幕間⑦ 白石、夜通し働く
怖かった。
地面から次々と手が生えてきて、骨と腐った肉の群れが、平原を埋め尽くしていく。
ホラー映画は苦手だった。
元の世界でも、ほとんど観たことがない。
剣で斬っても、砕けた骨がすぐに元に戻る。
押し倒されて、冷たい指が鎧の隙間を探ってくる。
シロが噛み砕いて引き剥がしてくれても、すぐに次が来る。
ネフィが、隣で魔法を撃っていた。
紫色の光。
見たことのない顔をしていた。
歯を食いしばって、泣きそうな目で、それでも白石の背中から一歩も離れなかった。
(ネフィ、魔法使えたんだ)
そんなことを、場違いに思った。
二度目に押し倒された時、白石の目の前に、骸骨の顔があった。
錆びた兜の下の、黒く煤けた頭蓋骨。
眼窩の奥で、青白い火が揺れている。
その火が、ひどく寂しそうに見えた。
汚れていた。泥と煤と、それよりもっと深いところに染み込んだ、黒いもの。
長い長い時間、誰にも手を入れてもらえずに、放っておかれた汚れ。
(この人たち、ずっとこのままだったんだ)
そう思ったら、怖さより先に、手が動いていた。
気になったので、手を入れた。
◆ ◆ ◆
頭蓋骨が、白くなった。
青白かった火が、ろうそくの灯りみたいな、柔らかな色に変わった。
骸骨はゆっくりと白石から離れて、深々と頭を下げた。
それから、光の粒になって、夜空へほどけていった。
消える直前、声が聞こえた気がした。かすれた、ほとんど風の音みたいな声で。
――ありがとう。
白石は、地面に座り込んだまま、光の消えた夜空を見上げていた。
気がつくと、周りが静かになっていた。
骸骨たちが、みんな、こちらを見ていた。
剣を、ひとつ、またひとつと、地面に落としていく。
そして、並び始めた。
白石の前に、一列に。
(……え、順番待ち?)
元の世界のことを思い出した。
年末の繁忙期、事務所の電話が鳴りやまなかったこと。
予約がいっぱいで、何週間も待ってもらったお客さんたちのこと。
待たせてしまっているのなら、やらなければ。
白石は布を握り直して、立ち上がった。
◆ ◆ ◆
一体、また一体。
頭蓋骨を拭く。
錆びた鎧の継ぎ目を拭う。
骨にこびりついた黒いものを、丁寧に落としていく。
全員、頭を下げて、光になって消えていった。
――ありがとう。
――やっと、帰れる。
――母さん。
かすれた声が、一つ消えるたびに聞こえた。
聞こえた気がしただけかもしれない。
でも、白石は兜の中で、ずっと泣いていた。
途中から、ネフィが隣にしゃがみ込んでいた。
何も言わずに、白石の手から汚れた布を受け取り、新しい布を渡してくれる。
どこから出してくるのか、ネフィの荷物からは布が尽きなかった。
シロは、列の横に座っていた。
一体が消えるたびに、静かに目を閉じていた。
腕が上がらなくなっても、手を動かした。
指の感覚がなくなっても、拭き続けた。
最後の一体が、空が白み始めた頃に、光になって消えた。
白石は、その場に膝をついた。
◆ ◆ ◆
丘の上に、まだ一人、残っていた。
ぼろぼろの外套を着た骸骨。
他の亡者とは違う。
眼窩の奥の火が、強く、冷たく、燃えている。
その骸骨が、ゆっくりと丘を下りて、白石の方へ歩いてきた。
ネフィが、息を呑むのが聞こえた。シロが、低く身構えた。
白石は、震える手を、少しだけ持ち上げた。
あなたも、と。
この人も、きっと、ずいぶん長いこと汚れたままなのだろう。
他の人たちよりも、ずっと深く。
骸骨は、白石の数歩手前で立ち止まった。
「……異界の者よ」
乾いた声だった。
けれど、その奥に、どこか懐かしいような響きがあった。
「我はまだ、拭われるわけにはいかぬ。果たしておらぬことがある」
白石は、首を傾げた。
骸骨の骨の指に、錆びた指輪がはまっているのが見えた。
擦り切れた紋章。
どこかで見た気がした。
召喚された日の、聖王国の城。
広間の柱に彫られていた紋章に、少し似ている気がした。
「一つだけ言っておく」
骸骨の眼窩の火が、白石の兜を、まっすぐに見つめた。
「あの国を、信じるな」
それだけ言って、骸骨は背を向けた。
朝霧の中に、外套の裾が溶けていく。
白石は、その背中が見えなくなるまで、ずっと見ていた。
◆ ◆ ◆
朝日が、平原を照らしていた。
昨夜まで亡者が埋め尽くしていた場所には、錆びた剣と、砕けた兜が、静かに転がっているだけだった。
「ネフィ」
「……はい、ですぅ」
「あの国って、聖王国のことだよね」
ネフィは、すぐには答えなかった。
朝日の中で、紫の髪が、少しだけ揺れた。
「……わたしからは、何も言えないですぅ」
それは、知らない、という意味ではない気がした。
白石は、それ以上聞かなかった。
代わりに、左手首の腕輪を見た。
透き通った青い石が、朝日を受けて光っている。
召喚されてから、この世界のことを、自分は何も知らない。
知っているのは、城で聞かされた話だけだ。
魔王が世界を苦しめている。
だから倒せ、と。
でも、ここまで歩いてきた町は、どこも平和だった。
魔族と人間が並んで歩いていた。
そして今、聖王国を信じるなと、骸骨に言われた。
(この世界、何かがおかしい)
初めて、はっきりとそう思った。
シロが、白石の手の甲を、ぺろりと舐めた。
「……うん。行こう」
白石は立ち上がった。
腕は鉛のように重かった。
でも、足は、ちゃんと前に出た。




