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第15話 魔王の意に反して(後編)

灰色の谷は、その名の通り、灰色の岩肌が両側に切り立つ、細長い谷だった。

谷を見下ろす北の尾根に、転移の光が瞬いた。

現れたのは、黒いマントの巨躯と、銀髪の秘書官と、薬箱を抱えた年老いた医官だった。

ヴァルグレイヴは、尾根の岩に手をついて、谷底を見下ろした。

転移だけで、残っていたわずかな魔力が削られた。

膝が笑う。

視界の端が、白くちらつく。

それでも、見えた。


谷の北側に、黒い鎧の千の兵が、壁のように並んでいた。

先頭に、斧を担いだ牛頭の巨漢。

額の黒い印が、昼の光の中でも、不気味に浮き上がって見えた。

谷の南側に、小さな影が三つ。

鎧の勇者。

紫の髪の夢魔。

白銀の狼。

そして、そのずっと後ろ、谷の入り口を見下ろす南の丘に、

白いマントの騎士たちが、馬上から谷を見物していた。


「……陛下」

リリエラが、主の背中に手を添えた。

「勇者は、剣を抜いておりません」


◆ ◆ ◆


千の兵が、動いた。

声もなく、足音だけを揃えて。

黒い鎧の波が、谷底を南へ押し寄せていく。

シロが、前に出た。

白い狼が吼えると、先頭の兵たちがわずかにたじろぐ。

ネフィが紫の壁を張り、押し寄せる兵の勢いを殺す。

勇者は、その間を、まっすぐに歩いていた。

剣ではなく、布を握って。

兵の一人が、勇者に槍を突き出した。

勇者は避けずに、槍の柄をつかんで引き寄せ、兵の額に、布を当てた。

黒い印が、すうっと消えた。

兵は、目を瞬かせた。

何が起きたのか分からないという顔で、自分の手にある槍と、目の前の勇者を見比べている。


「……え? ここは……俺は、何を……」


一人。また一人。

勇者は、兵の額を、一人ずつ拭いていった。

印が消えた兵は、正気に戻って、その場にへたり込んだ。

だが、千人だった。

勇者が一人を拭く間に、十人が押し寄せてくる。

ネフィの壁が軋み、シロが押し返され、勇者の鎧に、槍の穂先がいくつも食い込む。


「……間に合わん」


ヴァルグレイヴは、呟いた。

勇者は、強くない。

千人を、一人ずつ拭いている時間はない。

このままでは、勇者は、魔王の兵に、魔王の名のもとに――


「陛下!」


医官の制止を振り切って、ヴァルグレイヴは、尾根の突端に立った。


◆ ◆ ◆


念話を使う魔力は、もう残っていなかった。

だから、ヴァルグレイヴは、自分の喉で叫んだ。


「――我が兵よ!」


灰色の岩肌に、魔王の声が反響した。谷全体を震わせるように。


「我は、ここにいる! 魔王ヴァルグレイヴは、ここにいる!」


黒い鎧の兵たちの動きが、一瞬だけ、止まった。


「我は、勇者を討てと命じた覚えはない! 我の名を騙る者の声に、耳を貸すな!」


叫ぶたびに、胃の奥で、何かが裂ける。

口の中に、鉄の味が広がる。

それでも、ヴァルグレイヴは叫び続けた。


「北方守備軍、将バルド! 三百年前、我と共に北の砦を築いたことを、忘れたか!」


谷底で、牛頭の巨漢が、ぴくりと肩を震わせた。

額の黒い印が、ちらちらと揺らいでいた。

その隙を、勇者は見逃さなかった。

勇者は、兵たちの間をすり抜け、バルドの前に飛び込んだ。

巨漢の斧が、反射的に振り上げられる。

勇者は、それを見上げもせずに、つま先立ちになって、バルドの額に布を当てた。

印が、消えた。

バルドの斧が、勇者の頭上で、止まった。

牛頭の巨漢は、ゆっくりと、斧を下ろした。

それから、谷の北の尾根を見上げた。

血の気の失せた顔で、岩に手をついて立っている、魔王の姿を。


「……陛、下」


バルドの、地鳴りのような声が、谷に響いた。

次の瞬間、バルドは、天に向かって、腹の底から吼えた。


「――北方守備軍、全軍! 陛下のお声を聞け! 止まれぇぇぇ!」


◆ ◆ ◆


将の咆哮が、谷を揺らした。

兵たちの額で、黒い印が、一斉に揺らいだ。

魔王の声と、将の声。

二つの声に挟まれて、印は、ひびの入った硝子のように、あちこちで砕け始めた。

砕けきらない印は、勇者が、正気に戻った兵たちと一緒に、一人ずつ拭いて回った。

半刻後。

灰色の谷に立っている兵の額に、黒い印は、一つも残っていなかった。

千の兵が、谷底に座り込み、互いの顔を見合わせていた。

何が起きたのか、誰も分かっていなかった。

ただ、自分たちが、魔王の名のもとに、魔王の意思に背いていたことだけは、分かっていた。

バルドが、北の尾根に向かって、片膝をついた。千の兵が、それに続いた。

ヴァルグレイヴは、それを見届けて、膝から崩れ落ちた。


「陛下っ!」


リリエラと医官が、両側から主を支えた。

薄れていく意識の中で、ヴァルグレイヴは、谷底を見た。

鎧の勇者が、こちらを見上げていた。

遠すぎて、兜の奥は見えない。

それでも、勇者がこちらを見ていることだけは、分かった。

勇者の隣で、紫の髪の夢魔が、両手で口を押さえて、何か叫んでいた。

陛下、と言っているのだろう。


「……リリエラ。戻るぞ」

「はい」

「勇者に、会うのは……まだだ。約束は、城で、と書いた……」


転移の光が、尾根を包んだ。


◆ ◆ ◆


谷の南の丘の上で、聖騎士団長ディートリヒは、馬上から一部始終を見ていた。


「……また、剣を抜かなかったか」


騎士は、懐の水晶を取り出した。

北を指す光の線が、明滅している。


「残り、四日」


◆ ◆ ◆


その夜、魔王城の寝室。

ヴァルグレイヴは、医官に絶対安静を言い渡され、寝台に横たわっていた。

胃からの出血は止まったが、体は鉛のように重く、意識は、浮いたり沈んだりを繰り返していた。

夢うつつの中で、目の前に、板が浮かんだ。

システムの板ではなかった。

見慣れた、文字の並び。上部に「スレッド」とある。

異界掲示板だった。

文字が、ちらちらと乱れていた。

今にも消えそうに、明滅している。それでも、そこには、書き込みが並んでいた。


保守

保守

魔王さん、待ってるからな

課長がまとめ作ってくれてるぞ

保守

新しいゴールは「魔王さんも勇者さんも生き延びること」だってさ

保守。早く戻ってこい


ヴァルグレイヴは、震える指を、板に伸ばした。

文字を打つ。一文字ずつ。

……戻った

送った瞬間、板は、ふつりと消えた。

届いたのかどうか、分からなかった。

それでも、ヴァルグレイヴは、薄く笑って、目を閉じた。


――――――――――


【エラー】異界掲示板の制限に、不整合が発生しています。

【報告】勇者の進行度:79%


――――――――――


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