第21話 勇者様を救え(後編)
勇者の湖は、岸から少しずつ、濁り始めていた。
澄んだ水面に、紫色の靄が、細い糸のように滲み出している。
三百年ぶりに芽吹いた岸辺の草が、端から黒ずんでいく。
湖の底から、ぶくり、と、嫌な色の泡が浮かんだ。
沼地の村の人々は、湖の岸に並んでいた。
手に手に、勇者の手ぬぐいを握って。
誰も、勇者のような力は持っていなかった。
拭いても、瘴気は消えない。
それは、皆、分かっていた。
それでも、村人たちは、黙々と手を動かした。
黒ずんだ草を摘み取り、水路に溜まった泥をかき出し、湖に流れ込もうとする濁りを、堰で止める。
子どもたちは、小石を拾い、枯れ枝を運んだ。勇者がいた三週間、手伝いながら覚えたことだった。
不思議なことに、濁りの広がりは、少しだけ、遅くなった。
◆ ◆ ◆
灰岩の渓谷では、ドルガン率いる工兵隊が、街道の石畳に這いつくばっていた。
新品のように白かった石畳の隙間から、黒い苔のようなものが、じわじわと染み出してくる。
工兵たちは、それを一枚一枚、手ぬぐいで拭い、削り、新しい漆喰で塞いでいった。
「隊長! きりがありませんぜ!」
「きりがなくてもやるんだよ!」
ドルガンが、汗だくで怒鳴り返した。
「あの野郎はな、この街道を半日でぴかぴかにしやがったんだ。
わしら工兵隊が、汚れを止めるくらいできねえでどうする!」
◆ ◆ ◆
北方守備軍は、瘴気の濃くなった森から湧き出した影の魔物を、街道で食い止めていた。
黒い靄が寄り集まってできた、輪郭の定まらない獣たち。
斧で斬れば霧散するが、すぐにまた別の靄から生まれてくる。
「陛下のお戻りまで、一匹たりとも通すな!」
バルドの咆哮が、森に響いた。
◆ ◆ ◆
魔王城の執務室で、リリエラは、魔王領の地図を広げていた。
各地からの念話と伝令が、ひっきりなしに届く。
湖の濁り。
街道の苔。
森の影の魔物。
地図の上の赤い印が、刻一刻と増えていく。
リリエラは、一つ一つに目を通し、指示を返した。
人手の足りない所へ、人を回す。物資の足りない所へ、物資を送る。
三百年、陛下の隣で見てきたやり方だった。
胃が、きりきりと痛んだ。
「……なるほど」
リリエラは、自分の胃のあたりを押さえて、小さく呟いた。
「陛下は、三百年、これを、お一人で」
机の引き出しから、陛下が置いていった胃薬を一包取り出し、水で流し込んだ。苦かった。
◆ ◆ ◆
同じ頃。
聖王国へ向かう、南の荒野。
白銀の狼の背に、旅装束の魔王が乗っていた。
その周りを、黒騎士と、氷姫と、幻術師と、骸骨が、それぞれの足で駆けている。
頭上を、小さなコウモリが飛んでいた。
ヴァルグレイヴは、シロの背で揺られながら、異界掲示板を開いていた。
【移動中】例の方救出作戦 Part20
1:魔王 ◆VaLgRaVe
移動中だ。白い狼の背に乗っている。
聖王国の国境まで、あと半日。予定通り、満月の前夜には着く。
だが、報告がある。我が城を空けた途端、システムが、魔王領の「是正」を始めた。
例の方が綺麗にした湖が、濁り始めている。
街道に、黒い苔が染み出している。
森から、瘴気でできた魔物が湧いている。
2:名無しさん
は?
3:名無しさん
システム、性格悪すぎだろ
4:名無しさん
例の方がやったこと全部、元に戻そうとしてんのかよ
5:名無しさん
魔王さん、城に戻らなくていいの!?
6:魔王 ◆VaLgRaVe
>>5
戻らん。
城は、秘書官に任せた。
秘書官のもとに、民が集まっているそうだ。
例の方に助けられた村の者たち、町の者たち、工兵隊、北方守備軍。
皆、例の方の手ぬぐいを握って、例の方の代わりに、湖や街道を守っている。
秘書官は、それを「勇者様救出支援本部」と名付けたそうだ。
7:名無しさん
ファンクラブじゃん!!
8:名無しさん
勇者グッズの手ぬぐいがここで生きるのかよ
9:名無しさん
第9スレの布告の時の伏線!?
10:名無しさん
泣くわこんなん
11:◆PDCAおじさん
>>6
魔王さん。
正直に申し上げると、お城の留守を狙われるリスクは、作戦会議で想定しておくべきでした。
私のCheck漏れです。
申し訳ありません。
ですが、魔王さんの判断は、正しいと思います。
12:魔王 ◆VaLgRaVe
>>11
課長が謝ることではない。
我も、気づかなかった。
気づいたのは、秘書官だ。
我が城を発つ前から、秘書官は、各地に人を配る準備をしていたらしい。
三百年、我は、何でも一人でやらねばならんと思っていた。
だが、秘書官は、三百年、我の隣で、全部、見ていたのだな。
13:◆PDCAおじさん
>>12
はい。
任せること。信じること。それも、上司の、大事な仕事です。
魔王さんは、今、それができています。
14:名無しさん
課長……
15:名無しさん
魔王さん、成長したなあ
16:名無しさん
最初のスレで「草とはなんだ」って言ってた人と同一人物とは思えない
17:魔王 ◆VaLgRaVe
>>16
草は、今も、よく分からん。
18:名無しさん
そこは成長してないのかよw
19:名無しさん
なあ、俺らにも、何かできることないのかな
こっちは日本だから、湖も街道も守れないけどさ
20:名無しさん
>>19
俺も、ずっとそれ考えてた
21:◆PDCAおじさん
>>19、>>20
私たちにできることは、二つあると思います。
一つは、見届けること。最後まで。
もう一つは、例の方が、もし日本に帰りたいとおっしゃった時のために。
帰り道を、一緒に考えることです。
召喚陣のこと。システムのこと。
私たちの世界と、魔王さんの世界が、なぜ繋がっているのか。
掲示板が繋がっている以上、私たちは、きっと、何かの役に立てるはずです。
22:名無しさん
帰り道か
23:名無しさん
よし、考えよう
24:名無しさん
見届けて、帰り道を一緒に考える。それが俺らの仕事だな
25:魔王 ◆VaLgRaVe
>>21
……ありがとう。
もうすぐ、国境だ。幻術師が、我らを巡礼者の一団に見せかける。
次に書き込むのは、聖王国の中からになる。
26:名無しさん
気をつけて
27:名無しさん
魔王さん、生きて帰れよ
28:名無しさん
例の方とスパイちゃんによろしく
◆ ◆ ◆
夕暮れ。
巡礼者の一団に化けた救出部隊は、聖王国の国境の門をくぐった。
門番は、白いフードを被った巡礼者たちと、大きな白い犬と、
肩に止まったコウモリを、眠そうな目で見送った。
東の空に、月が昇り始めていた。
ほとんど丸い月だった。明日の夜には、満ちる。
◆ ◆ ◆
同じ夕暮れ。
魔王城の南の地平線に、黒い影が、滲むように現れた。
瘴気が寄り集まってできた、輪郭の定まらない、無数の影。
獣の形、兵の形、名前のつけようのない形。
それが、地平線を埋め尽くすように、ゆっくりと、魔王城に向かって押し寄せてくる。
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【通知】魔王城の「是正」を開始します。
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リリエラは、城壁の上から、それを見ていた。
手には、陛下の胃薬と、勇者の手ぬぐいを握って。
城の奥、四天王の私室。
三週間、眠り続けている炎獄のイグニスの胸の炉で、青い炎が、ふっと、一度だけ、大きく揺らめいた。
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【報告】勇者の処理まで:一日
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