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第8話 三百年の懸案事項(前編)

腐泥の大湿原。

魔王城の南に広がる、泥と瘴気の土地だ。

足を踏み入れれば膝まで泥に沈み、立ちのぼる瘴気は肺を焼く。

底なしの沼が点在し、泥の中には正体の知れない魔物が潜んでいる。

魔王軍ですら、ここを通る時は迂回する。

魔王城の財務記録には、この湿原について、三百年分の書き込みがある。


「腐泥の大湿原、浄化事業。概算費用、国家予算の三年分。見送り」


毎年、同じ一文。

最初の一行は、魔王になったばかりのヴァルグレイヴ自身の筆跡だった。

湿原の縁には、小さな村が一つある。

沼地の民と呼ばれる人々が、瘴気に咳き込みながら、細々と暮らしている。

浄化してやりたいと、ずっと思っていた。

だが、予算がどうしても足りなかった。

その湿原に、勇者を誘い込む。


「街道を、落石で塞ぎました。勇者の一行は、湿原を抜ける以外に道がありません」


リリエラの報告に、ヴァルグレイヴは深く頷いた。


「湿原を抜けるには、我が軍の精鋭でも二か月はかかる。その間に、次の手を考える」

「承知しました」

「……沼地の民の村には、勇者が立ち寄っても騒がぬよう、通達を出しておけ」

「既に出してあります」


◆ ◆ ◆


【一週目】


『陛下ぁ。勇者さん、湿原に入りましたぁ』


ネフィからの報告は、相変わらず律儀に届いていた。

勇者側についたとはいえ、報告をやめる気はないらしい。

もっとも最近は、報告というより、旅の日記に近い。


『進み具合、すっごく遅いですぅ。一日に、ほんの少ししか進んでませぇん』

「そうか!」


ヴァルグレイヴの声が、思わず弾んだ。

成功だ。初めて、作戦が成功している。


『勇者さん、湿原に入ってすぐ、立ち止まって腕まくりしてぇ。

「これは大仕事だね」って言ってましたぁ』

「大仕事。そうだろう。そう簡単には抜けられん」


その週、魔王は久しぶりに夕食を完食した。胃薬は、一包も飲まなかった。


◆ ◆ ◆


【二週目】


「陛下。南方の測量官から、報告が上がっております」


リリエラが、一枚の羊皮紙を差し出した。


「湿原の、面積が」

「面積?」

「縮んでおります」


ヴァルグレイヴは、羊皮紙を受け取った。

先週の測量図と、今週の測量図。

湿原の北側、勇者が入った地点から、泥の領域が、ぽっかりと削り取られたように消えている。


「……瘴気濃度の欄が、空白だが」

「測定できないそうです。瘴気が、検出されないので」


ヴァルグレイヴは、羊皮紙を机に置いた。


「ネフィ」


念話を繋ぐと、すぐに明るい声が返ってきた。


『はぁい、陛下ぁ』

「勇者は、湿原で何をしている」

『えっとぉ……すみません、ちょっと手が離せなくてぇ。

今、泥の中の大きい石、ガルム様と一緒に運んでるんですぅ。

勇者さんが、ここ綺麗にしたら水が流れるからって』

「お前が手伝っているのか!?」

『沼地の村の子どもたちも手伝ってますぅ。

あ、子どもたち、勇者さんのこと「ゆうしゃのおにいちゃん」って呼んでますぅ。

勇者さん、すっかり人気者ですぅ』


ネフィの声は、心なしか誇らしげだった。


『じゃ、忙しいので切りますねぇ』


念話が切れた。

ヴァルグレイヴは、しばらく羊皮紙を見つめていた。


◆ ◆ ◆


【三週目】


「陛下」


リリエラが、今度は三枚の羊皮紙を抱えてきた。


「一枚目。南方測量官より。腐泥の大湿原は、消滅しました」

「…………」

「二枚目。農務官より。旧湿原の跡地に、澄んだ湖と、肥沃な湿地が出現。

土壌を調査したところ、極めて良質。水田に最適とのこと。

開墾の許可と予算を求めています」

「…………」

「三枚目。沼地の民の村長より、陛下への嘆願書です」


リリエラは、三枚目を読み上げた。


「『魔王陛下。我ら沼地の民は、三百年、瘴気に苦しんでまいりました。

このたび、旅のお方のおかげで、湿原は美しい湖となりました。

村の子らが、生まれて初めて咳をせずに眠っております。

つきましては、この湖を、旅のお方にちなんで、勇者の湖と名付けることをお許しいただきたく』」


執務室に、長い沈黙が落ちた。


「……勇者は」

「三週目の終わりに、湖の畔を通り抜け、北へ進みました。精鋭で二か月かかる湿原を、三週間で」

ヴァルグレイヴは、机の引き出しから、古い財務記録を取り出した。

「腐泥の大湿原、浄化事業。概算費用、国家予算の三年分。見送り」


三百年分の、同じ一文。

魔王は羽ペンを取り、最後の行の下に、新しく書き込んだ。


「完了」


それから、ゆっくりと顔を覆った。


「……リリエラ」

「はい」

「我は、喜べばいいのか。嘆けばいいのか」

「両方でよろしいかと」


秘書官は、珍しく、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


「嘆願書へのご返答は、いかがいたしましょう」


魔王は、長い長いため息をついた。


「……許可する。勇者の湖、で構わん。開墾の予算も、出せ」

「承知しました」


――――――――――


【報告】勇者の進行度:46%

【警告】魔王領の瘴気濃度が、規定値を下回りました。


――――――――――


ヴァルグレイヴは、浮かんだ板の二行目を、じっと見つめた。

規定値。

瘴気に、規定値などというものがあったのか。

下回ってはいけないものだったのか。

沼地の村の子どもたちが、生まれて初めて咳をせずに眠っている。

それが、警告されるようなことなのか。

板は、いつものように、何も答えずに消えた。

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