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幕間⑨ 白石、魔王の噂を聞く

町の入り口の掲示板に、その布告は張ってあった。


「聖王国より召喚されし勇者、魔王を討つべく魔王領を北上中。民は、これに協力せぬこと」


黒い竜の紋章の印。

魔王の署名。

白石は、兜の中で、しばらくその文字を見つめていた。


(そっか。そうだよね)


分かっていたことだった。

自分は、魔王を倒すために呼ばれた。

魔王から見れば、敵だ。魔王の国の人たちにとっても、本当は、歓迎すべき相手ではない。

ここまでの町の人たちが優しかったのは、たまたまだったのだ。


「勇者さん……」


ネフィが、心配そうに覗き込んできた。


「大丈夫。今日は、町の外で野宿しようか。迷惑かけちゃ悪いし」


そう言って、白石が踵を返しかけた時だった。


「あーっ! 勇者様だ!」


町の中から、子どもの声が響いた。


◆ ◆ ◆


あっという間に、人だかりができた。


「本当に来てくださった!」「布告の通りだ!」「ほら、白い狼もいる!」


白石は、何が起きているのか分からなかった。

町長だという恰幅のいい獣人が、人垣をかき分けてやってきて、白石の手を両手で握った。


「勇者様! お待ちしておりました! 魔王様の布告で、こちらにお越しになると知りましてな!」

「え、あの、協力しないようにって……」

「ええ、ええ、存じております! 協力はいたしません!

ですので、お代は一切いただきませんし、宿も勝手にお使いください!

我々は何も協力しておりません!」


それは協力なのでは、と思ったが、口には出せなかった。


「それでですな、勇者様。誠に厚かましいお願いなのですが、町の井戸が十年来濁っておりまして……」


白石は、ネフィを見た。ネフィは、なぜか顔を両手で覆って、肩を震わせていた。

笑いをこらえているようだった。

シロは、白石の足元で、尻尾をゆっくりと振っていた。


◆ ◆ ◆


井戸は、確かに濁っていた。気になったので、手を入れた。

それから、教会の錆びた鐘。

下水の詰まった路地。

苔だらけの共同浴場。町の人に案内されるまま、

気になったところに手を入れていったら、日が暮れていた。

ただ、一か所だけ、手を入れなかった場所がある。

共同浴場の脱衣所の柱に、小さな刻み目が、何本も並んでいた。

手垢で黒ずんで、ところどころに、墨で名前が書いてある。


(……これ、落ちる)


布を当てれば、きっと全部、きれいになる。

白石が胸元に手を伸ばしかけた時、湯から上がってきた若い母親が、慌てて声を上げた。


「あっ、勇者様、そこは……! うちの子らの、背丈の跡なんです。毎年、誕生日に測って」


白石は、布を、そっと戻した。


「……すみません。汚れに、見えちゃって」

「いいえ。よその人には、汚れに見えますよね」


母親は、柱の一番下の、小さな刻み目を、指でなぞった。

墨の名前は、そこで止まっていた。


「この子は、去年の冬に、流行り病で」


白石は、何も言えなかった。

汚れに見えても、拭いてはいけないものがある。

前の会社で、柏木先輩に一度だけ言われたことがあった。

お客さんの「大事な汚れ」は残すんだ。

それが分からないうちは、半人前だぞ、と。

あの時は、よく分からなかった。

その夜、白石は、その柱のことを、長いこと考えていた。

その夜、町の酒場で、歓迎会が開かれた。

白石は、隅の席で、兜の隙間から少しずつスープを飲んでいた。

町の人たちは、次から次へと料理を運んできて、白石の周りで楽しそうに飲み、歌い、笑っていた。

隣のテーブルの、年老いた人間の女性が、白石に話しかけてきた。


「勇者様。あんた、魔王様を倒しに来なすったんだってねえ」

「……はい。一応、そういうことになってます」

「そうかい。まあ、あんたのことだ。何か考えがあるんだろうよ」


老婆は、ジョッキを傾けた。


「でもね、勇者様。これだけは知っといておくれ。わしは、魔王様に命を救われたんだよ」

「命を……」

「六十年前の大飢饉さ。麦が一粒も実らなかった年でね。

わしはまだ小娘だったが、家族みんな、もう駄目だと思っとった」


老婆は、遠くを見るような目をした。


「そしたら、魔王様の倉から、麦が配られたんだ。

国中の村に、一軒残らず。

魔王様は三日三晩寝ずに、どの村に何袋送るか、自分で帳簿をつけてたって話だよ」

「……自分で、帳簿を」

「そういうお方なんだよ。怖い顔をしとるがね。

税は軽いし、道は綺麗だし、魔族も人間も、喧嘩せんように取り計らってくださる」


周りのテーブルから、「そうだそうだ」「魔王様万歳!」と声が上がった。

誰かが、魔王を讃える歌を歌い始めた。

老婆は、白石の鎧の腕を、ぽんぽんと叩いた。


「だからね、勇者様。魔王様を倒すのは、ちょっと待ってやってくれんかね。

あんたもいい人なのは、わしら、もうよく分かっとるから」


白石は、何も答えられなかった。


◆ ◆ ◆


宿の部屋に戻ると、白石は寝台に腰を下ろして、長いこと黙っていた。

ネフィが、隣にちょこんと座った。シロは、足元で丸くなっている。


「ねえ、ネフィ」

「はい、ですぅ」

「魔王って、いい人なの?」


ネフィは、少しだけ驚いたように目を見開いた。

それから、白石の顔を――兜を、じっと見つめた。

長い沈黙の後、ネフィは小さく頷いた。


「……はい。すっごく、いい人ですぅ」

「そっか」

「真面目でぇ、責任感が強くてぇ、民のことばっかり考えててぇ」


ネフィは指折り数えて、それから、ふっと笑った。


「あと、胃が弱いですぅ」

「……胃?」

「あ」


ネフィは、しまった、という顔をして、口を押さえた。


「う、噂ですぅ! そういう噂を、聞いたことがあるだけですぅ!」


白石は、ネフィを見た。ネフィは、白石と目を合わせようとしなかった。

シロが、足元で、深々とため息をつくように鼻を鳴らした。

白石は、それ以上聞かなかった。

代わりに、窓の外の夜空を見上げた。

北の方角。魔王城がある方。

召喚された日、聖王国の王は言った。

魔王は世界を苦しめる、恐ろしい存在だと。

でも、ここまで歩いてきて、白石が見たものは違った。


平和な町。

笑う人たち。

魔王に命を救われた老婆。

魔王の布告を、勇者への心遣いだと信じて疑わない町長。

そして、古戦場の朝に、あの骸骨が言った言葉。


――あの国を、信じるな。


(会って、話がしたい)


魔王と。

剣を向けるためではなく、ちゃんと、話を。

白石は、初めて、はっきりとそう思った。


◆ ◆ ◆


その夜更け。

白石が寝静まった後、宿の窓を、小さなコウモリが叩いた。

ネフィは音を立てずに窓を開け、コウモリから、黒い竜の紋章で封をされた書状を受け取った。


「陛下からっす。直接、勇者さんに渡せって」


ネフィは、月明かりの中で、封蝋の紋章を見つめた。

それから、眠っている白石の方を振り返って、小さく、ほんの小さく笑った。


「……陛下も、同じこと、考えてたんですねぇ」


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