第19話 強制イベント(中編)
勇者が、剣を抜いた。
鞘走りの音が、静まり返った謁見の間に、細く響いた。
召喚されてから一度も抜かれたことのない刃が、朝日を受けて、白く光った。
刃の表面を、紋と同じ色の光が、脈打つように這っていた。
勇者は、一歩、踏み出した。
玉座の前に立つ、魔王に向かって。
「勇者さん! だめですぅ!」
ネフィが、勇者の右腕にしがみついた。
勇者は、振り向きもしなかった。
ただ、腕を一振りした。
それだけで、小柄な夢魔の体は、紙のように宙を舞い、広間の床を転がった。
あり得ない力だった。
勇者は、強くない。剣も、体術も、並の兵士と変わらない。
その勇者の腕が、ネフィを軽々と振り払った。
紋が、勇者の体を、動かしていた。
◆ ◆ ◆
シロが、勇者の前に立ちふさがった。
白銀の毛を逆立て、牙を剥き、低く唸る。
だが、跳びかかりはしなかった。
勇者に、牙を立てることはできなかった。
勇者の剣が、振り下ろされた。
シロは、避けなかった。
刃が、白い肩をかすめた。
白銀の毛並みに、赤い線が走る。
それでも、シロは、一歩も引かなかった。
「――異界の者よ!」
柱の陰から飛び出したモルドが、勇者の右手首をつかんだ。
骨の手と、紋の刻まれた手が、重なる。
二つの紋が、共鳴するように、ぎらりと光った。
「曇るな! そなたは、ここまで、己の手で曇りを拭ってきたのだろう! 我のように、なるな!」
勇者の動きが、一瞬だけ、鈍った。
だが、次の瞬間、紋の光が膨れ上がり、モルドの骨の手を、弾き飛ばした。
骸骨の体が、柱に叩きつけられ、乾いた音を立てて崩れかける。
「陛下を、お守りします!」
セルシアが、片手を振るった。
勇者の足元から、透き通った氷が這い上がる。
氷は、勇者の膝まで凍りついた。
そして、紋の光に触れた瞬間、ぱきり、と砕け散った。
バルドが、斧を構えて飛び出しかけた。
ドルガンが、工具を握りしめた。
ミラージュが、手鏡を掲げた。
「――手を出すな!」
ヴァルグレイヴの声が、広間を震わせた。
全員の動きが、止まった。
「誰も、勇者に手を出すな。……我が、行く」
◆ ◆ ◆
31:魔王 ◆VaLgRaVe
例の方が、剣を抜いた。紋に、体を操られている。
工作員も、狼も、元・最初の勇者も、氷の四天王も、止められなかった。
我が、行く。
剣は、抜かない。
32:名無しさん
魔王さん!?
33:名無しさん
剣抜かないって、それ……!
34:◆PDCAおじさん
魔王さん、待ってください!
「何が起きても、例の方に手を出さない」とは申しましたが、
ご自分の身を守ることまで、やめてくださいとは申しておりません!
35:魔王 ◆VaLgRaVe
>>34
分かっている。
だが、我が剣を抜けば、予言の通りになる。
魔王と勇者が、斬り合う。
システムの、望む通りに。
我は、それを、断る。
◆ ◆ ◆
ヴァルグレイヴは、玉座の前から、一歩、踏み出した。
黒いマントの裾が、床を擦った。
剣は、腰に下げたまま。
両手を、体の横に下ろして。
勇者も、一歩、踏み出した。
十二歩の距離が、十歩になった。
八歩。
五歩。
勇者の剣先が、ゆっくりと持ち上がった。
紋の光を帯びた刃が、魔王の胸の、真ん中を指していた。
三歩。
ヴァルグレイヴは、立ち止まった。
兜の奥が、見えなかった。
顔が、見えなかった。
ただ、そこから、何も見ていないような、空っぽの気配が伝わってきた。
召喚の日の勇者も、きっと、こうだったのだろう。
モルドも。そして、三百年の間に、我が手にかけた、十人の勇者たちも。
「……すまなかった」
ヴァルグレイヴは、誰にともなく、そう言った。
勇者が、踏み込んだ。
刃が、魔王の胸を、目がけて。
ヴァルグレイヴは、避けなかった。
◆ ◆ ◆
冷たいものが、脇腹を裂いた。
胸の真ん中ではなかった。
刃は、ほんのわずかに、逸れていた。
心臓から、拳一つ分、外れた場所に。
勇者の剣を握る手が、震えていた。
小刻みに。それから、だんだんと、激しく。
紋の光が、ちらちらと明滅していた。
まるで、何かと、争っているように。
ヴァルグレイヴは、脇腹に刃を受けたまま、勇者の兜を、見下ろした。
その奥にいる、誰かに向かって。
「――白石殿」
勇者の肩が、びくりと跳ねた。
「茶は、うまかった」
静かな声だった。
鍋直しの口調ではなく、魔王の声で。
勇者の手が、剣の柄から、離れた。
刃が、魔王の脇腹に刺さったまま、勇者の手から滑り落ちかける。
勇者の左手が、ぎこちなく、腰の荷物に伸びた。
何かを、探すように。
取り出したのは、布だった。
いつもの、布。
勇者は、震える左手で、その布を、自分の右手の甲に押し当てた。
紋の上に。
拭った。
何度も。
何度も。
必死に。
紋の光が、布の下で、暴れるように明滅する。
落ちなかった。
紋は、色一つ変えなかった。
それでも、勇者は、拭うのをやめなかった。
兜の奥から、くぐもった、嗚咽のような声が漏れていた。
「……ヴァル、さん」
かすれた声だった。勇者の、本当の声だった。
「ごめん、なさい……結界、拭いちゃって……ごめんなさい……」
ヴァルグレイヴの喉の奥が、焼けるように熱くなった。
――――――――――
【警告】強制イベントに、異常が発生しています。
【警告】勇者の制御が、維持できません。
【通知】強制イベントを、中断します。
【通知】勇者を、回収します。
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全ての者の前に、板が浮かんだ。
そして、勇者の体が、光り始めた。
右手の紋から、腕へ、肩へ、胸へ。
光が、勇者の全身を、包み込んでいく。
鎧が、輪郭を失っていく。
「――勇者さんっ!」
床に倒れていたネフィが、跳ね起きた。
翼を広げ、一直線に勇者に飛びつく。
光に包まれた勇者の腕に、しがみつく。
ヴァルグレイヴは、手を伸ばした。
勇者の、布を握った左手に向かって。
指先が、触れた。
その瞬間、光が弾けた。
◆ ◆ ◆
光が消えた時、広間の中央には、誰もいなかった。
勇者も、ネフィも。
ヴァルグレイヴの手の中に、一枚の布だけが、残っていた。
何の変哲もない、使い込まれた布。
端がほつれ、何度も洗われて、色が褪せている。
シロが、空っぽになった床に駆け寄って、匂いを嗅ぎ回った。
それから、天井に向かって、長く、長く、遠吠えをした。
広間中の誰も、声を出せなかった。
ヴァルグレイヴは、脇腹に刺さったままの剣にも気づかず、手の中の布を、見つめ続けていた。




