第17話 鍋直しのヴァル(後編)
白いマントの騎士たちは、北方守備軍の歩哨を、まるで存在しないかのようにすり抜けてきた。
聖別された鎧が、淡く光っている。
魔族の目をくらます、聖なる加護だ。
千の兵が気づいた時には、騎士たちは既に、野営地の中央、勇者の焚き火の前に、馬を止めていた。
先頭の騎士が、馬上から、焚き火を見下ろした。
聖騎士団長ディートリヒ。
「期限には、まだ早いはずだが」
ヴァルグレイヴは、勇者の右手を握ったまま、低い声で言った。
鍋直しの口調を、忘れていた。
ディートリヒの目が、鍋を背負った男に向けられた。
感情のない目だった。
「神託が下りた」
騎士は、淡々と言った。
「魔王が、勇者の傍にいる、と」
焚き火の周りの空気が、凍りついた。
木の陰で、ミラージュの手鏡が、ぎしりと軋む音がした。
「……魔王、だと」
ヴァルグレイヴは、喉の奥で笑ってみせた。
「ここにいるのは、勇者さんと、お連れの二人と、鍋直しが一人だけだ。どこに魔王がいるってんだ」
ディートリヒは、答えなかった。ただ、鍋直しの男を、じっと見つめていた。
それから、右手を持ち上げた。
「勇者殿。神託は、こうも告げている。勇者が剣を取らぬなら、期限を待つ必要はない、と」
指輪が、白く光った。
◆ ◆ ◆
ヴァルグレイヴの手の中で、勇者の右手が、焼けた鉄のように熱くなった。
勇者が、声にならない声を上げて、体を折った。
「勇者さんっ!」
ネフィが飛びつく。
シロが牙を剥いて跳びかかる。
騎士たちの剣が、一斉に抜かれる。
ヴァルグレイヴは、立ち上がった。
鍋が、背中から転げ落ちて、地面で派手な音を立てた。
一歩。二歩。馬上のディートリヒの前まで歩いていく。
騎士たちの剣先が、鍋直しの男の喉元に突きつけられた。
それでも、足は止まらなかった。
ヴァルグレイヴは、手を伸ばした。
そして、ディートリヒの右手首を、つかんだ。
「――!」
騎士団長の顔に、初めて、表情が浮かんだ。
驚愕だった。
手首を握る力が、人間のものではなかった。
聖別された籠手が、みしりと音を立てて歪む。
振りほどこうとしても、びくともしない。
「貴様……何者だ」
ヴァルグレイヴは、答えなかった。
指輪をはめた、騎士の指を、もう片方の手で、包むように握った。
胃の奥で、何かが軋んだ。わずかに戻りかけていた魔力を、根こそぎ、指先に集める。
「この者は」
ヴァルグレイヴの声が、鍋直しのものではなくなっていた。
「我に、会いに来るのだ。話をしに」
指輪が、砕けた。
銀の破片が、焚き火の光を受けて、きらきらと地面に散らばった。
勇者の右手の光が、消えた。
◆ ◆ ◆
ディートリヒは、馬上で、砕けた指輪の残骸と、目の前の男を見比べていた。
鍋直しの男の顔が、焚き火の揺らめきの中で、一瞬だけ、ぼやけていた。
灰色の目の奥に、紅い光が、ちらりと覗く。
くたびれた額の上に、二本の角の影が、かすかに浮かぶ。
木の陰で、ミラージュが歯を食いしばって、手鏡を支え直した。
輪郭が、元に戻る。
だが、ディートリヒは、見ていた。
「……そうか」
騎士団長は、感情のない声で、呟いた。
「神託は、正しかったか」
ヴァルグレイヴは、騎士の手首を放した。
「去れ」
たった一言だった。
野営地のあちこちから、千の兵が、松明を手に、焚き火の周りに集まってきていた。
先頭に、斧を担いだ牛頭の巨漢。
北方守備軍の将、バルド。
その目が、鍋直しの男を見て、大きく見開かれた。
バルドは、何も言わなかった。
ただ、斧を構え直し、騎士たちの退路を塞ぐように、その後ろに立った。
ディートリヒは、しばらく黙っていた。
それから、手綱を引いた。
「指輪は、神より賜った道具に過ぎない」
馬首を返しながら、騎士は言った。
「砕けても、紋は消えぬ。紋は、神のものだ。神が望めば、いつでも、勇者殿の命は、神のもとへ還る」
白いマントの一団は、夜の闇へと去っていった。
◆ ◆ ◆
勇者は、ネフィの腕の中で、荒い息をついていた。
右手の紋は、もう光っていなかった。
ヴァルグレイヴは、地面に転がった鍋を拾い上げた。
ぴかぴかの鍋の表面に、焚き火と、くたびれた男の顔が映っていた。
「……ヴァルさん」
勇者が、かすれた声で呼んだ。
「今の……指輪……」
「鍋直しは、金物の扱いに慣れてるんでな」
ヴァルグレイヴは、鍋を背負い直した。口調を、鍋直しのものに戻して。
「勇者さん。今夜は、もう休みな。城まで、あと少しだろう」
「……はい」
勇者は、まだ何か言いたそうだった。
だが、紋の痛みが残っているのか、ネフィの肩にもたれて、目を閉じた。
ネフィが、勇者の頭越しに、ヴァルグレイヴを見上げていた。
泣きそうな顔で。それでいて、笑いそうな顔で。
ヴァルグレイヴは、唇の前で、もう一度、人差し指を立てた。
シロが、尻尾を一度だけ、ぱたりと振った。
◆ ◆ ◆
夜明け前。
野営地の外れで、ミラージュが、手鏡を下ろした。
鍋直しの男の姿が、ゆらりと揺らいで、角と黒いマントの巨躯に戻る。
ヴァルグレイヴは、その場に膝をついた。魔力は、今度こそ、空っぽだった。
「陛下」
「……大事ない」
「大事ですわ。でも」
ミラージュは、手鏡を胸に抱いて、勇者の焚き火の方を振り返った。
「ちゃんと、見ましたわ。あの方を」
千年の幻術師は、少しだけ、目を潤ませていた。
「陛下のお顔を、一度も拭こうとなさいませんでしたわね。
曇りを見つけたら、何でも拭いてしまう方なのに」
ヴァルグレイヴは、黙っていた。
「きっと、陛下のお顔は、曇っていなかったのですわ」
――――――――――
【警告】聖騎士団長の指輪が、破壊されました。
【警告】魔王と勇者の接触を確認しました。
【通知】予言の、最終段階に移行します。
――――――――――
ヴァルグレイヴは、浮かんだ板を見上げた。
最終段階。
板は、それ以上何も告げずに、消えた。
◆ ◆ ◆
朝。
白石が目を覚ますと、焚き火のそばに、ヴァルの姿はなかった。
代わりに、昨夜、薬草茶を注いだ木の椀が、きれいに洗われて、伏せて置いてあった。
椀の下に、一枚の紙が挟まっていた。
大きくて、角ばっていて、ところどころ、力を入れすぎてインクが滲んだ字で。
――茶、うまかった。城で待つ。
署名は、なかった。
白石は、その紙を、長いこと見つめていた。
大きくて、角ばった字。どこかで、見たことがある気がした。
荷物の奥に、大事にしまってある、上等な便箋の返事。
「……ネフィ」
「は、はいぃ?」
「ヴァルさんって」
ネフィは、目を泳がせた。
思いきり泳がせた。
シロが、ものすごい勢いで、尻尾を振っていた。
白石は、紙を見て、ネフィを見て、シロを見た。
それから、ふっと、兜の中で笑った。
「……まさかね」
紙を丁寧に畳んで、荷物の奥の、上等な便箋の隣にしまった。
北の空の下に、黒い城の尖塔が、小さく見え始めていた。
――――――――――
【報告】勇者の進行度:93%
――――――――――




