第21話 勇者様を救え(前編)
魔王が城を発った翌朝。
秘書官リリエラは、執務室の窓から、城門の前を見下ろしていた。
人だかりが、できていた。
昨夜のうちに、噂は魔王領中に広まっていた。
勇者が、聖王国に連れ去られた。
満月の夜に、殺される。魔王陛下が、自ら迎えに行かれた。
誰が広めたのかは、分からない。
北方守備軍の兵の誰かか、城の下働きの誰かか。
いずれにせよ、噂は、驚くほどの速さで、北街道を南へ、南街道を北へ、駆け抜けていった。
そして、夜明けとともに、人々が、城門の前に集まり始めた。
◆ ◆ ◆
「秘書官様! 秘書官様にお目通りを!」
城門の衛兵が、困り果てた顔で執務室に駆け込んできた。
「何事です」
「そ、それが……勇者様のことで、民が、陳情に……」
リリエラは、羽ペンを置いた。
城門の前に降りていくと、人だかりが、さっと道を開けた。
先頭にいたのは、杖をついた老人だった。
沼地の村の村長だ。
その後ろに、小さな子どもたちが、ずらりと並んでいる。
咳をしなくなった、あの村の子らだ。
「秘書官様。勇者様が、捕まったと聞きました」
村長は、深々と頭を下げた。
「我らに、何か、できることはございませんか」
リリエラは、答える前に、村長の後ろを見た。
子どもたちの後ろに、もっと大勢の人々がいた。
ルーメンの町の町長。灰岩の渓谷を通る行商人たち。
勇者に井戸を見てもらった町の人々。
教会の鐘を直してもらった村の神父。
魔王に命を救われたと言っていた、酒場の老婆。
北方守備軍の兵たちが、非番の者まで、城門の脇に集まっていた。
工兵隊長ドルガンが、工具袋を担いで、腕組みをしていた。
そして、その全員が、手に、同じものを握っていた。
手ぬぐいだった。
勇者が通った町々で売れていた、「勇者の布」と称する、あの手ぬぐい。
◆ ◆ ◆
「……皆さん」
リリエラは、静かに口を開いた。
「勇者の救出には、陛下と、四天王の方々が向かわれました。
聖王国の中での戦いになります。
皆さんが行かれても、危険なだけです」
人々の顔が、曇った。
「ですが」
リリエラは、少しだけ、言葉を切った。
三百年、魔王の秘書官として、感情を顔に出さずにやってきた。
陳情は、冷静に聞き、冷静に処理する。
それが仕事だった。
だが、今は。
「陛下は、勇者と、ネフィを連れて、必ず戻ると約束されました。
その時、この国が、陛下と勇者を迎えるにふさわしい国であるように。
……それを守るのは、私たちの仕事です」
村長が、顔を上げた。
「守る、とは」
リリエラが答えるより先に、目の前に、板が浮かんだ。
リリエラの前だけではなかった。
城門の前に集まった、全ての者の前に。
強制イベントの日以来、システムの板は、魔王以外の者にも、見えるようになっていた。
――――――――――
【通知】魔王の不在を確認しました。
【通知】魔王領の「是正」を開始します。
【通知】瘴気濃度を、規定値に戻します。
――――――――――
人だかりが、ざわめいた。
「瘴気……?」
「規定値に戻す、って、どういう……」
その時、南の空から、一羽の伝令鳥が、城門めがけて急降下してきた。
リリエラの腕に止まると、足に括りつけられた紙片を差し出す。
リリエラは、紙片を開いた。
沼地の村からだった。村に残った、若者の字で。
――勇者の湖が、濁り始めました。
村長の顔から、血の気が引いた。
子どもたちが、互いの顔を見合わせた。
リリエラは、紙片を握りしめた。
勇者が、三週間かけて湖にした湿原。
三百年、魔王が予算不足で見送り続けた、浄化事業。
子どもたちが、生まれて初めて咳をせずに眠れるようになった場所。
それを、システムは、元に戻そうとしている。
勇者が拭ってきたもの、全てを。
◆ ◆ ◆
「……秘書官様」
沼地の村の、一番小さな子どもが、リリエラのスカートの裾を、くいと引いた。
咳をしていた、あの子だった。
小さな手に、勇者の手ぬぐいを、ぎゅっと握りしめていた。
「ゆうしゃのおにいちゃんが、きれいにしてくれたの。また、きたなくなっちゃうの?」
リリエラは、しゃがんで、その子と目を合わせた。
秘書官の銀色の瞳が、子どもの手の中の手ぬぐいを見た。
それから、城門の前に集まった人々の手の中の、何百枚もの手ぬぐいを。
「……いいえ」
リリエラは、立ち上がった。
「汚させません。勇者が、戻ってくるまで」
三百年で、初めて、秘書官は、民の前で声を張り上げた。
「勇者が綺麗にしてくれたものを、今度は、私たちで守ります!
湖も、街道も、井戸も、鐘も!
勇者がいない間、勇者の代わりに、私たちが手を入れます!」
一瞬の、静寂。
それから、城門の前に、歓声が沸き起こった。
「おう!」
「勇者様の代わりに!」
「手ぬぐいなら、ここにあるぞ!」
ドルガンが、工具袋を地面に叩きつけた。
「わしら工兵隊は、灰岩の渓谷だ!
勇者の野郎がぴかぴかにしやがった街道、二度と汚させてたまるか!」
北方守備軍の兵たちが、拳を突き上げた。
「北の砦は、我らが!」
酒場の老婆が、杖を振り上げた。
「わしだって、まだ手は動くよ!」
リリエラは、その光景を、黙って見ていた。
三百年、陛下が一人で背負ってきたもの。
この国を、守るということ。
今は、こんなにたくさんの手が、それを支えようとしていた。
「――では、本日只今より」
秘書官は、いつもの冷静な声に戻って、宣言した。
「勇者様救出支援本部を、設置します」
その名を聞いて、誰かが、ぼそりと呟いた。
「……ファンクラブじゃねえか」
城門の前が、どっと笑いに包まれた。




