第14話 守るための結界(前編)
「聖騎士団が、国境を越えたっす」
ピッチの報告は、夜明け前に届いた。
「白いマントの騎士が三十騎。
先頭は、聖騎士団長のディートリヒっす。
まっすぐ北に向かってるっす。勇者さんのいる方角に」
ヴァルグレイヴは、寝台から身を起こした。
聖騎士団。聖王国が持つ、唯一の精鋭部隊だ。
三百年の間、勇者を護衛したことは一度もない。
勇者が城を出る時でさえ、見送りすらしなかった者たちが、
今になって、魔王領の奥深くまで馬を走らせている。
何のために。
「……リリエラ」
「はい。既に起きております」
秘書官は、灯りを手に、寝室の戸口に立っていた。
「勇者は今、どこにいる」
「ネフィの報告では、北街道沿いの宿場町、ルーメンです。
魔王城まで、あと十日ほどの距離かと」
「聖騎士団が着くのは」
「馬の足なら、三日」
ヴァルグレイヴは、黙って窓の外を見た。
南の空は、まだ暗かった。
聖騎士団が、勇者を護衛しに来たのでないことは、分かっていた。
聖王国が勇者に何をさせたいのか。
そして、勇者がそれをしなかった時、何をするつもりなのか。
モルドの言葉が、頭をよぎった。
――あの国を、信じるな。
◆ ◆ ◆
「結界を張る」
朝の執務室で、ヴァルグレイヴは告げた。
「ルーメンの町を、丸ごと覆う。聖騎士団が入れぬように」
リリエラが、珍しく、はっきりと眉をひそめた。
「陛下。町一つを覆う大結界を、魔王城から遠隔で維持するとなれば、
陛下の魔力の大半を割くことになります。
政務にも、お体にも、障りが出ます」
「分かっている」
「それに、結界の中には勇者がいます。陛下が、勇者を、守ることになります」
「……それも、分かっている」
ヴァルグレイヴは、立ち上がった。
「勇者は、話をしに来ると言った。
我は、会おうと返した。
約束をした以上、その者が城に着く前に、他の者に害されるのを黙って見ているわけにはいかん」
リリエラは、しばらく主の顔を見つめていた。
それから、静かに一礼した。
「承知しました。政務は、私が代わりに回します。胃薬は、三包、机に置いておきます」
「……二包で足りる」
「三包、置いておきます」
◆ ◆ ◆
魔王城の最上階、星見の塔。
ヴァルグレイヴは、塔の中央の魔法陣の上に立ち、両手を広げた。
足元から、黒い光が立ちのぼる。
それは塔の天井を突き抜け、南の空へと伸びていった。
遠く、地平線の彼方の、ルーメンの町へ。
魔力が、体から抜けていく。
三百年で蓄えたものを、一気に削り取られるような感覚だった。
膝が震え、額に汗が滲む。
それでも、ヴァルグレイヴは手を下ろさなかった。
水晶玉に、ピッチの視界が映し出されていた。
ルーメンの町の上空に、半透明の膜が広がっていく。
夜空の色をした、薄く揺らめく巨大な半球。町全体を、すっぽりと覆い隠すように。
『結界、完成っす! すごいっす陛下! 町が丸ごと、真っ黒な膜に包まれてるっす!』
ヴァルグレイヴは、魔法陣の上で、大きく息を吐いた。
「……これで、聖騎士団は入れん」
魔王の結界は、魔王が解かない限り、何者も破れない。
三百年、一度として破られたことはなかった。
「ネフィに、伝えろ。勇者に、しばらくルーメンから出ぬよう、と」
『了解っす!』
◆ ◆ ◆
二日後の夕方
聖騎士団は、ルーメンの町の南、結界のすぐ外に陣を張っていた。
白いマントの騎士たちが、黒い膜を前に、剣を抜いて斬りつけている。
聖別された刃が膜に触れるたび、火花が散る。
だが、膜は揺らぎもしなかった。
星見の塔で、ヴァルグレイヴは、汗に濡れた額を拭いながら、それを見ていた。
二日間、ほとんど眠っていない。
結界を維持するだけで、体の芯が削られていく。
リリエラが置いていった三包の胃薬は、とうに飲み尽くしていた。
それでも、膜は持ちこたえている。
『陛下、ネフィですぅ』
ネフィの念話が届いた。
『勇者さん、町から出ずに、おとなしくしてますぅ。……でもぉ』
「でも、何だ」
『さっきから、空を見上げて、首を傾げてますぅ』
ヴァルグレイヴの背中を、嫌な汗が伝った。
『「この町、空がずっと曇ってるね」って……』
「……ネフィ。止めろ」
『止めてますぅ! でも、勇者さん、
「なんか、空に膜が張ってるみたい。窓ガラスが汚れてるみたいな」って……』
「止めろ!」
『あ、町の時計塔に登り始めましたぁ……』
水晶玉に、ピッチの視界が切り替わった。
町で一番高い時計塔。
その屋根のてっぺんに、鎧の人影が立っていた。
頭のすぐ上に、黒い結界の膜が、天井のように広がっている。
勇者は、しばらく膜を見上げていた。
それから、荷物から、布を取り出した。
「……やめろ」
ヴァルグレイヴは、水晶玉に向かって呟いた。
「やめてくれ。それは、お前を守るために――」
勇者が、膜に、布を当てた。
ひと拭き。
黒い膜の、その一点だけが、すうっと透き通った。
夕焼けの空が、そこから覗く。
ふた拭き。三拭き。
透き通った部分が、どんどん広がっていく。
窓ガラスの曇りを拭き取るように。
三百年、一度として破られたことのない魔王の結界が。
星見の塔で、ヴァルグレイヴは、膝をついた。
結界を通じて、つながっていた魔力が、ぷつりと途切れた。
ルーメンの町の上空から、黒い膜が、きれいさっぱり消えていた。
夕焼けの空の下、時計塔のてっぺんで、勇者が満足そうに伸びをしていた。
そして町の南で、白いマントの騎士たちが、一斉に馬に飛び乗った。
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【通知】魔王の結界が消失しました。
【報告】勇者の進行度:72%
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「……リリエラ」
塔の階段を駆け上がってきた秘書官に、ヴァルグレイヴは、床に膝をついたまま言った。
「我は、勇者に、守らせてももらえんのか」




