第20話 黒騎士の諫言(前編)
黒騎士ヴォルフの手が、大剣の柄にかかっていた。
謁見の間にいる誰もが、息を止めていた。
セルシアが、半歩前に出かける。
バルドが、斧を握り直す。
シロが、低く唸った。
ヴァルグレイヴは、玉座から立ち上がらなかった。
「……抜くか、ヴォルフ」
「陛下が、お聞き入れくださらぬなら」
面頬の奥の声は、静かだった。
怒りも、迷いもなかった。
三百年、魔王の剣として仕えてきた男の声だった。
「申し上げます。聖王国へ向かわれること、お止めください」
◆ ◆ ◆
ヴァルグレイヴは、手の中の布を握りしめた。
止めるな、と言いたかった。
勇者は、三日後に殺される。
一刻も早く、迎えに行かねばならない。
だが、その時、目の前の異界掲示板の板が目に入った。
25:魔王 ◆VaLgRaVe
四天王の最後の一人が、我を止めに来た。
聖王国へ行くな、と。剣に手をかけている。
26:名無しさん
え、ここで身内が!?
27:名無しさん
なんで止めるんだよ!
28:◆PDCAおじさん
魔王さん。
落ち着いて、聞いてください。
その方の話を、聞いてください。最後まで。
上司が大きな決断をする時、反対する部下は、宝です。
みんなが賛成している時に、あえて止めに来る部下は、
たいてい、上司に見えていないリスクを見ています。
その方の懸念を、作戦に組み込みましょう。
それが、Planの質を上げます。
29:名無しさん
課長……
30:名無しさん
たしかに、俺ら勢いで「行け!」って言ってたもんな
ヴァルグレイヴは、板から目を上げた。
大剣に手をかけたまま、片膝もつかずに立っている黒騎士を、まっすぐに見た。
「……ヴォルフ」
「は」
「話せ。お前が、何を恐れているのか。全て」
黒騎士の肩が、わずかに揺れた。
剣を抜かれる覚悟はしていても、話を聞かれる覚悟は、していなかったようだった。
◆ ◆ ◆
「一つ」
ヴォルフは、大剣の柄から手を離さないまま、言った。
「罠です。システムは、勇者を聖王国へ連れ去り、処理の日を、わざわざ陛下に告げました。
三日後、満月の夜に、と。……なぜ、告げる必要があるのですか」
広間が、静まり返った。
「陛下を、聖王国へ誘い出すためです。
予言は、勇者が魔王を討つこと。
勇者を城から引き離し、陛下を聖王国の召喚陣の前に立たせる。
そこで、何をするつもりか。私には分かりません。
ですが、陛下が行けば、敵の筋書き通りになる」
ヴァルグレイヴは、黙って聞いていた。
「二つ」
「戦です。陛下が軍を率いて聖王国に入れば、三百年ぶりの戦になります。
陛下が三百年かけて築いた平穏が、崩れる。民が、死にます」
「三つ」
ヴォルフの声が、初めて、わずかに揺れた。
「陛下が、倒れれば。
この国は、終わります。
陛下は、昨日、勇者の剣を、避けずにお受けになった。
胃に穴を開けかけたのは、つい先日のことです。
……陛下は、ご自分の命を、軽く扱いすぎておられる」
黒騎士は、そこで言葉を切った。
「勇者一人のために、陛下の命と、この国を、賭けるおつもりですか」
◆ ◆ ◆
長い沈黙だった。
ヴァルグレイヴは、手の中の布を、見下ろした。
ヴォルフの言うことは、全て正しかった。
システムの罠。戦。自分の体。
どれも、勇者を迎えに行くことしか考えていなかった頭には、見えていなかった。
「……ヴォルフ」
「は」
「お前の言う通りだ」
黒騎士が、面頬の奥で、息を呑む気配がした。
「罠だろう。戦にしてはならん。
我も、死ぬわけにはいかん。
この国にも、異界の者たちにも、そう約束した」
ヴァルグレイヴは、立ち上がった。
「だから、お前の三つの懸念を、全て潰す作戦を立てる。
軍は動かさん。
少数で、密かに入る。
罠だと分かっているなら、罠の上を行く。
そして、我は生きて帰る」
魔王は、黒騎士の前まで歩いていった。
「その作戦に、お前の剣が要る。……それでも、止めるか」
ヴォルフは、しばらく動かなかった。
やがて、大剣の柄から、ゆっくりと手を離した。
「……陛下が、私の話を聞いてくださったのは、三百年で、初めてです」
「そうか。……すまなかった」
「いいえ」
ヴォルフは、首を横に振った。
それから、面頬に手をかけ、ゆっくりと持ち上げた。
兜の下から現れたのは、灰色の髪の、壮年の魔族の顔だった。
額に、古い傷跡が一筋、走っている。
「もう一つだけ、申し上げたいことがあります。私が、勇者を、なぜ気にかけるのか」
◆ ◆ ◆
「三百年前、私は、南の平原の戦場にいました」
ヴォルフは、謁見の間の柱の陰に、目を向けた。
そこに、襤褸の外套の骸骨が、ひっそりと佇んでいた。
強制イベントの時、勇者に弾き飛ばされ、骨の何本かにひびが入ったまま。
「まだ、剣もろくに握れぬ、見習いの少年兵でした。
初めての戦場で、恐ろしくて、足がすくんで、動けなかった」
モルドの眼窩の炎が、ゆらりと揺れた。
「目の前に、聖王国軍の先頭の男が来ました。
異界の勇者だと、誰かが叫んでいました。
剣を振り上げて。……私は、死ぬのだと思いました」
ヴォルフの声は、静かだった。
「その男は、剣を下ろしました。
私の顔を見て。
そして、次の瞬間、胸を押さえて、倒れた」
広間の誰もが、柱の陰の骸骨を見ていた。
「私は、三百年、あの男が誰だったのか、知らずにいました。
あの男が、なぜ剣を下ろしたのか。なぜ死んだのか。
……城に着いて、兵たちの噂で、モルド殿がかつての最初の勇者だったと聞くまで」
ヴォルフは、柱の陰へ、歩いていった。
骸骨の前で、立ち止まった。
「――あなた、だったのですね」
モルドは、長いこと、黙っていた。
眼窩の炎が、黒騎士の額の傷跡を、じっと見つめていた。
「……生きて、いたか」
かすれた声だった。
「あの時の、怯えた顔の、小僧が。……生きて、いたか」
「はい」
ヴォルフは、骸骨の前に、両膝をついた。
「あなたが剣を下ろしてくださったから、私は、三百年、生きました。
陛下の剣となり、この国を守ってきました」
黒騎士は、深く、頭を垂れた。
「借りを、返させてください。
あなたと同じ国から来た、あの勇者を、救うことで」
モルドの骨の手が、震えながら持ち上がり、黒騎士の灰色の頭に、そっと置かれた。
「……そうか。……我の剣は、無駄では、なかったか」
三百年分の何かが、骸骨の声から、ほどけていくようだった。




