第5話 嘆きの腕輪(前編)
夜更けの宿の裏手。
コウモリ魔族のピッチが、小さな木箱を抱えて舞い降りた。
「ネフィさん、お届け物っす。陛下からっす」
ネフィは無言で木箱を受け取り、蓋を開けた。
中には、銀細工の腕輪が一つ。蔦が絡み合うような繊細な意匠で、
中央に涙の形をした青い石がはめ込まれている。見た目だけなら、王侯貴族が身につける宝飾品だ。
嘆きの腕輪。
身につけた者の生命力を吸い続け、決して外れない。
先々代の勇者は、これをはめてひと月で、骨と皮になって死んだ。
「……陛下は、何て?」
「勇者への贈り物として渡せ、だそうっす。
仲間からの贈り物なら疑われないって、異界の知恵者が言ってたらしいっす」
「異界の、知恵者ぁ?」
「なんか最近、陛下、板に向かってぶつぶつ言ってるっす。草がどうとか」
ネフィは腕輪を見つめたまま、しばらく黙っていた。
青い石の奥で、何かがゆっくりと渦を巻いている。
触れれば、指先から体温を奪われていくような冷たさがあった。
「ピッチちゃん」
「はいっす」
「わたし、これ、渡さなかったらどうなるかなぁ」
ピッチは困ったように、小さな翼をぱたぱたさせた。
「……命令違反っす。諜報部、クビっす。たぶん、もっと悪いっす」
「だよねぇ」
ネフィは笑った。笑おうとした。うまくいかなかった。
◆ ◆ ◆
翌朝。
執務室の水晶玉には、ピッチの目を通した映像が映っていた。
ヴァルグレイヴは、書類を脇に押しやって、じっとそれを見ていた。
小さな町の広場。噴水の縁に腰かけた勇者と、その隣で、もじもじと指を組んでいるネフィ。
勇者の足元では、白い狼が丸くなっている。
『あのぅ、勇者さん』
ピッチの念話越しに、ネフィの声が聞こえた。
『これ……揚げパンの、お礼ですぅ』
差し出された小箱を、勇者は不思議そうに受け取った。蓋を開け、中の腕輪を取り出す。
朝日を受けて、銀細工がきらりと光った。
勇者はしばらく、腕輪を手のひらに乗せて眺めていた。それから、兜の奥から、くぐもった声がした。
『……こんな高そうなの、いいの?』
『い、いいんですぅ。勇者さんに、似合うと思ってぇ』
ネフィの声が、震えていた。
ヴァルグレイヴは、知らず拳を握っていた。
勇者は少し迷うそぶりを見せた後、籠手を外して、左の手首に腕輪をはめた。
かちり、と小さな音がした。
留め金が閉じた瞬間、青い石の奥の渦が、ぎゅるりと速度を上げた。
「入った」
ヴァルグレイヴは呟いた。
嘆きの腕輪が、獲物を捕らえた。
もう外れない。勇者の生命力は、今この瞬間から、石の中へ吸い上げられていく。
水晶玉の中で、勇者の体が、ぐらりと揺れた。
『勇者さんっ!』
ネフィが悲鳴のような声を上げ、勇者の腕にしがみついた。
白い狼が跳ね起き、勇者の背中を鼻先で支える。
『……大丈夫。ちょっと、立ちくらみ』
勇者の声は、明らかに力を失っていた。
噴水の縁に手をつき、肩で息をしている。
効いている。
毒も、瘴気も、魅了も通じなかった勇者に、初めて、確かに効いている。
「……リリエラ」
「はい」
「効いているぞ」
「……はい」
秘書官の返事は、短かった。
ヴァルグレイヴは水晶玉を見つめ続けた。勝てる。
このままひと月、いや、この勇者の弱さならもっと早く。
それなのに。
勇者の腕にしがみついたまま、泣きそうな顔で何度も名前を呼んでいるネフィの姿から、
なぜか目を逸らしたくなった。
◆ ◆ ◆
異変が起きたのは、その日の夕方だった。
『陛下ぁ』
ネフィからの念話だった。声が、ひどく掠れていた。
『勇者さん……昼間はずっと、具合悪そうにしてたんですぅ。
宿で横になってぇ。わたし、ずっとそばにいてぇ』
「そうか。それでいい。そのまま――」
『でもぉ、さっき』
ネフィが、すん、と鼻をすすった。
『勇者さん、起き上がって、腕輪をじっと見てぇ。「なんか、くすんできちゃった」って言ってぇ』
ヴァルグレイヴの背中に、嫌な予感が走った。
『それで……布で、腕輪を……』
「……どうなった」
『……青い石が、透き通ってますぅ』
念話の向こうで、ネフィが泣いていた。泣きながら、笑っていた。
『渦、なくなってますぅ。ただの、すっごく綺麗な、青い石ですぅ。
勇者さん、顔色……兜で見えないですけど、声、元に戻りましたぁ。
今、「お腹すいた」って言って、宿のご飯、二人前食べてますぅ』
「…………」
『腕輪、外れないままなんですけどぉ。
勇者さん、「ずっとつけてられるね、気に入った」って……「大事にするね」って……』
ネフィの声が、途切れた。
しばらくして、小さく、絞り出すように。
『……陛下。わたし、任務、失敗しましたぁ』
ヴァルグレイヴは、何も言えなかった。
叱るべきだった。だが、喉の奥で何かがつかえて、言葉が出てこなかった。
「……引き続き、潜入を続けろ」
ようやく、それだけ言った。
『……はい』
念話が切れた。
目の前に、半透明の板が浮かぶ。
――――――――――
【報告】勇者の進行度:27%
【通知】呪具「嘆きの腕輪」の効果が消失しました。
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「……リリエラ」
「はい、陛下」
「胃薬をくれ」
リリエラは薬包を差し出し、それから、珍しく、もう一言だけ付け加えた。
「陛下。今のお顔、少し、ほっとしておられるように見えます」
「……気のせいだ」
魔王は胃薬を飲み干し、窓の外に顔を背けた。




