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幕間⑳ 白石、牢の中で布を受け取る

目を覚ますと、石の天井が見えた。

湿った、冷たい石。

黒い染みが、あちこちに広がっている。

鉄格子の向こうで、松明が一本、心細そうに揺れていた。


「……勇者さん」


ネフィの声がした。

白石の頭は、ネフィの膝の上に乗っていた。


「ここ、どこ」

「聖王国の、地下牢ですぅ。勇者さん、丸一日、目を覚まさなくて……」


ネフィの目が、赤く腫れていた。

白石は、ゆっくりと体を起こした。

鎧は着たまま。兜も、被ったまま。

右手の紋は、もう光っていなかった。

ただの、円と線の模様に戻っている。

左の手首には、青い石の腕輪が、ちゃんとあった。

それから、思い出した。


◆ ◆ ◆


謁見の間。朝の光。黒いマントの、大きな人。

――よく。

そこから先は、霧の中だった。体が、自分のものではなくなった。

剣を抜く手。ネフィを振り払う腕。

シロに振り下ろされる刃。

全部、見えていたのに、止められなかった。

そして、刃が、黒いマントの人の、脇腹に。

――白石殿。茶は、うまかった。

白石は、両手で、兜を押さえた。


「……刺しちゃった」


声が、震えた。


「ヴァルさんを。魔王を。私、刺しちゃった……」

「勇者さん」


ネフィが、白石の両手を、上から包んだ。


「浅かったですぅ。刃、ちゃんと逸れてましたぁ。

勇者さんが、逸らしたんですぅ。

わたし、見てましたぁ」

「でも」

「陛下は、あれくらいじゃ死なないですぅ。

胃に穴が開きかけても、次の日には政務してるような人ですからぁ」


ネフィは、泣きそうな顔で、笑ってみせた。

白石は、何も言えなかった。

ヴァルさんが、魔王だった。

焚き火の夜。

薬草茶。

臆病な男だ、と言っていた。

今は、少しだけ、怖くないそうだ、と。

あれは、自分のことだったのだ。


◆ ◆ ◆


「……布」


白石は、腰の荷物を探った。

いつもの布が、なかった。

荷物の中を、全部ひっくり返した。

魔王の返事。

置き手紙。

電車の切符。

それから、旅の細々した道具。

布だけが、どこにもなかった。


「謁見の間で、勇者さんが、最後に握ってた布……」


ネフィが、小さな声で言った。


「陛下の手に、残ったんだと思いますぅ。

消える直前、陛下、勇者さんの手に、指が触れてましたからぁ」


白石は、空っぽの荷物を見下ろした。

召喚されてから、ずっと持っていた布だった。

元の世界から、ポケットに入れたまま持ってきた、たった一枚の。

不思議と、悲しくはなかった。

あの人の手に残ったのなら、それでいいと思った。

そう思ったとたん、膝から、すうっと力が抜けた。

右手の紋の光が消えてから、頭の中の霧が、少しだけ晴れた気がしていた。

晴れたら、今まで見えなくて済んでいたものまで、見えてしまった。


「……ネフィ」

「はい、ですぅ」

「私、ちょっと、疲れた」


声に出したら、止まらなくなった。


「知らない場所で、知らない人に、魔王を倒せって言われて。

帰り方も、分からなくて。

お母さんに、電話もできなくて。

……それなのに、ずっと、平気な顔してた。

なんで平気だったのか、自分でも、分からない」


ネフィは、何も言わずに聞いていた。


「……帰りたい」


召喚されてから、初めて、口に出した言葉だった。

白石は、兜の中で、ぎゅっと目をつぶった。

泣かなかった。

泣いたら、もう立てなくなる気がした。

ネフィが、白石の手を、黙って握った。

小さくて、少しだけ冷たい手だった。

しばらく、二人とも、そのままでいた。


◆ ◆ ◆


足音がした。

鉄格子の向こうに、白いマントの騎士が立っていた。

聖騎士団長、ディートリヒ。

ネフィが、白石の前に飛び出して、両手を広げた。


「近寄らないでくださいっ!」


ディートリヒは、何も言わなかった。

鉄格子の下の隙間から、盆を一つ、差し入れた。

黒パンが二つ。

水差し。

それから、きちんと畳まれた、白い布が一枚。

白石は、その布を見つめた。


「……これ」

「布がないと、困るのだろう」


騎士は、感情のない声で言った。


「どうして……」


ディートリヒは、すぐには答えなかった。

鉄格子の向こうで、自分の右手を見下ろしていた。

指輪のなくなった、指を。


「……あの男に、指輪を砕かれた時」


騎士の声が、ほんのわずかに、揺れた。


「私は、ほっとした」


それだけ言うと、ディートリヒは背を向けた。

白いマントが、松明の光の中を、遠ざかっていく。


「満月まで、あと二日だ」


振り返らずに、騎士は言った。


「せいぜい、居心地よくしておくといい」


◆ ◆ ◆


白石は、白い布を、手に取った。

新品だった。まだ、一度も使われていない。

ごわごわしていて、手に馴染まない。

いつもの布とは、全然違った。

顔を上げると、牢の壁が見えた。

黒い染み。苔。こびりついた、何十年分、何百年分の汚れ。


「……ネフィ」

「はい、ですぅ」

「ちょっと、気になるところがあるんだけど」


ネフィは、きょとんとした顔をした。

それから、泣き笑いのような顔になった。


「……どうぞ、ですぅ。勇者さんらしいですぅ」


白石は、立ち上がった。

気になったので、手を入れた。


◆ ◆ ◆


夜。

牢の中は、見違えるほど綺麗になっていた。

石の壁は、切り出したばかりのように白く光り、

床の苔は一つ残らず消え、鉄格子は銀色に輝いていた。

見回りに来た牢番が、松明を取り落としそうになって、

「……部屋、間違えたか?」と首を傾げて去っていった。

白石とネフィは、ぴかぴかの床に並んで座って、黒パンを分け合っていた。

その時、白石の左手首で、何かが光った。

青い石だった。

嘆きの腕輪の、涙の形をした青い石が、ふわりと、光った。

一度。

二度。

三度。

それから、静かに、元の青に戻った。

白石は、腕輪を見つめたまま、動けなかった。


「勇者さん……今の……」


ネフィの声が、震えていた。


「この腕輪、宝物庫のものだから……陛下なら、光らせられるはずですぅ……」


言葉は、何もなかった。ただ、三回、光っただけだった。

それでも、白石には、分かった。

――迎えに行く。

そう言っているのだと。

白石は、腕輪を、右手でそっと包んだ。

紋のある右手で。

兜の中で、涙がこぼれた。止まらなかった。


「……会ったら」


声が、かすれた。


「謝ることが、一つ、増えちゃった」


ネフィが、白石の肩に、こつんと頭を乗せた。


「お礼を言うことも、一つ、増えましたねぇ」

「……うん」


ぴかぴかの牢の中で、二人は、満月までの夜を数えていた。

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