幕間① 白石、異世界でシチューを食べる
残業明けの帰り道だった、と白石は記憶している。
終電の一本前。駅のホームの、階段の脇の、甘い花の匂いがする木の前で、足元が光り、
気がつけば石造りの広間に立っていた。
「おお、勇者よ! よくぞ参られた!」
金ぴかの冠をかぶった男が両手を広げ、白い法衣の神官たちが一斉にひざまずいた。
話をまとめると、こうだ。ここは聖王国アルシェという国で、世界は恐ろしい魔王に支配されている。
魔王を倒せるのは、異世界から召喚された勇者だけ。だから、倒してきてほしい。
「……はあ」
白石に言えたのは、それだけだった。
神官の一人が水晶をかざして何やら唱えたが、首をひねって「見えませぬ」と言った。
周りがざわついた。
それから、ひときわ年老いた神官が進み出て、白石の右手を取った。何かを低く唱えながら、
手の甲を、指先でゆっくりとなぞる。少しだけ、ちくりとした。
見下ろすと、手の甲に、円と線を組み合わせた細かな模様が、薄く浮かんでいた。
「勇者の証にございます」
「……そうですか」
なぜか、それ以上、何も聞く気にならなかった。
その広間で、白石がまず思ったのは、魔王のことでも自分の身の上のことでもなかった。
(……この部屋、ずいぶん埃っぽいな)
豪華な絨毯の端は黒ずみ、柱の彫刻の溝には綿埃が詰まっていた。
けれど、それを口にする雰囲気ではなかったので、黙っていた。
用意された鎧を着て、兜をかぶった。
兜を外さないと決めたのは、城の人たちの視線が、どうにも好きになれなかったからだ。
値踏みするような、品物を見るような目。顔を見せない方がいい。理由はうまく言えないが、
そう思った。
三日後、白石は剣を一本と、わずかな路銀を渡されて城を出た。
見送りは、なかった。
◆ ◆ ◆
最初の宿場町の宿屋は『金麦亭』といった。
夕食は、肉と根菜のシチュー。運ばれてきた皿を見て、白石は少しだけ眉を寄せた。
縁が、うっすらと曇っている。スプーンも。
前の職場の先輩に、口を酸っぱくして言われたことがある。
――お客様の口に入るものの周りこそ、一番気をつけなさい。
白石は荷物から自分の布を取り出し、皿とスプーンを丁寧に拭いた。
曇りが取れると、なんとなく気分が良かった。
ついでに、右手の甲の模様も拭いてみた。落ちなかった。インクではないらしい。
刺青のようなものなのだろう、と思った。
なぜか、それ以上は、気にならなかった。
シチューは、少し苦味があった。
(この世界のスパイスかな。癖はあるけど、美味しい)
城の食事よりずっと温かい味がして、白石は一滴残さずたいらげた。
食べ終わってから、厨房をのぞいた。お礼のつもりで、洗い物を手伝わせてもらった。
料理人は妙に青い顔をしていたが、断られはしなかった。
大きな鍋が、こびりつきで真っ黒になっていた。気になったので、少し手を入れた。
部屋に戻ると、ベッドに倒れ込むようにして眠った。
出発の朝、いつもの癖で、部屋を少しだけ整えてから宿を出た。
◆ ◆ ◆
二つ目の宿場町の宿では、女将さんがよく笑う人だった。
「たんとお食べ! 旅の人は体が資本だからね!」
今度の煮込みも、やっぱり少し変わった風味がした。
この世界の料理は、どれも独特な隠し味があるらしい。
美味しかったので、おかわりをお願いした。
女将さんは、なぜか泣きそうなくらい喜んでくれた。
その夜、白石は宿の窓から町を眺めた。
灯りのともった家々。酒場から聞こえる笑い声。夜道を歩く、角の生えた魔族と人間の二人連れ。
楽しそうに話しながら、並んで歩いていく。
(魔王に支配されて、苦しんでいる……んだよね?)
城で聞いた話と、目の前の景色が、どうにも噛み合わない。
白石は兜の中で、小さく首を傾げた。
魔王って、どんな人なんだろう。
そんなことを考えながら、その夜もぐっすりと眠った。




