幕間⑪ 白石、煙突の詰まった人に会う
大きな人だった。
赤銅色の肌に、燃えている髪。白石の倍はある背丈。
そして胸の真ん中に、鉄の格子のはまった、暖炉みたいなものがついていた。
その暖炉から、もくもくと黒い煙が出ていた。
「腑抜けた魔王の代わりに、俺が貴様を焼き尽くす!」
大きな人は、そう叫んで笑った。
笑うたびに、胸の暖炉から黒い煙がどっと吹き出して、大きな人はげほげほと咳き込んだ。
(……あの人、苦しくないのかな)
最初に思ったのは、それだった。
◆ ◆ ◆
シロが飛び出していった。
白い毛並みと、赤い炎がぶつかる。
シロが噛みつき、大きな人が殴る。
丘の中腹が、あっという間に炎の海になった。
ネフィが、白石の前に紫色の壁を張ってくれた。
周りを取り囲んだ火を吐くトカゲたちの炎を、必死に防いでいる。
白石は、剣を握ったまま、何もできずに立っていた。
分かっていた。自分は強くない。
剣はまともに振れないし、魔法も使えない。
こういう戦いでは、足手まといにしかならない。
シロが、殴り飛ばされた。白い体が、丘を転がり落ちていく。
「シロ!」
叫んだ瞬間、ネフィの壁が、ぱりんと割れた。
目の前が、真っ赤になった。
◆ ◆ ◆
熱い、と思う暇もなかった。
気がつくと、地面に倒れていて、ネフィが白石の上に覆いかぶさっていた。
ネフィの背中の小さな翼が、焦げて煙を上げていた。
「勇者さんっ……勇者さん……!」
左腕が、痛かった。
鎧の籠手が熱で歪んで、その下の腕が、じんじんと焼けるように痛んだ。
「……ネフィ、翼」
「わたしは平気ですぅ! 勇者さんの腕が……!」
ネフィは泣いていた。泣きながら、白石を抱きかかえて、丘の上から逃げようとしていた。
白石は、ネフィの腕をそっと押しのけて、立ち上がった。
大きな人が、丘の麓で笑っていた。笑いながら、咳き込んでいた。
胸の暖炉から吹き出す黒い煙が、空を覆い隠すほどに広がっていた。
(あれ、煙突が詰まってるんだ)
元の世界で、古い家の暖炉や薪ストーブを見たことがある。
煙突に煤が溜まると、煙がうまく抜けずに、部屋の中に逆流する。
火の燃え方も悪くなって、黒い煙ばかり出るようになる。
あの人の胸の暖炉は、まさにそれだった。
三百年分くらいの煤が、格子の奥にびっしりこびりついている。
だから、あの人の炎は、あんなに黒くて、苦しそうなんだ。
「勇者さん、どこ行くんですかぁ!」
「ちょっと、気になるところがあるから」
白石は、荷物から布を取り出した。
◆ ◆ ◆
炎の中を歩くのは、思っていたよりずっと熱かった。
鎧が焼けて、肌に張りつく。息を吸うと、喉が焦げそうだった。
それでも、足を止めなかった。止めたら、たぶん、もう二度と歩けない気がした。
大きな人が、驚いた顔で白石を見下ろしていた。
「貴様……なぜ避けん!」
白石は答えずに、その胸に手を伸ばした。
鉄の格子に、布を当てる。
熱い。布が焦げそうだった。でも、焦げなかった。
不思議なことに、布はいつも、白石が手を入れている間だけは、何にも負けなかった。
格子の隙間から、奥の煤を掻き出すように。一本一本、丁寧に。
気になったので、手を入れた。
大きな人の拳が、白石の頭の上で、止まっていた。
◆ ◆ ◆
格子の最後の一本を拭き終えた時、ごう、と音がした。
暖炉の奥の炎が、色を変えた。
赤黒く濁っていた炎が、すうっと澄んで、青くなった。
ガスコンロの火みたいな、きれいな青。黒い煙が、ぴたりと止まった。
空を覆っていた煙が、風に流されて、晴れていった。
大きな人が、膝をついた。
胸に手を当てて、大きく、大きく、息を吸い込んだ。
「……息が、吸える」
かすれた声だった。
「三百年……ずっと、煙が詰まっていた。息をするたびに、胸の奥が焼けるようだった。それが……」
大きな人は、白石を見上げた。赤い目が、潤んでいた。
それから、空に向かって、大声で笑い出した。
さっきまでの、咳まじりの笑いではなかった。
腹の底から、気持ちよさそうに、どこまでも響くような笑い声だった。
火を吐くトカゲたちが、きょとんとした顔で、主人を見ていた。
「引け! 炎を戻せ!」
大きな人が叫ぶと、森を焼いていた炎が、しゅるしゅると縮んで、トカゲたちの口に戻っていった。
大きな人は立ち上がり、白石に背を向けた。
「異界の勇者よ。この借りは、いつか必ず返す」
そう言い残して、大きな人は、トカゲたちを引き連れて、北へ去っていった。
◆ ◆ ◆
白石は、その場にへたり込んだ。
左腕が、今になって猛烈に痛み始めた。
シロが、煤だらけの体で丘を這い上がってきて、白石の隣にどさりと座った。
ネフィが、泣きながら飛びついてきた。
「勇者さんのばかぁ……ばかばかばかぁ……!」
「うん。ごめん」
白石は、焼けていない右手で、ネフィの頭を撫でた。
焦げた翼を、そっと撫でた。
「ネフィ、守ってくれてありがとう」
ネフィは、白石の胸に顔を埋めて、わんわん泣いた。
◆ ◆ ◆
その夜。
焚き火のそばで、ネフィが白石の左腕の手当てをしてくれた。
歪んだ籠手を外し、焼けた鎧の袖を、慎重に切り開いていく。
火傷は、思っていたよりひどくなかった。赤く腫れてはいるけれど、水ぶくれは小さい。
「……よかったですぅ。跡、残らないと思いますぅ」
ネフィが、ほっとしたように息をついた。
それから、薬を塗った白石の腕を、じっと見つめた。
細い腕だった。鎧を着ていない腕を、ネフィに見せるのは、初めてだった。
ネフィは、何か言いかけて、口を閉じた。
包帯を巻き終えて、ネフィが立ち上がった時、ネフィの耳がぴくりと動いた。
誰かの声を聞いている顔だった。
しばらくして、ネフィは、焚き火の向こうの暗がりを見つめたまま、小さく呟いた。
「……陛下が、勇者さんのこと、教えてほしいって」
「魔王が?」
「はい。攻撃のためじゃなくて、知りたいからって」
ネフィは、白石の方を振り返った。
焚き火の光が、紫の瞳に揺れていた。
「勇者さん。わたし、勇者さんのこと、もっと知りたいですぅ」
白石は、ネフィの目を見返した。
なんだか、いつもと違う目だった。




