幕間⑯ 白石、凍った涙を拭く
街道の先に、白い人が立っていた。
雪のような髪。凍った湖のような目。
薄青いドレスの裾から、ひやりとした冷気が、足元の草を白く凍らせていた。
「――勇者」
静かな声だった。
怒っているのでも、憎んでいるのでもなかった。
ただ、ひどく張りつめていた。
「陛下に、近づかないで」
バルドが、斧を構えて前に出た。
「セルシア殿! 勇者殿は陛下の客人だ! 陛下は、会おうと――」
「知っています」
白い人は、バルドの言葉を、静かに遮った。
「だから、止めるのです」
白い人が、片手を上げた。
次の瞬間、白石の足元から、透き通った氷が、するすると這い上がってきた。
◆ ◆ ◆
冷たい、と思ったのは、最初の一瞬だけだった。
氷は、あっという間に、白石の体を包み込んだ。
足も、腕も、鎧も、兜も。指一本、動かせなくなった。
氷越しに、ネフィが泣き叫んでいるのが見えた。
シロが、氷に体当たりしているのが見えた。
バルドが、斧を振り上げて、それを白い人に止められているのが見えた。
音は、遠かった。
白石は、氷の内側から、手を動かそうとした。
布で、この氷を拭けないかと。
でも、氷には、手を入れるところが一つもなかった。
透き通っていた。どこまでも、きれいだった。
曇りも、濁りも、一つもない。混じりけのない、まっさらな氷。
(……だめだ。これは、きれいすぎる)
手の入れようが、なかった。
白石は、初めて、自分の手が何もできないことを知った。
◆ ◆ ◆
どれくらい、そうしていたのか分からない。
氷の中で、白石は、夢を見ていた。
元の世界の、事務所の夢だった。
朝礼で、先輩が、今日の現場の割り振りを読み上げている。
白石の名前が呼ばれる。はい、と答える。いつもの朝。
実家の夢も見た。台所で、母親が、大福を皿に並べている。
「年末は、帰ってこれるの?」と聞かれる。
「たぶん、無理」と答える。母親が、少し寂しそうに笑う。
帰りたい、と思った。
召喚されてから、初めて、はっきりと。
それから、なぜか、尾根の上の人影を思い出した。
角と、黒いマント。岩に手をついて、体を支えながら、何度も叫んでいた。
――会おう。
不器用な、大きな字。
(……まだ、会ってない)
白石は、氷の中で、目を閉じたまま、そう思った。
(帰るのは、会ってからだ)
◆ ◆ ◆
ぴしり、と音がした。
目の前の氷に、ひびが走った。
ひびは、蜘蛛の巣のように広がって、やがて、氷全体が、さらさらと崩れ落ちた。
冷たい水が、足元に流れていく。
白石は、膝から崩れ落ちた。
「勇者さんっ!」
ネフィが飛びついてきた。
シロが、白石の背中に、ぴたりと体を寄せた。
温かかった。
バルドが、大急ぎで焚き火を起こし始めた。
歯の根が合わなかった。
体中が、がたがたと震えていた。
それでも、白石は、顔を上げた。
白い人が、少し離れたところに立っていた。
目を閉じて、誰かの声に耳を傾けているような顔をしていた。
念話、というものだろう。
やがて、その人は、ゆっくりと目を開けた。
凍った湖のような目が、白石を見た。
「……陛下が」
白い人は、かすれた声で言った。
「陛下が、あなたと、話をしたいと。陛下も、あなたも、生き延びる道を探したいと」
白い人の声が、震えていた。
「陛下が、私を、一人にはしないと」
白石は、その人の顔を見た。
睫毛が、白かった。
雪のように白い睫毛に、霜がびっしりと、こびりついていた。
目の縁にも、頬にも、薄く、氷の膜が張っている。
まるで、涙が流れる途中で、そのまま凍ってしまったように。
(……曇ってる)
この人の目は、ずっと、曇ったままなんだ。
白石は、震える手で、荷物から布を取り出した。
立ち上がろうとして、よろめいた。ネフィが支えてくれた。
一歩、二歩。白い人の前まで、歩いていった。
白い人は、逃げなかった。
ただ、驚いたように、白石を見ていた。
白石は、布を、その人の目元に、そっと当てた。
気になったので、手を入れた。
睫毛の霜を、一本ずつ。
目の縁の氷を、ゆっくりと。頬の膜を、丁寧に。
霜が、溶けた。
凍った湖のような目に、光が戻った。
そして、その目から、ぽろり、と、透明な雫がこぼれ落ちた。
凍らなかった。
頬を伝って、顎の先から、ぽたりと地面に落ちた。
白い人は、自分の頬に手を当てた。濡れた指先を、信じられないものを見るように、じっと見つめた。
「……あ」
それから、もう一粒。もう一粒。
白い人は、その場に膝をついて、子どものように、声を上げて泣き出した。
二百年分だ、とネフィが小さな声で言った。
白石は、何も言わずに、その人の背中を、ゆっくりとさすった。
自分の手も、まだ震えていた。
冷え切っていた。
でも、その人の背中は、少しずつ、温かくなっていった。
◆ ◆ ◆
泣きやんだ後、白い人――セルシアは、赤く腫れた目で、白石を見た。
「……勇者」
「はい」
「陛下を、お願いします」
白石は、少しだけ、首を傾げた。
「お願い、って」
「陛下は、誰にも頼らない方です。
三百年、ずっと、お一人で。……でも、あなたには、会おうと言った」
セルシアは、まっすぐに白石を見つめた。
「陛下の話を、聞いてさしあげてください」
白石は、頷いた。
「はい。そのつもりで、行きます」
セルシアは、ふっと、口元をゆるめた。
二百年ぶりに、と、ネフィがまた小声で言った。
焚き火が、ぱちぱちと音を立てていた。
白石は、シロの毛並みに包まれながら、北の空を見上げた。
魔王城まで、あと三日。




