第2話 闇牙のガルム(前編)
闇牙のガルム。
魔王軍において、四天王に次ぐ実力者と称される魔獣である。
体高は大人の背丈の三倍。全身を覆う漆黒の毛皮は、常に濃い瘴気を纏っている。
剣も矢も魔法も、その瘴気に触れた瞬間に腐り落ちる。
百年前、ガルム一体で人間の騎士団を三つ壊滅させた。
聖王国の年代記には、今も「黒い災厄」として記されている。
「陛下。お呼びと聞き、参上いたしました」
謁見の間。床に伏せた巨大な狼が、地響きのような声で言った。
吐く息に混じった瘴気で、近くの燭台の火が紫色に揺らぐ。
ヴァルグレイヴは玉座から身を乗り出した。
「ガルム。勇者を討て」
「勇者、でございますか。まだ旅立って数日の、駆け出しと聞いておりますが」
「そうだ。駆け出しのうちに潰す。出し惜しみはせん」
ガルムの金色の瞳が、愉快そうに細められた。
「承知。して、毒が効かぬというのは本当で」
「本当だ。だが、お前の瘴気は毒とは違う。触れるものすべてを腐らせる、呪いに近い力だ。
加護があろうと聖遺物があろうと、防げるものではない」
「御意。一噛みで終わらせてご覧に入れましょう」
ガルムは立ち上がり、謁見の間を出ていった。
巨体が通り過ぎた後の床には、黒い焦げ跡のような足跡が点々と残る。
「……あれ、掃除が大変なのです」
リリエラがぼそりと呟いた。
◆ ◆ ◆
決戦の地は、黒森の峠と定められた。
聖王国から魔王領へ入る街道の、最初の難所。左右を切り立った崖に挟まれ、逃げ場はない。
戦いの様子は、斥候のコウモリ魔族ピッチが、崖の上から念話で逐一報告することになっていた。
執務室で、ヴァルグレイヴは水晶玉の前に陣取っていた。
本当は書類仕事をしながら待つつもりだったが、気になって一枚も進まない。
『陛下、ピッチっす。勇者が峠に入りました。一人っす。仲間はいないっす』
「一人か。好都合だ」
『あ、ガルム様が出ました。崖の上から飛び降りて……うわ、でっか。勇者の前に立ちふさがったっす』
水晶玉の中で、小さな鎧の人影と、山のような黒い狼が向かい合っている。
人影はガルムの前足ほどの大きさしかない。
「勝ったな」
ヴァルグレイヴは小さく拳を握った。
『ガルム様、咆哮。勇者、吹っ飛んだっす。岩に叩きつけられたっす』
「よし」
『あ、起き上がったっす。剣を抜いて……斬りかかって……
うわ、剣が瘴気で溶けたっす。勇者、また吹っ飛んだっす』
「よしよし」
思った通りだ。毒は効かずとも、この勇者自身は強くない。
剣の腕も、体術も、並の兵士と変わらない。
ガルムの爪が振り下ろされるたび、勇者は転がり、跳ね飛ばされ、土埃にまみれていく。
『勇者、ずっと逃げ回ってるっす。でもなんか……何か取り出したっす』
「何をだ。聖剣か。聖遺物か」
『布っす』
「布?」
『ボロ布っす。それで……ガルム様の前足に、しがみついたっす』
水晶玉の映像が、土煙で真っ白になった。
「ピッチ、見えん。どうなっている」
『こっちも見えないっす! 土煙がすごくて……あと、なんか、変な匂いがするっす』
「匂い?」
『なんていうか……酸っぱいような、果物みたいな……すっきりした匂いっす』
ヴァルグレイヴは眉をひそめた。毒霧か。それとも聖水の類か。
長い沈黙。
やがて土煙が晴れていく。
『……陛下』
「どうした。勇者は」
『生きてるっす』
「ガルムは」
『……生きてるっす。というか、あの』
ピッチの声が、困惑に揺れていた。
『ガルム様が、白いっす』
「……は?」
『真っ白っす。ふわっふわっす。瘴気が一切出てないっす。
で、仰向けに寝転がって、お腹を出してるっす』
ヴァルグレイヴは水晶玉に顔を近づけた。
確かに、映っている。
峠の真ん中で、白銀の毛並みを陽光に輝かせた巨大な狼が、腹を見せて転がっていた。
その腹を、鎧の勇者がわしゃわしゃと撫でている。
ガルムの尻尾は、千切れんばかりに振られていた。
「…………」
『あ、勇者が歩き出したっす。ガルム様、ついていってるっす。尻尾振りながら』
「ガルム! ガルム、応答しろ!」
ヴァルグレイヴは念話を直接ガルムに繋いだ。
『……へいか……』
返ってきたのは、蕩けきった声だった。
「何があった! 何をされた!」
『わかりませぬ……。ただ……身体が……軽いのです……。
三百年、背負っていた重いものが……すべて、落ちたような……』
「瘴気はどうした! お前の瘴気は!」
『消えました……。陛下……我は今……生まれて初めて……毛並みが、さらさらなのです……』
念話の向こうから、満ち足りたため息が聞こえた。
『この者に……ついてゆきます……』
「待て、ガルム! ガルム!」
念話が切れた。
ヴァルグレイヴは、ゆっくりと椅子に座り直した。
目の前に、半透明の板が浮かぶ。
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【報告】勇者の進行度:8%
【通知】勇者の同行者が追加されました。
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「……リリエラ」
「はい、陛下。胃薬です」
差し出された薬包を受け取りながら、魔王は呟いた。
「我が軍の、四天王に次ぐ戦力が……勇者のペットになった」




