幕間② 白石、大きな犬を拾う
死ぬかと思った。
峠に入って少し歩いたところで、崖の上から山のような黒い獣が降ってきた。
狼、なのだと思う。ただ、大きさが白石の知っているどの生き物とも桁が違った。
咆哮ひとつで体が浮いた。背中から岩に叩きつけられ、息が止まった。
剣を抜いて斬りかかったら、刃が黒い靄に触れた瞬間、飴のように溶けた。
(あ、これ、無理だ)
白石は、自分が強くないことをよく知っている。剣なんて、城で三日習っただけだ。
それから先は、ひたすら転がって逃げた。爪が振り下ろされるたびに地面がえぐれ、土埃が舞う。
鎧の中で、体中が悲鳴を上げていた。
それでも、何度目かに転がって、狼を見上げた時。
白石は、妙なことに気がついた。
(……この子、すごく汚れてる)
黒い毛皮は、元の色が分からないほど汚れていた。
毛はもつれて固まり、あちこちに絡まった塊がぶら下がっている。
体から立ち上る黒い靄も、よく見ると、汚れそのものが煙を上げているように見えた。
何より、目だ。
金色の目の奥が、ひどく疲れているように見えた。
重たいものをずっと背負わされて、それを降ろす方法を知らない。
そういう目に見えた。
(苦しそう)
そう思ったら、もう駄目だった。
昔から、そうなのだ。汚れたまま放っておかれているものを見ると、
どうしても手を出さずにはいられない。それで何度も残業になって、何度も先輩に呆れられた。
白石は荷物から布を引っ張り出し、振り下ろされた前足に、しがみついた。
そこから先のことは、正直よく覚えていない。
無我夢中で手を動かした。とにかく、この子を楽にしてあげたかった。
気がつくと、土埃が晴れていた。
目の前に、真っ白な狼がいた。
陽の光を受けて、毛並みが銀色にきらきらと光っている。
ふわふわで、さらさらで、触ると指が沈み込む。
狼は、きょとんとした顔で自分の前足を見つめていた。
それから白石を見て、もう一度自分の前足を見て。
ごろん、と仰向けに転がった。
お腹を見せて、尻尾をぶんぶん振っている。
「……え、撫でていいの?」
尻尾の勢いが増した。
撫でた。わしゃわしゃと撫でた。
狼は目を細めて、喉の奥から甘えるような音を出した。
(なんだ。いい子じゃない)
さっきまで殺されかけていたことは、ひとまず忘れることにした。
◆ ◆ ◆
峠を下り始めると、白い狼はついてきた。
追い払っても、ついてくる。止まると、止まる。振り返ると、尻尾を振る。
「……一緒に来る?」
尻尾が千切れそうになった。
白石は、狼に名前をつけることにした。
「じゃあ、シロ」
狼が、ぴたりと動きを止めた。
なんとも言えない顔をしている。
不満なような、困ったような、それでいて嬉しいような。
「嫌?」
しばらく考え込むように首を傾げた後、狼は「わふ」と一声鳴いた。
たぶん、了承の意味だと思う。
その夜、野宿をした。焚き火のそばで、白石はシロの毛をブラッシングした。
昼間、手持ちの布の端切れと枝で、急ごしらえで作ったブラシだ。
シロは途中で何度か、遠くを見るような目をして耳を伏せた。
誰かに呼ばれているような仕草だった。
そのたびに、シロは首を振り、白石の膝に顎を乗せ直した。
「誰かに呼ばれてるの?」
「わふ」
「いいの? 行かなくて」
「わふ」
よく分からないが、いいらしい。
夜が更けると、シロは白石を包み込むように丸くなった。
お日さまの匂いがする、温かい毛並み。
召喚されてから、初めてだった。
この世界で、誰かと一緒に眠るのは。




