第12話 兜の下の秘密(中編)
峠の中腹で、嵐になった。
横殴りの雨と、肌を切るような風。
視界が白く煙り、三歩先も見えない。
シロが先頭に立って風を受け、ネフィが白石の腕を引いて、岩陰から岩陰へと進んだ。
白石の足取りが、おかしかった。
一歩ごとに、ふらつく。
ネフィが支えると、鎧越しにも分かるほど、体が熱かった。
「勇者さん! 熱、ありますよねぇ!?」
「……大丈夫。ちょっと、だるいだけ」
「大丈夫じゃないですぅ!」
その時、シロが吠えた。風雨の向こうに、小さな影が見えた。
古い山小屋だった。
◆ ◆ ◆
小屋の中は、埃と蜘蛛の巣だらけだった。いつもの白石なら、真っ先に気にしたはずだ。
だが、白石は戸口をくぐった瞬間、膝から崩れ落ちた。
「勇者さんっ!」
ネフィは白石を抱きとめた。重い。
鎧の重さだけではない。体に、力が入っていない。
シロが、濡れた体のまま白石の背中に寄り添った。
ネフィは震える手で、小屋の暖炉に火を起こした。
夢魔の魔法は、こういう時には役に立つ。
火が燃え上がると、ネフィは白石の左腕の包帯をほどいた。
息を呑んだ。
火傷の跡が、赤黒く腫れ上がっていた。
傷口から、嫌な色の汁が滲んでいる。
熱を持った皮膚が、ぱんぱんに張りつめていた。
「……膿んでる」
嵐の中を歩き続けたせいだ。いや、その前から、きっと痛かったはずだ。
それなのに、白石は何も言わなかった。
「なんで……なんで、言ってくれないんですかぁ……」
ネフィは、自分の荷物から薬と布を引っ張り出した。
傷口を清め、薬を塗る。だが、熱は下がらない。白石の呼吸は、どんどん浅く、速くなっていく。
鎧が、邪魔だった。
濡れた鎧が、体の熱を閉じ込めている。せめて、鎧を外して、体を冷やさないと。
ネフィは、白石の胸当ての留め金に手をかけた。
そして、兜に。
手が、止まった。
――兜を外すのは、一人の時だけ。
湖の夜、白石がそう言っていたのを、ネフィは知っていた。
直接聞いたわけではない。でも、白石がずっとそうしてきたことは、誰よりも近くで見てきた。
外したら、白石が一番守りたかったものを、ネフィが勝手に暴くことになる。
でも、このままでは。
白石の喉から、ひゅう、と苦しげな音が漏れた。
「……ごめんなさい、勇者さん」
ネフィは、兜の留め紐をほどいた。
◆ ◆ ◆
兜の下から、汗に濡れた黒い髪が、こぼれ落ちた。
暖炉の火に照らされた顔は、熱で赤く上気していた。
眉間に、苦しそうな皺が寄っている。閉じた瞼の睫毛が、小さく震えていた。
ネフィは、その顔を見つめたまま、動けなくなった。
「……ぁ」
声にならない声が、喉から漏れた。
思っていたより、ずっと――
ネフィは、両手で口を押さえた。
頭の中で、ばらばらだったものが、音を立ててつながっていく。
焚き火の夜の、細い腕。
一度も一緒に入ってくれなかった、お風呂。
決して外さなかった兜。
初めて会った日から、ずっと変わらなかった、あの目。
男の人がネフィを見る時の目とは、まるで違う、友達に向けるみたいな、まっすぐな目。
「……そっか」
ネフィは、ぽつりと呟いた。
「そっか。だから、だったんですねぇ……」
涙が、勝手にあふれてきた。
悲しいのではなかった。驚いたのでもなかった。
ただ、ひとりで知らない世界に放り出されて、誰にも頼れずに、
こんな重たい兜を被り続けてきた人のことを思ったら、どうしようもなく胸が痛かった。
シロが、そっとネフィの肩に鼻を押しつけた。
ネフィは振り返った。白い狼の金色の目が、静かにネフィを見ていた。
驚いていなかった。
「……ガルム様、知ってたんですかぁ?」
シロは、答える代わりに、ゆっくりと目を閉じた。
◆ ◆ ◆
夜半、熱は一番ひどくなった。
ネフィは、冷たい水で濡らした布で、何度も白石の額を拭いた。
それでも、熱は引かなかった。白石は、うわごとのように何かを呟いていた。
「……先輩……すみません……まだ、終わってなくて……」
「勇者さん……」
「……お母さん……今年も、帰れなくて、ごめん……」
ネフィは、白石の右手を、両手で握りしめた。
その時、白石の目が、うっすらと開いた。
焦点の合わない目で、ぼんやりと天井を見上げる。
「……ネフィ?」
「はい! ここにいますぅ!」
「……布、ある?」
かすれた声だった。
ネフィは慌てて、白石の荷物から、いつもの布を取り出した。
白石は、震える右手でそれを受け取った。
そして、半分眠ったような顔のまま、自分の左腕の傷に、そっと布を当てた。
ゆっくりと、丁寧に。
「……汚れてる、から」
それだけ言って、白石は、また目を閉じた。
ネフィは、白石の左腕を見つめた。
赤黒い腫れが、引いていた。滲んでいた嫌な色の汁が、消えていた。
傷は残っている。でも、それはもう、ただの、治りかけの火傷だった。
白石の呼吸が、少しずつ、穏やかになっていった。
◆ ◆ ◆
夜明け前。
嵐は止み、小屋の窓から、薄い光が差し込み始めていた。
ネフィは、眠っている白石の横に座っていた。
熱は、もうほとんど下がっていた。
その時、頭の中に、念話が届いた。
『ネフィ。……起きているか』
陛下の声だった。
『嵐の峠に入ったと、ピッチから聞いた。勇者は、無事か』
『……はい。熱を出しましたけど、もう大丈夫ですぅ』
『そうか』
念話の向こうで、陛下が、ほっと息をつくのが分かった。
少しの沈黙の後、陛下は、言いにくそうに続けた。
『ネフィ。手当てをしたのなら、勇者の兜は外したのか』
ネフィの心臓が、跳ねた。
『……はい』
『素顔を、見たのか』
『……はい』
『どんな顔だった。攻撃のためではない。ただ、知りたいのだ。
我に会いに来るという者が、どんな顔をしているのか』
ネフィは、眠っている白石の顔を見た。
汗に濡れた黒い髪。熱の引いた、穏やかな寝顔。
陛下に報告すれば、それは陛下の知るところとなる。
陛下だけではない。陛下の前に浮かぶ、あの板にも。システムにも。
この人が、たった一人で守ってきたものを。
ネフィは、目を閉じた。
『……優しそうな顔、でしたぁ』
『そうか』
『黒い髪で……若くて……すっごく、優しそうな顔ですぅ』
『若い男か』
ネフィは、一瞬だけ、息を止めた。
『……若い、ですぅ』
『そうか。……ありがとう、ネフィ。ゆっくり休め』
念話が、切れた。
ネフィは、長い長い息を吐いた。
嘘は、ついていない。たぶん。でも、本当のことも、言わなかった。
魔王軍諜報部の工作員として、ネフィは初めて、陛下に情報を伏せた。
顔を上げると、シロがこちらを見ていた。ネフィは、唇に人差し指を当てた。
シロは、もう一度、ゆっくりと目を閉じた。
ネフィは、白石の枕元に置いてあった兜を、両手で持ち上げた。
そして、眠る白石の頭に、そっと、元通りに被せた。




