幕間⑭ 白石、拭いてはいけないものを拭く
「勇者さん、しばらく、この町から出ないでくださいねぇ」
ルーメンの町に着いた翌朝、ネフィは妙に真剣な顔でそう言った。
「どうして?」
「どうしても、ですぅ。陛下からの、お願いですぅ」
魔王からのお願い。それなら、断る理由はなかった。
急ぐ旅でもない、と返事にも書いてあった。
白石は、ルーメンの町で、のんびりと過ごすことにした。
ただ、一つだけ、気になることがあった。
空が、曇っていた。
◆ ◆ ◆
雨雲の曇りではなかった。
空の色そのものに、薄く膜がかかっているような感じだった。
夜空の色をした、半透明の何か。
窓ガラスの向こうの景色が、汚れたガラス越しに見えるように、どこか暗く、ぼやけている。
朝も、昼も、夕方も、ずっとそうだった。
「ネフィ、この町、空がずっと曇ってるね」
そう言うと、ネフィの顔色が変わった。
「そ、そうですかぁ? 気のせいじゃないですかぁ?」
「ううん。なんか、空に膜が張ってるみたい。窓ガラスが汚れてるみたいな」
「ゆ、勇者さん、それは……」
ネフィは何か言いかけて、ぎゅっと口を閉じた。
二日目の夕方には、我慢できなくなっていた。
町で一番高い、時計塔。あそこからなら、手が届くかもしれない。
「勇者さん!? どこ行くんですかぁ!」
下から、ネフィの叫び声が聞こえた。
「大丈夫、高いところ、慣れてるから!」
「そうじゃないですぅ! それ、だめですぅ!」
高いところが危ない、という意味だと思った。
白石は、時計塔の外壁の梯子を、するすると登っていった。
◆ ◆ ◆
時計塔のてっぺんに立つと、頭のすぐ上に、空の膜があった。
思っていたより、ずっと近かった。手を伸ばせば、届く。
触れてみると、ひやりと冷たかった。
そして、ほんのかすかに、温かかった。
冷たいのに、温かい。不思議な感触だった。
誰かが、ここに、とても大きな力を注ぎ込んでいる。
そんな気がした。
でも、白石には、それは汚れにしか見えなかった。
町の空を、すっかり覆い隠してしまっている、大きな曇り。
気になったので、手を入れた。
ひと拭きすると、そこだけ、夕焼けの空が覗いた。
ふた拭き、三拭き。
曇りは、拭けば拭くほど、するすると取れていった。
最後のひと拭きで、膜はきれいさっぱり消えて、町の上に、燃えるような夕焼けが広がった。
(うん。やっぱり、こっちの方がいい)
白石は、大きく伸びをした。
その時、町の南の方から、たくさんの蹄の音が聞こえた。
◆ ◆ ◆
白いマントの騎士たちが去った後、宿の中庭で、ネフィは肩を押さえてうずくまっていた。
「ネフィ、大丈夫!?」
「へ、平気ですぅ……ちょっと打っただけですぅ……」
白石は、ネフィを支えて、宿の部屋に戻った。
シロも、騎士たちが去った方角を何度も振り返りながら、ついてきた。
ネフィの肩の手当てをしながら、白石は、ずっと考えていた。
あの騎士たちは、町の南で、何日も前から待っていたようだった。
なのに、白石が空の曇りを拭き取った途端に、町に入ってきた。
「……ネフィ」
「はい、ですぅ」
「あの空の膜って、何だったの」
ネフィは、長いこと黙っていた。
それから、小さな声で、言った。
「……陛下の、結界ですぅ」
白石の手が、止まった。
「騎士たちが勇者さんを狙ってるって分かって、
陛下が、魔王城から、町を丸ごと結界で包んだんですぅ。
勇者さんを守るために。
陛下、二日間、ほとんど寝ないで、魔力を注ぎ続けてたって……」
ネフィの声が、震えていた。
「勇者さんに言ったら、気にするだろうからって。
だから、黙ってたんですぅ。……ごめんなさい」
白石は、何も言えなかった。
時計塔の上で触れた、膜の感触を思い出した。
冷たいのに、ほんのかすかに、温かかった。
誰かが、ここに、とても大きな力を注ぎ込んでいる。
そう、感じたのに。
「……私」
声が、かすれた。
「守ってもらってたのに。自分で、それを、拭き取っちゃったんだ」
シロが、白石の膝に、そっと顎を乗せた。
◆ ◆ ◆
その夜、白石は、右手の甲の紋を見つめていた。
騎士の指輪が光った時、ここが焼けるように痛んだ。
今は、もう光っていない。
ただの、円と線の模様に戻っている。
白石は、布を取り出して、もう一度、紋を拭いてみた。
何度も。丁寧に。
紋は、色一つ変えなかった。
(……これは、私の手じゃ、届かないんだ)
どんなものでも、手を入れれば何とかなると思っていた。
でも、これだけは違う。
もっと深いところに、もっと大きな何かに、つながっている。
七日
七日のうちに魔王城に入って、魔王に剣を向けろと、あの騎士は言った。
向けなければ、代わりはいくらでもいる、と。
「勇者さん」
寝台の上で、ネフィが体を起こしていた。
「どうするんですかぁ……?」
白石は、紋から目を上げた。
「行くよ。魔王城に」
「でも……」
「剣は向けない。話をしに行く。最初から、そう決めてたから」
白石は、荷物の奥から、魔王の返事を取り出した。
不器用な、大きな字。
――会おう。
「それに、会ったら、まず謝らなきゃ」
「謝る、ですかぁ?」
「うん。せっかく守ってくれたのに、拭いちゃって、ごめんなさいって」
ネフィは、泣きそうな顔で笑った。
「……陛下、きっと、胃を押さえますぅ」
「だよね」
白石も、兜の中で、少しだけ笑った。
夜明け前、三人は、ルーメンの町を発った。
北へ。
魔王城へ。
そのずっと後ろを、白いマントの一団が、音もなくついてきていた。




