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第7話 千の亡者の行列(前編)

謁見の間の温度が、目に見えて下がった。

床を這うように、白い冷気が広がっていく。

燭台の火が青く縮み、窓の霜が音を立てて伸びた。


「――お呼びか、魔王」


玉座の前に立っていたのは、襤褸の外套をまとった骸骨だった。

眼窩の奥で、二つの青白い炎が揺れている。

肋骨の内側には、黒い靄が渦を巻いていた。

骨の指には、錆びた指輪が一つ。

どこかの国の紋章が刻まれているが、擦り切れて読めない。

四天王が一角、屍霊のモルド。

千の亡者を率いる、死者の王。

そして魔王軍で唯一、魔王を「陛下」と呼ばない男だった。


「モルド。勇者を止めろ」

「聞いている。毒も罠も呪いも幻も、すべて拭い去る勇者だそうだな」


モルドの顎の骨が、かたかたと鳴った。

笑っているらしい。


「生者の小細工が通じぬなら、死者の数で押し潰すまで。

我が亡者どもには、毒も呪いも意味をなさぬ。

痛みも恐れもない。千の骸が、ただ前へ進むのみ」

「……殺せとは言わん。止めればいい」


モルドの眼窩の炎が、ゆらりと大きくなった。


「甘くなったな、魔王」

「何だと」

「異界の勇者に情けをかけるか。あの国が呼んだ者に」


モルドの声に、冷たいものが混じった。

それは怒りとも、憎しみとも違った。

もっと古く、乾ききった何か。


「我は生者を信じぬ。とりわけ、あの国が異界から呼び寄せる者はな」


ヴァルグレイヴは、黙ってモルドを見た。

この骸骨がいつ、どこで死に、なぜ魔王軍に加わったのか。

三百年の付き合いになるが、ヴァルグレイヴは詳しく知らない。

モルドが話そうとしなかったからだ。

ただ、聖王国の名が出るたびに、眼窩の炎が、ほんのわずかに揺れることだけは知っていた。


「……任せる」

「承知した」


冷気を引きずりながら、モルドは謁見の間を出ていった。


◆ ◆ ◆


決戦の地は、古戦場の平原だった。

三百年前、魔王軍と聖王国軍が最後にぶつかった場所。

今も地面のあちこちから、錆びた剣や砕けた兜が顔を覗かせている。

日が暮れると同時に、地面が割れた。

骨の手が、土を掻き分けて伸びてくる。

一本、十本、百本。

錆びた鎧をまとった骸骨が、腐りかけた肉をぶら下げた死体が、次々と這い上がってくる。

千の亡者。

平原を埋め尽くす死者の群れが、一斉に、勇者たちの方へ顔を向けた。


『へ、陛下っ! 数がすごいっす! 地面が見えないっす!』


ピッチの念話が裏返っていた。

水晶玉の中で、勇者は剣を構えていた。

ネフィが勇者の背中に張りつくように立ち、白い狼が二人の前に出て、低く身構える。


『ネフィさん、どっちにつくんすか……』


ピッチの呟きに、ヴァルグレイヴは答えなかった。

亡者の群れが、動いた。

最初の一体が、勇者に掴みかかる。

剣が骨を砕いたが、砕けた骨はすぐに寄り集まって元に戻った。二体目、三体目。

勇者は押し倒され、ガルムが亡者を噛み砕いて引き剥がす。


『ネフィさんが……魔法撃ってるっす! 亡者に!』


水晶玉の中で、ネフィが紫の光弾を放っていた。

勇者に群がる亡者を、片端から吹き飛ばしている。

その顔は、泣いているようにも、怒っているようにも見えた。


「……そうか」


ヴァルグレイヴは、それだけ呟いた。

だが、焼け石に水だった。

亡者は痛みも恐れも知らない。

倒れても倒れても起き上がり、じりじりと三人を押し包んでいく。

勇者が、再び地面に引き倒された。

その上に、錆びた鎧の骸骨が覆いかぶさる。

腐った指が、兜の隙間に伸びた。


「――!」


ヴァルグレイヴは、思わず腰を浮かせた。

その瞬間、勇者の手が動いた。

布を握った手が、覆いかぶさった骸骨の顔――頭蓋骨を、拭った。

骸骨の動きが、止まった。

黒く煤けていた頭蓋骨が、白くなっていた。

眼窩の奥で燃えていた青白い炎が、ふっと、柔らかな金色に変わる。

骸骨は、ゆっくりと勇者から身を離した。

そして、深々と、頭を下げた。

次の瞬間、骸骨は光の粒になって、夜空へほどけていった。


『……陛下。今の……』

「見ていた」


平原の亡者たちが、一斉に動きを止めていた。

千の骸が、勇者を見ていた。

そして、一体、また一体と、手にしていた錆びた剣を、地面に落とし始めた。


『陛下……亡者が……』


ピッチの声が、震えていた。


『並んでるっす』


水晶玉に映っていたのは、信じがたい光景だった。

千の亡者が、勇者の前に、一列に並んでいた。

押し合うことも、争うこともなく。

まるで、順番を待つように。

勇者は、しばらく呆然とその列を見ていた。

それから、布を握り直して、最初の一体の前に立った。


◆ ◆ ◆


夜が明けるまで、勇者は手を動かし続けた。

一体拭くごとに、亡者は頭を下げ、光になって消えていった。

ネフィは途中から勇者の隣にしゃがみ込み、何も言わずに、勇者が差し出す手に新しい布を渡し続けた。ガルムは列の横に座り、静かに見守っていた。

東の空が白み始めた頃、列の最後の一体が、光になってほどけた。

平原には、勇者たち三人と、もう一人だけが残っていた。

襤褸の外套の骸骨。

モルドが、少し離れた丘の上に、ひとりで立っていた。


『陛下。モルド様が……勇者さんの方に、歩いていきますぅ』


ネフィの念話だった。

勇者は、膝をついたまま顔を上げた。

布を握った手が、疲れ果てて震えている。

それでも、近づいてくるモルドに向かって、その手を少しだけ持ち上げた。

あなたも、と言うように。

モルドは、勇者の数歩手前で立ち止まった。

長い沈黙があった。


『……異界の者よ』


ネフィの念話越しに、モルドの乾いた声が聞こえた。


『我はまだ、拭われるわけにはいかぬ。果たしておらぬことがある』


勇者が、首を傾げた。


『一つだけ言っておく』


モルドの眼窩の炎が、勇者の兜をまっすぐに見据えた。


『あの国を、信じるな』


それだけ言うと、モルドは背を向けた。

冷気をまとった外套が翻り、骸骨の姿は朝霧の中へ溶けていった。


――――――――――


【報告】勇者の進行度:40%

【警告】四天王「屍霊のモルド」の配下が全滅しました。

【警告】魔王の対応を、再評価しています。


――――――――――


ヴァルグレイヴは、水晶玉の前で、長いこと動かなかった。

千の亡者が、自分から並んだ。

三百年前の戦で死に、地の底で呪いに縛られ続けた者たちが。


「……リリエラ」

「はい」

「胃薬は、いらん」


リリエラは、薬包を差し出しかけた手を、そっと引っ込めた。

魔王は、白んでいく窓の外を見つめていた。

胃は痛まなかった。ただ、胸の奥のどこかが、ひどく静かだった。


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