幕間㉑ リリエラ、窓を拭く
三百年前、リリエラは、魔王軍の書記の一人だった。
先代の魔王の時代から、帳簿をつけ、命令書を清書し、戦の記録を残す。
誰の目にも留まらない、地味な仕事だった。
新しい魔王が任じられた日、リリエラは、執務室に呼ばれた。
角を生やした、まだ若い魔王が、山のような書類の前に座っていた。
顔色が悪かった。胃のあたりを、押さえていた。
「お前が、この帳簿を書いたのか」
「はい」
「字が、読みやすい。……我の秘書官になってくれ」
それだけだった。
それから、三百年。
◆ ◆ ◆
陛下は、何でも一人でやる方だった。
予言に怯え、勇者を恐れ、それでも民のために、毎晩遅くまで帳簿を睨んでいた。
灌漑の予算。飢饉の備蓄。街道の修繕。
誰に礼を言われることもなく、誰に相談することもなく。
リリエラは、隣で、それを見ていた。
茶を淹れ、胃薬を数え、書類を整える。
それ以上のことは、しなかった。
陛下が、それ以上を求めなかったから。
本当は、言いたいことが、たくさんあった。
少しは、お休みください。
少しは、誰かに頼ってください。
少しは、ご自分のことも、大事にしてください。
言えなかった。三百年、一度も。
秘書官は、主の決めたことに口を出さない。
それが、リリエラの流儀だった。
◆ ◆ ◆
勇者が召喚された日のことを、リリエラは、よく覚えている。
間者からの報告書。
名は「シライシ」。
小柄。声は兜にこもってよく聞き取れない。
兜を、決して外さない。
報告書を読んだ時、リリエラは、ふと思った。
もしかしたら、と。
言わなかった。報告書には、そう書いていなかったから。
報告書に書かれていないことは、報告しない。
それも、秘書官の流儀だった。
それに、陛下が、勇者を、勇者として見る前に、
何か別のものとして見てしまうのは、良くないような気がした。
それから、陛下は、変わっていった。
異界の掲示板とやらに向かって、「草とはなんだ」と呟くようになった。
勇者からの手紙を、三度読み返すようになった。
勇者を、殺すのではなく、理解したいと言うようになった。
初めて、リリエラ以外の誰かに、相談をするようになった。
初めて、リリエラの話を、聞いてくれるようになった。
◆ ◆ ◆
夜。
魔王城の執務室の窓から、南の地平線が見えた。
瘴気の影の軍勢が、ゆっくりと、こちらに向かってきている。
月明かりの中で、輪郭の定まらない無数の影が、地平線を黒く塗りつぶしていた。
執務室の窓ガラスが、曇っていた。
夜の冷気のせいではなかった。
瘴気だった。
城の外から、じわじわと染み込んできた紫の靄が、ガラスの内側に、薄い膜を張っていた。
リリエラは、懐から、手ぬぐいを取り出した。
城門の前で、沼地の村の子どもに渡されたものだ。
秘書官様もと言って。
安物の木綿に、下手な刺繍で「ゆうしゃ」と縫ってある。
リリエラは、手ぬぐいを、窓ガラスに当てた。
拭いた。
勇者のようには、いかなかった。
瘴気の膜は、拭いても、すぐにまた滲んでくる。
それでも、拭いた。
何度も。
ガラスの向こうに、月が見えた。
ほとんど丸い月。明日の夜には、満ちる。
その月の下のどこかに、陛下がいる。勇者と、ネフィがいる。
「……陛下」
リリエラは、窓に向かって、小さく呟いた。
三百年、一度も言えなかったことを。
「必ず、帰ってきてください。……お茶を、淹れて、お待ちしておりますから」
手ぬぐいを握った手が、少しだけ、震えていた。
執務室の机の上には、陛下が置いていった胃薬が、まだ半分残っていた。
リリエラは、その一包を、自分の分として、水で流し込んだ。
やはり、苦かった。
それから、秘書官は、背筋を伸ばして、城壁の上へと歩き出した。
影の軍勢が、城門まで、あと半日の距離に迫っていた。




