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第17話 鍋直しのヴァル(中編)

北方守備軍の野営地は、街道沿いの丘の上に広がっていた。

千の兵の焚き火が、夜の闇に点々と灯っている。

その中央、一番小さな焚き火を、鎧の勇者と、紫の髪の夢魔と、白銀の狼が囲んでいた。

ヴァルグレイヴは、鍋を背負って、その焚き火に近づいていった。

足が、重かった。胃が、きりきりと痛んだ。三百年、数え切れないほどの戦場に立ってきた。

だが、これほど緊張したことは、一度もなかった。

少し離れた木の陰で、ミラージュが手鏡を構えて、幻を支えている。


「――鍋、直しますぜ」


声をかけると、勇者が顔を上げた。


◆ ◆ ◆


最初に反応したのは、狼だった。

シロは、ぴくりと鼻を動かし、ヴァルグレイヴの方を見た。

金色の目が、まん丸に見開かれる。

次の瞬間、尻尾が、ちぎれんばかりに振られ始めた。


(……ガルム。やめろ)


ヴァルグレイヴは、目だけで訴えた。

シロは、尻尾を振ったまま、ぴたりと動きを止めた。

そして、何事もなかったかのように、焚き火のそばに顎を乗せた。

尻尾だけが、まだ、ぱたぱたと地面を叩いていた。

次に反応したのは、ネフィだった。

夢魔の少女は、ヴァルグレイヴの顔を見て、それから、胃のあたりを押さえている手を見た。


「へ……」


ネフィの口が、「へいか」の形に開きかけた。

ヴァルグレイヴは、勇者に見えないように、唇の前で人差し指を立てた。

ネフィは、ぱくん、と口を閉じた。

それから、両手で口を押さえて、なぜか涙目になった。


「鍋直し、ですか?」


勇者だけが、普通の顔をしていた。兜の奥の声は、思っていたより、ずっと柔らかかった。


「ああ。旅の鍋直しで、ヴァルという。

北方守備軍の兵隊さんたちに、

鍋の修理はいらんかと思って寄ったんだが、

どこも断られちまってね」


ミラージュに教わった口調で、ヴァルグレイヴは言った。

慣れない喋り方に、舌がもつれそうだった。


「よかったら、そっちの鍋も見ましょうか」

「あ、はい。じゃあ、お願いします」


勇者が差し出した鍋を、ヴァルグレイヴは受け取った。

受け取って、固まった。

鍋は、ぴかぴかだった。

底も、縁も、取っ手の付け根も。

焦げ一つ、凹み一つ、錆一つない。新品よりも、新品のようだった。


「……直すところが、ないな」

「あ、すみません。いつも、使ったら手入れしてるので」


勇者は、申し訳なさそうに頭をかいた。

ヴァルグレイヴは、空っぽの鍋を手に、しばらく途方に暮れた。

ネフィが、顔を背けて、肩を震わせていた。


◆ ◆ ◆


結局、鍋直しの仕事はなかった。

それでも、勇者は「せっかくだから」と、焚き火のそばに席を空けてくれた。


「お茶、どうですか。沼地の村でもらった薬草茶なんですけど、胃にいいらしくて」

「胃に」

「はい。ヴァルさん、さっきから、ずっとお腹のあたり押さえてるので」


ヴァルグレイヴは、自分の手を見た。無意識に、胃を押さえていた。


「……職業病でな」


勇者が、木の椀に茶を注いで、差し出した。

受け取った椀は、温かかった。

一口すすると、草の香りが、ほろ苦く鼻に抜けた。

痛んでいた胃の奥が、少しだけ、ほどけた気がした。


「……うまいな」

「よかった」


勇者は、自分の椀を、兜の隙間から少しずつ飲んでいた。

焚き火が、ぱちぱちと音を立てていた。


◆ ◆ ◆


「ヴァルさんは、ずっと鍋直しを?」

「ああ。まあ、似たようなもんを、長いことやってる」


ヴァルグレイヴは、焚き火を見ながら、言葉を選んだ。


「人の困りごとを、片付けて回る仕事だ。

壊れたところを直して、足りないところを補って。

……誰にも、礼なんぞ言われんがな」

「あ、それ、分かります」


勇者が、少しだけ身を乗り出した。


「私も、前の世界で、似たような仕事をしてたんです。

人の家とか会社に行って、困ってることを片付ける仕事。

地味だし、誰にも気づかれないことの方が多いんですけど」

「……そうか」

「でも、片付け終わった後の、すっきりした感じが、好きでした」


兜の奥の声が、懐かしそうに笑っていた。

ヴァルグレイヴは、椀の中の茶を見つめた。

三百年、帳簿をつけ、陳情書を読み、灌漑の予算を組んできた。

誰に礼を言われることもなく。

それでも、民が咳をせずに眠れると聞いた時、確かに、胸のどこかが、すっきりとした。


「わしの雇い主はな、胃の弱い男でな」


気がつくと、そう口にしていた。


「真面目すぎて、何でも一人で背負い込む。

誰にも相談せずに、全部自分で片付けようとして、それで胃を壊す」

「あはは。それ、魔王もそうらしいですよ」


勇者が、くすりと笑った。

ヴァルグレイヴは、椀を取り落としそうになった。

ネフィが、焚き火の向こうで、激しくむせていた。


◆ ◆ ◆


「ヴァルさんは、魔王に会ったこと、ありますか」


勇者が、ふと、そう聞いた。

ヴァルグレイヴは、少し黙ってから、答えた。


「……遠くから、な」

「どんな人でした?」


焚き火の炎が、揺れていた。

ヴァルグレイヴは、自分のことを、どう言えばいいのか分からなかった。

三百年、自分のことを、誰かに話したことなどなかった。


「……臆病な男だ」


やがて、ぽつりと、言葉がこぼれた。


「死ぬのが怖くて、怖くて。

勇者に討たれるのが怖くて、三百年かけて、世界を征服しちまった。

民に恨まれぬよう、必死に国を治めて。勇者が来るたびに、殺してきた」


勇者は、黙って聞いていた。


「……だが、今は、少しだけ、怖くないそうだ」

「怖くない?」

「ああ。話をしに来ると言った者がいて。

異界にも、相談に乗ってくれる者たちができて。

……一人で背負わなくていいと、初めて、思えたそうだ」


ヴァルグレイヴは、椀を両手で包んだ。


「それでも、まだ、ちょっと怖いらしいがな」


焚き火の向こうで、ネフィが、膝を抱えて、顔を伏せていた。

勇者は、しばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。


「私、魔王に会ったら、最初に謝りたいことがあるんです」

「……謝る?」

「はい。魔王、私のこと守るために、町に結界を張ってくれてたんです。

二日間も、寝ないで。なのに私、それに気づかずに、空が曇ってると思って、拭き取っちゃって」


兜の奥の声が、少しだけ、しぼんだ。


「だから、まず、ごめんなさいって。

それから、ちゃんと、ありがとうって言いたいんです。

結界のことも、逃げろって教えてくれたことも、会おうって返事をくれたことも」


ヴァルグレイヴは、何も言えなかった。

喉の奥が、熱かった。

木の陰で、ミラージュの手鏡が、かすかに揺れた。

ヴァルグレイヴの顔の輪郭が、一瞬だけ、ぼやけた。

勇者は、気づかなかった。ただ、焚き火を見つめながら、ぽつりと言った。


「不器用で、優しい人なんだと思います。魔王って」


◆ ◆ ◆


しばらくして、ヴァルグレイヴは、空になった椀を置いた。


「……勇者さん。一つ、頼みがある」

「はい?」

「右手の、紋様を見せてもらえんか。鍋直しってのは、金物に刻む紋様に、ちいとばかし詳しくてな」


勇者は少しためらってから、右手の籠手を外した。

焚き火の光の中に、手の甲が差し出された。

円と線を組み合わせた、複雑な紋様。

ヴァルグレイヴは、その紋様に、そっと指先を触れた。

冷たかった。

氷とも、鉄とも違う。もっと、空っぽの、温度そのものがない冷たさ。

そして、その奥に、見覚えのある気配があった。

三百年、毎日のように目の前に浮かんできた、半透明の板。あれと、同じ匂いがした。


(……やはり、お前か)


その時、紋様が、光った。

勇者が、息を呑んで、右手を引こうとした。

ヴァルグレイヴは、とっさに、その手を包むように握った。

丘の下から、蹄の音が聞こえた。

夜の闇を切り裂くように、白いマントの一団が、野営地に向かって駆け上がってくるのが見えた。


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