幕間⑮ 白石、尾根の上の人を見る
谷の向こうから、黒い鎧の兵士たちが、壁のように迫ってきた。
千人いる、とネフィが言った。
みんな、魔王軍の兵だと。
「陛下は、勇者さんを討てなんて命令、出してないですぅ! あの人たち、絶対おかしいですぅ!」
ネフィの言う通りだった。
兵士たちは、誰も一言も喋らなかった。
足音だけが、同じ速さで近づいてくる。
目が、何も見ていなかった。
そして、額に、黒い印があった。
白石は、思わず、自分の右手の甲を見た。
円と線を組み合わせた、複雑な紋様。
兵士たちの額の印と、同じ形だった。
◆ ◆ ◆
槍を突き出してきた兵士の額に、布を当てた。
黒い印は、拍子抜けするほど簡単に消えた。
兵士は、夢から覚めたような顔で、きょろきょろと周りを見回した。
「俺は、何を……」と呟いて、その場に座り込んだ。
(……落ちる)
白石は、自分の右手の紋を思った。
同じ模様なのに、こっちは落ちる。
自分のは、何度拭いても落ちない。
なぜだろう。
考えている暇はなかった。
次の兵士が、その次の兵士が、押し寄せてくる。
一人拭く間に、十人。ネフィの壁が軋み、シロが押し返され、鎧に槍の穂先が食い込む。
間に合わない。
そう思った時、谷全体が、震えた。
◆ ◆ ◆
「――我が兵よ!」
声だった。
雷みたいな、腹の底に響く声。
谷の岩壁に跳ね返って、四方八方から降ってくる。
白石は、声のする方を見上げた。
谷の北の尾根。
その突端に、誰かが立っていた。
大きな人だった。
黒いマントが、風にはためいていた。
頭に、二本の角。遠すぎて、顔は見えない。
ただ、岩に片手をついて、体を支えるようにして立っているのが分かった。
「我は、ここにいる! 魔王ヴァルグレイヴは、ここにいる!」
白石の隣で、ネフィが、息を呑んだ。
「……陛下」
ネフィの声が、震えていた。
「陛下、魔力、ないはずなのに……あんな、自分の声で……」
白石は、尾根の上の人影を、見上げ続けた。
あの人が、魔王。
不器用な字で「会おう」と書いた人。
結界で、町ごと守ってくれた人。胃が弱い人。
その人が、叫んでいた。何度も、何度も。
叫ぶたびに、体が揺らいでいるのが、ここからでも分かった。
「北方守備軍、将バルド! 三百年前、我と共に北の砦を築いたことを、忘れたか!」
兵士たちの先頭にいた、牛の頭の大きな人が、ぴくりと動いた。
額の黒い印が、ちらちらと揺らいでいる。
今だ、と思った。
白石は、兵士たちの間をすり抜けて、牛の頭の人の前に飛び込んだ。
頭の上で、巨大な斧が振り上げられる気配がした。見上げなかった。
見上げたら、たぶん、足がすくんでしまう。
つま先立ちになって、額に、布を当てた。
気になったので、手を入れた。
◆ ◆ ◆
それから先は、あっという間だった。
牛の頭の人が、天に向かって吼えた。
魔王の声と、その人の声が、谷の中で重なって、兵士たちの額の印が、ばらばらと砕けていった。
砕けきらなかった印は、正気に戻った兵士たちと一緒に、白石が一つずつ拭いて回った。
最後の一人を拭き終えて、顔を上げた時。
尾根の上の人影が、崩れ落ちるのが見えた。
「陛下っ!」
ネフィが、悲鳴を上げた。
銀色の髪の人が、魔王を支えていた。
光が瞬いて、尾根の上から、誰もいなくなった。
白石は、空っぽになった尾根を、ずっと見上げていた。
顔は、見えなかった。声しか、聞こえなかった。
それでも、分かった。
あの人は、また、自分を守るために、無理をしたのだ。
◆ ◆ ◆
「勇者殿」
地鳴りのような声で呼ばれて、白石は振り返った。
牛の頭の人――バルドという名前らしい――が、白石の前に片膝をついていた。
後ろには、千人の兵士たちが、同じように膝をついている。
「北方守備軍の将、バルドと申す。
我らは、陛下のご意思に背き、陛下の客人に刃を向けた。万死に値する」
「え、いや、そんな」
「どうか、償いをさせていただきたい。
我ら北方守備軍、これより魔王城まで、勇者殿の護衛を務める」
白石は、ネフィを見た。ネフィは、涙を拭いながら、こくこくと頷いていた。
谷の南の丘の上で、白いマントの騎士たちが、こちらを見下ろしていた。
千の兵に守られた勇者を、遠巻きに。
「……よろしくお願いします」
白石は、頭を下げた。
バルドは、満足そうに鼻を鳴らした。
それから、ふと、白石の顔を――兜を、まじまじと見た。
「勇者殿。陛下は、あのように無理をなさるお方だ。
三百年、ずっとそうだった。誰にも頼らず、お一人で、全部を背負われる」
「……はい」
「城に着いたら、どうか、陛下の話を、聞いてさしあげてくれ」
白石は、尾根を見上げた。
「はい。そのつもりです」
白石は、右手の紋を、左手でそっと握りしめた。
期限まで、あと四日。
魔王城まで、あと少し。




