者のもとへ、先に行け』
『はいっ!』
念話を切ると、ヴァルグレイヴは、仲間たちを振り返った。
ヴォルフ。セルシア。ミラージュ。モルド。シロ。そして、肩の上のピッチ。
「召喚の間へ行く」
◆ ◆ ◆
【実況】聖王国、潜入 Part21
1:魔王 ◆VaLgRaVe
聖王国の王城に着いた。
例の方は、召喚の間に連れて行かれた。
月が真上に来たら、処理が始まる。あと一刻。
工作員とは、連絡がついた。無事だ。
これから、召喚の間に向かう。
2:名無しさん
きた
3:名無しさん
魔王さん!
4:名無しさん
スパイちゃん無事でよかった
5:◆PDCAおじさん
魔王さん。
作戦通りに。魔王さんは、戦わないこと。
役目は、例の方に声をかけること。
それから、生きて帰ること。
6:魔王 ◆VaLgRaVe
>>5
ああ。
行く。
◆ ◆ ◆
同じ頃。
魔王城の城壁の上に、松明の列が並んでいた。
城門の前の平原を、瘴気の影の軍勢が、埋め尽くしていた。
月明かりの中で、無数の影が、うごめいている。
獣の形、兵の形、名前のつけようのない形。
輪郭は定まらず、近づくほどに、腐った沼のような匂いが濃くなった。
城壁の上に立っているのは、兵だけではなかった。
北方守備軍の兵。ドルガンの工兵隊。
そして、勇者様救出支援本部に集まった、民たち。
沼地の村の若者。
ルーメンの町の男たち。
行商人。
皆、手に松明と、勇者の手ぬぐいを握っていた。
リリエラは、城壁の中央に立っていた。
「……来ます」
影の軍勢が、動いた。
波のように、城門めがけて押し寄せてくる。
「放て!」
バルドの号令で、城壁から火矢が一斉に放たれた。
影の獣が、炎に触れて霧散する。
だが、霧散した靄は、すぐにまた寄り集まって、新しい影になった。
「きりがねえ!」
ドルガンが、城門の補強材を担ぎながら怒鳴った。
影が、城壁に取りついた。這い上がってくる。
触れた石が、黒く腐っていく。
民の一人が、這い上がってきた影の手に、手ぬぐいを叩きつけた。
影は、消えなかった。
それでも、その男は、手ぬぐいを振り続けた。
石が黒く腐る端から、拭った。拭った場所は、ほんの少しだけ、腐るのが遅れた。
「勇者様の真似だ! 手を止めるな!」
誰かが叫んだ。
城壁のあちこちで、民が、手ぬぐいで石を拭い始めた。
兵が影を斬り、民が腐った石を拭う。
拭っても、拭っても、影は押し寄せてくる。
それでも、誰も、手を止めなかった。
リリエラは、その光景を見ていた。
胃が、きりきりと痛んだ。胃薬は、もう残っていなかった。
城壁の下で、城門が、みしり、と軋んだ。
◆ ◆ ◆
聖王国の王城、地下の回廊。
巡礼者の幻を脱ぎ捨てた救出部隊が、松明の灯りの中を、駆けていた。
先頭をシロが走る。勇者の匂いを辿って、迷うことなく。
その後ろに、大剣を担いだヴォルフ。
氷の靄をまとったセルシア。
手鏡を抱えたミラージュ。
骨を軋ませながら走るモルド。
そして、最後尾に、ヴァルグレイヴ。
回廊の角を曲がった先に、白いマントの騎士たちが、壁のように並んでいた。
聖騎士団。二十騎。聖別された鎧が、淡く光っている。
「止まれ! ここより先は、召喚の間だ!」
ヴォルフが、大剣を抜いた。
「陛下。お先に」
黒騎士の大剣が、一閃した。
三人の騎士の剣が、同時に弾き飛ばされる。
セルシアが手を振るうと、回廊の床が一瞬で凍りつき、騎士たちの足が氷に囚われた。
ミラージュの手鏡が光り、騎士たちの目の前に、存在しない魔王軍の大軍勢が現れる。
「行け、陛下!」
ヴォルフが叫んだ。
ヴァルグレイヴは、乱戦の脇をすり抜けた。
シロとモルドが、その両脇を固める。
回廊の突き当たり。
両開きの、大きな扉。
扉の隙間から、白い光が、漏れていた。
ヴァルグレイヴは、扉に手をかけた。
その時、背後で、ひときわ重い足音がした。
振り返ると、乱戦の向こうに、一人の騎士が立っていた。
白銀の鎧。白いマント。腰に、聖別された長剣。
聖騎士団長、ディートリヒ。
騎士団長は、剣を抜かずに、魔王を見ていた。感情のない目で。
いや。
感情のない目、ではなかった。
「……魔王」
ディートリヒの声が、回廊に響いた。
「その扉の向こうで、何が起きているか、知っているのか」
「勇者が、殺されようとしている」
「そうだ」
ディートリヒは、長剣の柄に、手をかけた。
「そして、私は、それを止めるべきかどうか、まだ決めていない」
ヴォルフが、騎士団長の前に、大剣を構えて立ちはだかった。
「陛下。ここは、私が」
ヴァルグレイヴは、一瞬だけ、黒騎士の背中を見た。
三百年前、戦場で、異界の勇者に命を救われた少年の背中を。
「……任せた」
魔王は、扉を開けた。




