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第15話 魔王の意に反して(前編)

最初に異変に気づいたのは、リリエラだった。


「陛下。北方守備軍が、動いております」


結界を拭き消されてから二日。

ヴァルグレイヴは、まだ魔力の戻らない体を引きずるようにして、執務室で政務に戻っていた。


「動いている? 我は何の命令も出していないが」

「はい。ですから、申し上げております」


リリエラが差し出した報告書には、北方守備軍の全兵力、

およそ千の兵が、昨夜のうちに砦を出たと書かれていた。

行き先は、南。

勇者が北上してくる街道の途中にある、灰色の谷。


「将のバルドは何をしている。あれは、我の命なくして一兵たりとも動かす男ではない」

「バルド殿にも、念話が通じません」


ヴァルグレイヴは、眉をひそめた。

北方守備軍の将、牛魔族のバルド。

三百年前の戦の頃から、ヴァルグレイヴに仕えてきた古参の武人だ。

頑固で口下手だが、誰よりも忠実な男だった。

そのバルドが、無断で兵を動かし、念話にも応じない。

嫌な予感がした。


◆ ◆ ◆


水晶玉に、ピッチの視界が映った。

夜明けの街道を、黒い鎧の兵士たちが、整然と行進していた。

千の兵が、一糸乱れず、同じ歩幅で、同じ速さで。

整いすぎていた。


『陛下、なんか変っす……』


ピッチの声が、震えていた。


『みんな、一言も喋ってないっす。目が……目が、ぜんぜん、何も見てないっす』


ピッチが高度を下げ、隊列の先頭に近づいた。

巨大な斧を担いだ、牛頭の大男が映し出された。

バルドだ。その額に、黒い印が浮かんでいた。

円と線を組み合わせた、複雑な紋様。

兵士たち全員の額にも、同じ印があった。

ヴァルグレイヴは、その紋様を、どこかで見たことがある気がした。

どこで。


――――――――――


【通知】魔王の指揮に、規定からの逸脱が認められました。

【通知】魔王軍の指揮権の一部を、一時的に移管しました。

【通知】北方守備軍は、勇者の討伐に向かっています。


――――――――――


ヴァルグレイヴの手から、羽ペンが落ちた。


「……移管、だと」


板は、淡々と文字を並べていた。


「誰に。誰に移管した。我の兵を、誰が動かしている!」


板は、答えなかった。


◆ ◆ ◆


「止めろ。全軍に念話を」


ヴァルグレイヴは、立ち上がろうとして、よろめいた。

リリエラが、すかさず腕を支える。


「陛下。今の陛下の魔力では、千人への念話は届きません。せいぜい、数人が限度です」

「ならば、バルドだけでいい。あれさえ正気に戻れば」

「先ほどから、試しております。通じません」


リリエラの声は、いつも通り平静だった。

だが、書類を持つ指先が、白くなるほど強く握られていた。


「……勇者は、どこにいる」

「灰色の谷の手前、半日の距離です。北方守備軍とは、明日の昼過ぎにぶつかります」

「聖騎士団は」

「勇者の後方、一日の距離を保ってついてきております」


ヴァルグレイヴは、机に両手をついた。

前からは、システムに操られた魔王軍が。

後ろからは、聖王国の騎士団が。

勇者は、両方に挟まれようとしていた。

そして、勇者の前に立ちはだかるのは、ヴァルグレイヴ自身の兵だった。

三百年、共に国を守ってきた者たちが、魔王の意思とは無関係に、

魔王の名のもとに、勇者を殺しに向かっている。

胃が、焼けるように痛んだ。

いつもの痛みではなかった。

体の内側から、何かが裂けるような痛みだった。


「陛下!」


ヴァルグレイヴは、机に突っ伏した。

口元を押さえた手のひらに、赤いものが滲んでいた。


「……大事ない」

「大事です!」


リリエラが、声を荒げた。

三百年で、初めてのことだった。


「医官を呼びます。今すぐ、横になってください」

「リリエラ」


ヴァルグレイヴは、秘書官の腕をつかんだ。


「明日の昼。灰色の谷が見える場所に、我を連れて行け」

「陛下……!」

「水晶玉越しでは、駄目だ。この目で見て、この声で呼びかける。

我の兵だ。我が呼べば、届くかもしれん」


リリエラは、主の顔を見つめた。

血の気の失せた顔。額に浮かんだ脂汗。

それでも、紅い双眸だけは、まっすぐに前を見ていた。


「……転移の陣を、用意します」


秘書官は、唇を噛んでから、そう言った。


「ただし、医官も同行させます。胃薬は、五包、持っていきます」

「……三包で」

「五包です」


――――――――――


【警告】魔王の体調が、規定値を下回っています。

【警告】魔王は、城に留まってください。


――――――――――


ヴァルグレイヴは、板を見上げた。


「……今さら、我の身を案じるのか」


乾いた笑いが、喉から漏れた。


「それとも、我が城の外で死ねば、予言が狂うからか」


板は、何も答えなかった。


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