白石、大仕事を請け負う
街道が、落石で塞がれていた。
迂回路は一本だけ。
案内板には、かすれた文字で「腐泥の大湿原」と書いてあった。
湿原の入り口に立った瞬間、白石は兜の中で顔をしかめた。
臭い。
泥と、腐った水と、それよりもっと重たい何かが混ざった匂い。
見渡す限り、黒い泥が波打ち、ところどころから紫色の靄が立ちのぼっている。
枯れた木が骨のように突き出し、水面には得体の知れない泡がぶくぶくと浮いていた。
「……これは、大仕事だね」
白石は、腕まくりをした。
籠手を外して、鎧の袖を肘まで上げる。
隣でネフィが「えっ、通り抜けるんじゃなくてぇ?」と目を丸くしていた。
通り抜けるつもりだった。最初は。
でも、湿原の縁にある小さな村を見てしまったのだ。
◆ ◆ ◆
村の家々は、泥と靄に半分埋もれるようにして建っていた。
家の前で、小さな子どもが咳き込んでいた。
ずっと、止まらない咳だった。
母親らしい女の人が、その背中をさすりながら、白石たちを不安そうに見ていた。
村長だという老人が、杖をつきながら出てきた。
「旅の方。この湿原は、抜けるのに二か月はかかりますぞ。
瘴気で体を壊します。悪いことは言わん、引き返しなされ」
「村の人たちは、ずっとここに?」
「三百年、ここに住んでおります。他に行く当てもないのでな」
老人は、咳をする子どもを見やって、目を伏せた。
「魔王様も、気にかけてくださってはいるのです。
毎年、浄化の予算を検討してくださって。ただ、この湿原は大きすぎて……」
白石は、もう一度湿原を見渡した。
汚れている。
とても、とても汚れている。
三百年分の汚れだ。
そして、その汚れのせいで、子どもが咳をしている。
(放っておけない)
昔から、そうなのだ。
◆ ◆ ◆
一日目は、湿原の端の、ほんの一角だけで終わった。
泥をかき分け、淀んだ水路を探し、詰まっているものを取り除く。
気になったところに、片っ端から手を入れていく。
少し進んでは、また次。
二日目、村の子どもたちが様子を見に来た。
「ゆうしゃのおにいちゃん、なにしてるの?」
(おにいちゃん、と呼ばれるような歳でもないんだけどな)
少し苦笑しながら、白石は答えた。
「お片付け。ここ、綺麗にしたら、水が流れるようになるから」
「ほんと?」
「ほんと」
三日目、子どもたちが手伝い始めた。
小石を拾い、枯れ枝を運び、泥だらけになって笑っていた。
四日目、ネフィが手伝い始めた。
「泥んこは嫌ですぅ」と文句を言いながら、誰よりも熱心に石を運んでいた。
五日目、シロが大きな岩を鼻で押して動かし始めた。
子どもたちが歓声を上げて、シロの背中によじ登った。
シロは迷惑そうな顔をしていたが、振り落とそうとはしなかった。
一週間が経つ頃には、湿原の北側から、澄んだ水が流れ始めていた。
◆ ◆ ◆
二週目のある夕方。
作業を終えた白石が、湖になりかけた水辺で一息ついていると、ネフィが駆け寄ってきた。
「勇者さぁん! 湖、すっごく綺麗になったから、一緒に水浴びしましょうよぉ!」
「あ、いや。私はいいよ」
「えぇ? 泥だらけじゃないですかぁ」
「後で入るから。ネフィ、先に行ってきて」
ネフィは、じっと白石の兜を見つめた。
「……勇者さん、絶対一緒にお風呂入ってくれないですよねぇ」
「そうだっけ」
「そうですぅ。宿の大浴場も、いっつもわたしが寝た後に一人で行ってますぅ」
白石は、何も言わなかった。
兜を外すのは、一人の時だけ。
召喚された日から、そう決めている。
理由は、自分でもうまく説明できない。
ただ、あの城の人たちの目を思い出すと、どうしてもそうしたくなるのだ。
ネフィは少し頬を膨らませて、それから、ふっと力を抜いた。
「……まあ、いいですけどぉ。いつか、一緒に入ってくださいねぇ」
「うん。いつかね」
ネフィは、子どもたちと一緒に、水辺へ駆けていった。
その夜、全員が寝静まってから、白石は一人で湖に入った。
月が水面に映っていた。
三百年ぶりに澄んだ水は、冷たくて、気持ちが良かった。
◆ ◆ ◆
三週目の終わり。
湿原は、湖になった。
澄んだ水面に空が映り、湖の周りには柔らかな草が芽吹き始めていた。
紫の靄は、もうどこにもない。
村を発つ朝、子どもたちが総出で見送りに来た。
咳をしていたあの子が、白石の鎧の裾をつかんだ。
「おにいちゃん、ありがとう。きのう、はじめて、せき、しないでねれた」
白石は、しゃがんで、その子の頭を撫でた。
「よかった」
兜の中で、少しだけ、目の奥が熱くなった。
村長が、深々と頭を下げた。
「旅の方。この湖に、あなたの名をつけさせていただけませんか」
「えっ。いや、それはちょっと……」
「魔王様に、お伺いを立ててみます。きっと、お許しくださる」
白石は、なんと答えればいいのか分からなかった。
魔王を倒しに来た勇者の名前を、魔王が湖につけることを許す。そんなことが、あるのだろうか。
(……魔王って、本当に、どんな人なんだろう)
湖を背に、白石は北へ歩き出した。
魔王城まで、あと半分。
少しずつ、会ってみたいと思うようになっていた。




