第13話 掲示板のない日々(後編)
聖王国アルシェ、王城。
召喚の間は、相変わらず埃っぽかった。
豪華な絨毯の端は黒ずみ、柱の彫刻の溝には綿埃が詰まっている。
この広間を掃き清める者は、もう何十年もいない。
召喚の儀を行う時と、その結果を確かめる時にしか、誰も足を踏み入れないからだ。
広間の中央、床に描かれた召喚陣の上に、一枚の大きな水晶板が据えられていた。
水晶板には、魔王領の地図が浮かんでいた。
南の国境から北の魔王城へ、一本の光の線が伸びている。
線の先端は、魔王城まであと三割ほどの位置で、ゆっくりと明滅していた。
「七割、か」
金の冠をかぶった男が、水晶板を見下ろして呟いた。
聖王国アルシェ国王、ルドルフ十三世。
痩せた頬に、落ちくぼんだ目。
かつて白石を「勇者よ、よくぞ参られた」と迎えた時の、両手を広げた笑顔は、今はどこにもなかった。
「歴代の勇者の中では、最も遠くまで進んでおりますな」
傍らに立つ老人が、しわがれた声で言った。
白い法衣の大神官、オルヴェン。
召喚の儀を司る者だ。
「だが、一度も殺しておらん」
国王は、吐き捨てるように言った。
「毒を食らい、魔獣を手懐け、罠を消し、亡者を成仏させ、湿原を湖にした。
魔王の幹部を、一人も殺しておらん。
それどころか、魔王領の民に慕われ、湖に名前までつけられておる」
「左様で」
「挙げ句、魔王と書状をやり取りしておるという話まである。勇者が。魔王と」
国王の拳が、水晶板の縁を叩いた。
「あれは、何のために呼んだと思っておる!」
◆ ◆ ◆
大神官オルヴェンは、怒る国王を横目に、法衣の袖の中で、そっと指を動かした。
老人の目の前に、半透明の板が浮かび上がった。
国王には見えない。
この国で、その板が見えるのは、代々の大神官だけだった。
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【神託】勇者の行動が、規定から逸脱しています。
【神託】魔王の行動が、規定から逸脱しています。
【神託】是正せよ。
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オルヴェンは、板の文字を読み、静かに頭を垂れた。
「陛下。神託が下りました」
国王が、はっと顔を上げた。
「何と」
「勇者と魔王、双方が、神の定めた道を外れていると。是正せよ、とのことです」
「是正……」
国王は、しばらく水晶板の光の線を見つめていた。
それから、乾いた声で言った。
「勇者が、魔王を討てば。神は、また我らに恩寵をくださるのだな」
「はい。これまでと同じく」
大神官は、淡々と答えた。
「勇者が魔王に挑むたび、神は我が国に恩寵を下さいました。
痩せた土地に実りを。
枯れた井戸に水を。
この小さな国が、三百年、魔王に呑まれずに生き延びてこられたのは、神の恩寵あればこそ」
「だが、今の勇者は挑みもせん」
「左様です。ですから、恩寵も、この数か月、途絶えております」
国王の顔から、血の気が引いた。
◆ ◆ ◆
「聖騎士団長を呼べ」
国王の命令で、広間に一人の騎士が現れた。
白銀の鎧に、白いマント。
腰には、聖別された長剣。
整った顔立ちには、何の感情も浮かんでいなかった。
聖騎士団長、ディートリヒ。
跪いた騎士の右手には、指輪がはめられていた。
聖騎士団の紋章が刻まれた、銀の指輪。
その紋章は、ある骸骨の指にはまった、錆びた指輪の紋章と、まったく同じだった。
「ディートリヒ。魔王領に入り、勇者のもとへ向かえ」
「御意。勇者を、どうなさいますか」
「督戦せよ。魔王と戦わせろ。剣を取らせろ」
国王は、そこで言葉を切った。
大神官が、静かに後を引き取った。
「団長殿。召喚の儀の決まりは、ご存じですな」
「はい」
ディートリヒは、顔色一つ変えずに答えた。
「新たな勇者は、前の勇者が命を落とした後でなければ、召喚できない」
広間に、冷たい沈黙が落ちた。
「もし、勇者が剣を取らぬのなら」
大神官は、穏やかな声で言った。
「次の勇者を呼ぶ、準備をせねばなりませんな」
ディートリヒは、深く頭を垂れた。
「心得ました」
◆ ◆ ◆
騎士が去った後、国王は、一人で水晶板の前に立ち尽くしていた。
光の線の先端が、魔王城の手前で、静かに明滅している。
「……あの勇者は、城を出る時、何も言わなかったな」
国王は、ぽつりと呟いた。
「見送りもせず、路銀もわずかしか持たせなかった。
これまでの勇者と、同じように。どうせ、すぐに死ぬのだからと」
大神官は、答えなかった。
国王は、召喚の間の、埃にまみれた柱を見上げた。
「あの者は、召喚されたその日に、この広間を見回していたそうだ。
何か、気になることでもあるかのように」
「左様で」
「……何を見ていたのだろうな」
答える者は、いなかった。
広間の床で、召喚陣の線が、うっすらと埃に埋もれていた。
大神官の目の前の板には、まだ、同じ文字が浮かび続けていた。
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【神託】是正せよ。
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