幕間⑩ 白石、返書をしたためる
「魔王陛下から、ですぅ」
朝、ネフィが差し出した封筒には、黒い竜の紋章の封蝋が押されていた。
白石は、しばらくそれを手に持ったまま、動けなかった。
魔王からの手紙。魔王を倒しに来た勇者に。
(果たし状、とか?)
恐る恐る封を切った。
中身は、果たし状ではなかった。
◆ ◆ ◆
「……環境整備局、初代局長」
三度読み返して、白石は便箋を膝に置いた。
年俸は将軍と同等。城下に邸宅。部下が二十名。
休暇は年に六十日。白い狼とその他の同行者も客分として遇する。
「すごい好条件ですよねぇ」
ネフィが、横から覗き込んで言った。
なぜか、ちょっと誇らしげだった。
「……うん。すごい」
本当に、すごい条件だった。
元の世界の職場とは、比べものにならない。
休みは年に六十日。六十日。
白石は、元の世界で最後に連休を取ったのがいつだったか、思い出せなかった。
それに、文面がとても丁寧だった。
勇者の湖のこと。町々の井戸や鐘のこと。
白石がしてきたことを、一つ一つ挙げて、感謝の言葉が添えてある。
どれも、ちゃんと報告を読んで、自分の言葉で書いているのが分かった。
(この人、本当に、全部読んでるんだ)
酒場の老婆の話を思い出した。三日三晩寝ずに、自分で帳簿をつけていた魔王。
◆ ◆ ◆
その日一日、白石は考え続けた。
歩きながら考え、昼ご飯を食べながら考え、シロのブラッシングをしながら考えた。
受ければ、もう魔王と戦わなくていい。この国で、好きな仕事をして暮らせる。
ネフィともシロとも、ずっと一緒にいられる。
悪くない。悪くないどころか、夢みたいな話だ。
でも。
局長、という言葉が、どうしても引っかかった。
元の職場に、尊敬していた先輩がいた。
現場で一番手際が良くて、どんな難しい現場も、魔法みたいに片付けてしまう人だった。
白石は、その先輩の背中を見て仕事を覚えた。
その先輩が、ある年、主任に昇進した。
現場には出なくなった。朝から晩まで、書類と電話と会議。
人手が足りない、予算が足りない、クレームが来た。
一年後、先輩は胃に穴を開けて入院した。
見舞いに行った時、先輩は病院のベッドで、ぽつりと言った。
――現場に戻りたいなあ。
白石は、それを忘れられなかった。
「ネフィ」
「はい、ですぅ」
「魔王って、胃が弱いんだよね」
「えっ。……う、噂ですぅ」
「管理職、大変なんだね。どこの世界も」
ネフィは、何か言いかけて、やめた。代わりに、小さく頷いた。
◆ ◆ ◆
もう一つ、引っかかっていることがあった。
召喚された日、聖王国の王は言った。魔王を倒せ、と。それが白石の仕事だった。
でも、この国を歩いてきて、魔王を倒さなければならない理由が、一つも見つからなかった。
逆に、倒してはいけない理由なら、たくさん見つかった。
(だったら、私の仕事って、何なんだろう)
一度引き受けた仕事は、最後までやる。
それは、元の職場で教わったことだ。投げ出すのは嫌だった。
でも、仕事の中身が間違っているなら。
依頼主の説明が、事実と違うなら。
現場で確認する。それが一番確実だ。
(魔王に、会いに行こう)
会って、話を聞く。
この国のこと。
予言のこと。
聖王国のこと。
自分が呼ばれた本当の理由。
それから、決めればいい。
◆ ◆ ◆
その夜、白石は宿の机に向かって、返書を書いた。
便箋は、宿の主人に分けてもらった安物だ。
羽ペンにはまだ慣れないけれど、一字一字、丁寧に書いた。
拝啓、時下ますますご清栄の、と書いたところで、ネフィが後ろから覗き込んできた。
「ハイケイ、ってなんですかぁ?」
「私の世界の、手紙の書き出し。目上の人に出す時の決まり文句」
「へぇ……勇者さんの世界、めんどくさいですねぇ」
「うん。めんどくさいけど、ちゃんとしたいの。大事な相手には」
ネフィは、それきり黙って、白石の手元を見ていた。
お断りの理由を書いた。
先輩のことを思い出しながら。
それから、会いに行きたいと書いた。
最後に、胃をお大事に、と書いた。
追伸に、ネフィの揚げパンの好みを書いたら、
ネフィが真っ赤になって「なんで書くんですかぁ!」と白石の背中を叩いた。
◆ ◆ ◆
返書を送って、数日が経った夕方のことだった。
ネフィが、急に立ち止まった。
耳に手を当て、誰かの声を聞いているような顔をしている。
シロも、同時に足を止め、南の空を振り返った。
空が、赤かった。
夕焼けの赤ではない。
地平線の向こうから、炎が空を舐めるような、禍々しい赤。
「勇者さん」
ネフィの顔から、血の気が引いていた。
「陛下……魔王陛下から、伝言ですぅ。
四天王の一人が、勝手に勇者さんを焼きに来るって。逃げろ、って」
白石は、赤い空を見上げた。
魔王から。
逃げろ、と。
自分を倒すはずの相手が、自分に、逃げろと言っている。
胸の奥が、じわりと温かくなった。
返事は、まだもらっていない。
でも、これが返事なのかもしれない、と思った。
「……ありがとう、って伝えて」
「勇者さん!」
「でも、逃げない」
白石は、荷物から布を取り出して、握りしめた。
「私、話をしに行くって書いたから。途中で背中を向けたら、嘘になっちゃう」
シロが、白石の隣に並んだ。白い毛並みが、赤い空の色に染まっていた。
ネフィは、泣きそうな顔で白石を見て、それから、ぐっと唇を噛んで、白石の反対側の隣に立った。
「……もう。勇者さんって、ほんとにめんどくさいですぅ」
「うん。知ってる」
三人は、赤い空に向かって、並んで立っていた。




