第16話 氷姫は溶けない(前編)
目を覚ますと、丸一日が経っていた。
寝台の脇に、リリエラが椅子を寄せて座っていた。
膝の上に書類の束を広げたまま、うつらうつらと船を漕いでいる。
三百年、秘書官が居眠りをする姿を、ヴァルグレイヴは初めて見た。
「……リリエラ」
秘書官は、弾かれたように顔を上げた。
「陛下。お目覚めですか」
「勇者は」
「ご無事です。北方守備軍に護衛されて、北上中です。魔王城まで、あと三日ほど」
「聖騎士団は」
「北方守備軍の後方、一日の距離を保っております。手出しはしてきておりません」
ヴァルグレイヴは、長い息を吐いた。
「……そうか」
「陛下。他人のことより先に、ご自分の体のことをお聞きください」
リリエラは、少しだけ怒った顔をしていた。
「胃に穴が開きかけておりました。医官によれば、あと一日無理をしていたら、命に関わったと」
「そうか」
「そうか、ではありません」
「……すまん」
リリエラは、何か言いかけて、やめた。代わりに、湯冷ましの水を差し出した。
◆ ◆ ◆
水を飲み干した時、目の前に、板が浮かんだ。
二枚、重なって。
一枚は、システムの板だった。
――――――――――
【通知】異界掲示板の制限を、条件付きで解除します。
【条件】勇者に関する情報の書き込みは、検閲されます。
――――――――――
そしてもう一枚は、見慣れた、文字の並び。
異界掲示板だった。
ヴァルグレイヴは、しばらく、二枚の板を見比べていた。
なぜ、今になって解除するのか。
条件とは何か。分からないことだらけだった。
だが、掲示板が、そこにあった。
震える指で、スレッドを開いた。
◆ ◆ ◆
【帰還】魔王さんおかえりスレ
1:名無しさん
前スレの最後に「……戻った」って書き込みあったよな!?
魔王さん、本当に戻ってきた?
2:名無しさん
あれ見た時、変な声出た
3:名無しさん
魔王さーん!
4:魔王 ◆VaLgRaVe
……待たせた。
5:名無しさん
うおおおおおおお
6:名無しさん
おかえり!!!
7:名無しさん
魔王さんだ!!!
8:名無しさん
本物!? トリップ合ってる!
9:名無しさん
泣いた
10:◆PDCAおじさん
おかえりなさい、魔王さん。
ご無事で、本当に良かった。
11:魔王 ◆VaLgRaVe
>>10
課長。皆。
保守を、続けてくれていたのか。
12:名無しさん
当たり前だろ
13:名無しさん
二週間ずっと保守してたわ
14:名無しさん
課長なんてまとめ作ってたからな
15:魔王 ◆VaLgRaVe
……礼を言う。
三百年、こういうことは、一度もなかった。
16:名無しさん
やめろ泣かせるな
17:名無しさん
で、何があったの? 急に書き込み途切れて心配したぞ
18:魔王 ◆VaLgRaVe
>>17
話すことが、山ほどある。
まず、■■の故郷の話をした直後、システムに掲示板を封じられた。
その後、聖王国の騎士団が、■■を脅しに来た。
■■の右手には、聖王国が刻んだ印があり、騎士団長の指輪で、痛みを与えることができる。
19:名無しさん
ちょっと待って
20:名無しさん
■■ってなに
21:名無しさん
伏せ字?
22:魔王 ◆VaLgRaVe
>>20
……ゆうしゃ、と書いたつもりだった。
システムが、掲示板を戻す条件として、■■に関する書き込みを検閲すると告げてきた。
■■の名を書こうとすると、こうなるらしい。
23:名無しさん
検閲されてて草
24:名無しさん
いや草じゃない、怖いわ
25:◆PDCAおじさん
>>22
なるほど。では、呼び方を変えましょう。
「例の方」でどうでしょうか。
26:魔王 ◆VaLgRaVe
>>25
例の方。
……通った。
27:名無しさん
システムのフィルター、ガバガバで草
28:名無しさん
課長、さすがの機転
29:魔王 ◆VaLgRaVe
続ける。
騎士団は、例の方に「七日のうちに魔王城に入り、魔王に剣を向けよ」と告げた。
向けなければ、代わりはいくらでもいる、と。
さらに、システムが我の兵を勝手に操り、例の方を襲わせた。
我は、それを止めに行って、倒れた。丸一日、眠っていた。
30:名無しさん
は?
31:名無しさん
情報量が多すぎる
32:名無しさん
魔王さん倒れたの!?
33:名無しさん
胃は!? 胃は大丈夫なの!?
34:魔王 ◆VaLgRaVe
>>33
穴が開きかけたそうだ。
35:名無しさん
あかん
36:名無しさん
胃に穴はガチのやつ
37:◆PDCAおじさん
魔王さん、まず、休んでください。
今後のことは、私たちがまとめておきます。
38:魔王 ◆VaLgRaVe
>>37
そうしたいのだが、そうもいかん。
今しがた、報告が入った。
四天王の一人が、我の許可なく、城を出た。
◆ ◆ ◆
「――セルシアが、出撃いたしました」
リリエラの報告に、ヴァルグレイヴは、寝台の上で顔を上げた。
氷姫セルシア。
四天王の三人目。
雪のように白い髪と、凍った湖のような青い瞳を持つ、氷の魔女だ。
二百年前、北の果ての凍てつく村で、たった一人生き残っていた幼子を、
ヴァルグレイヴが拾って育てた。
四天王の中で、最も魔王に忠実な者だった。
「システムに、操られたのか」
「いいえ」
リリエラは、首を横に振った。
「額に、印はございませんでした。ご自分の意思で、出ていかれました」
「何と言い残した」
リリエラは、少しためらってから、セルシアの言葉を、そのまま伝えた。
「――陛下を倒れさせた勇者を、陛下に近づけるわけにはいかない。
陛下を討つと予言された者を、城には入れない。
たとえ、陛下のご命令に背いても」
ヴァルグレイヴは、目を閉じた。
セルシアは、勇者を殺しに行ったのではない。
魔王を、守りに行ったのだ。
誰よりも、真剣に。




