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幕間⑱ 白石、召喚の日を思い出す

その夜、白石は眠れなかった。

野営地の焚き火のそばで、膝を抱えて、北の空を見ていた。

黒い城の尖塔が、星明かりの中に、くっきりと浮かんでいる。

明日には、あそこに着く。

シロは、白石の背中に寄り添って丸くなっていた。

ネフィは、隣で毛布にくるまって、うとうとしていた。

白石は、召喚された日のことを、思い出そうとしていた。


◆ ◆ ◆


終電の一本前。

駅のホーム。


足元が光った。

気がつくと、石造りの広間にいた。


金ぴかの冠の男。

白い法衣の神官たち。

勇者よ、よくぞ参られた。

そこまでは、はっきり覚えている。

その後が、ぼんやりしていた。


魔王を倒せ、と言われた。

白石は、「……はあ」と答えた。

それだけだった。


今思えば、おかしかった。

どうして、帰してくださいと言わなかったのだろう。

ここはどこですかと、なぜ私なんですかと、どうやったら元の世界に戻れるんですかと。

聞くべきことは、山ほどあったはずだ。


明日も仕事があった。

現場の割り振りが決まっていた。

実家の母に、年末は帰れないと電話するつもりだった。

なのに、あの日の白石は、そのどれも、思い出さなかった。


神官が、右手に何かを刻んだ。

少しだけ、ちくりとした。

それからの三日間は、まるで、すりガラス越しに世界を見ているようだった。

鎧を着せられ、剣の振り方を教わり、魔王の恐ろしさを聞かされた。

そのどれもに、白石は、はい、はい、と頷いていた。

城を出る時、見送りがなかったことにも、何も感じなかった。


(……曇ってたんだ)


白石は、右手の甲を見つめた。

円と線を組み合わせた、複雑な紋様。

森戸さんの骨の手に刻まれていたのと、同じ形。

疑いを、曇らせる紋。


◆ ◆ ◆


最初に、すりガラスに、小さな隙間ができたのは、いつだったろう。

二つ目の宿場町の夜だった、と白石は思った。

宿の窓から見えた、角の生えた魔族と、人間の二人連れ。

楽しそうに話しながら、並んで歩いていった。

――魔王に支配されて、苦しんでいる……んだよね?

あの時、初めて、何かが噛み合わないと思った。


それから、黒い狼の、疲れた目。

罠だらけの道。

ネフィの泣きそうな顔。

千の亡者の、ありがとうという声。

咳をしなくなった子ども。

魔王に命を救われた老婆。

一つ一つ、気になるところに手を入れるたびに、

すりガラスの曇りが、少しずつ、少しずつ、晴れていった。

自分では、気づかないうちに。


(森戸さんは、そうじゃなかったんだ)


三百年前、同じように呼ばれて、同じように曇らされて。

曇りが晴れた時には、もう、戦場の真ん中にいた。

剣を下ろした瞬間に、紋に殺された。

それから三百年、骨だけになって、次の誰かに、本当のことを伝えようとしていた。

白石は、膝に顔をうずめた。


江戸時代の人だと言っていた。

白石の知っている日本とは、ずいぶん違う日本から来た人。

それでも、同じ国の人だった。

その人が、三百年、ひとりぼっちで、待っていたのだ。


◆ ◆ ◆


「……勇者さん」


隣で、ネフィが目を覚ましていた。

毛布の中から、心配そうに白石を見上げている。


「眠れないんですかぁ?」

「うん。ちょっとね」


白石は、右手の紋を、ネフィに見せた。


「ネフィ。お願いがあるんだけど」

「はい、ですぅ」

「明日、もし、私がおかしくなったら」


ネフィの顔から、表情が消えた。


「森戸さんが言ってた。魔王の前に立ったら、システムが、必ず何かしてくるって。

また、心を曇らされるかもしれないって」


白石は、紋を、左手で強く握った。


「もし、私が、魔王に剣を向けようとしたら。

止めて。どんな方法でもいいから」


ネフィは、しばらく黙っていた。

それから、毛布から抜け出して、白石の両手を、自分の両手で包んだ。

紋のある右手も、一緒に。


「止めますぅ。絶対に」


ネフィの声は、震えていなかった。


「勇者さんの心が曇ったら、わたしが、拭いてあげますぅ。

勇者さんみたいに、上手にはできないかもしれないですけどぉ」


白石は、思わず、笑ってしまった。


「……うん。お願い」


背中で、シロが、ぐるる、と低く喉を鳴らした。

わたしも、と言っているようだった。

白石は、シロの首筋に手を回して、ふかふかの毛並みに、兜ごと顔をうずめた。


◆ ◆ ◆


夜が、明け始めていた。

北の空が、薄く白んでいく。

黒い城の尖塔が、朝日を受けて、輪郭を光らせ始めていた。

白石は、荷物の奥から、三枚の紙を取り出した。

上等な便箋に書かれた、不器用な、大きな字の返事。

――会おう。

安物の紙に書かれた、同じ字の置き手紙。

――茶、うまかった。城で待つ。

そして、召喚された日から、ずっと荷物の底にしまったままだった、くしゃくしゃの紙切れ。

元の世界の、電車の切符。

白石は、三枚を重ねて、胸に当てた。

会いに行く。

話をして、謝って、お礼を言う。

それから、帰り道のことを、考える。


「行こう」


ネフィが、頷いた。

シロが、立ち上がった。

魔王城まで、あと半日。

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