第4話 石札と借り物の剣
自由都市アルカで迎えた最初の朝。
千鶴は、頬へ何かが触れる感覚で目を覚ました。
柔らかく、少し湿っている。
「……薫、やめて」
隣の寝台から返事はない。
代わりに、目の前で紫色の瞳が瞬いた。
「キュル」
「ノクス?」
小さな黒龍が、千鶴の胸の上へ乗っていた。
前足で身体を支え、千鶴の頬を舐めている。
「おはよう」
千鶴が頭を撫でると、ノクスは嬉しそうに喉を鳴らした。
昨夜、千鶴と薫は冒険者ギルドに併設された宿泊所へ泊まった。
仮登録者用の二人部屋。
寝台と小さな机、荷物を置く棚があるだけの簡素な部屋だったが、森の地面に比べれば十分すぎるほど快適だった。
布で包んだ三本の神器は、二人の寝台の間へ立てかけてある。
千鶴の大剣。
薫の長剣と短剣。
戦闘では使えない。
それでも、まだ見知らぬこの街で手の届かない場所へ置く気にはなれなかった。
「薫は?」
千鶴が隣を見る。
寝台は空だった。
毛布は綺麗に畳まれ、荷物も整理されている。
机の上には木製の皿と、小さなパンが二つ置かれていた。
そのうち一つは、半分ほど欠けている。
「……ノクス」
千鶴が胸の上を見る。
ノクスは顔を背けた。
口元に、小さなパン屑がついている。
「食べた?」
「キュル?」
「知らないふりしても、口についてるよ」
千鶴が指でパン屑を取る。
ノクスはその指まで舐めた。
扉が開き、薫が部屋へ戻ってきた。
腕には水の入った桶。
肩から布を下げている。
「起きたんだ」
「薫、ノクスがパン食べた」
「半分だけ残したのは偉いね」
「褒めるところ?」
「全部食べられると思ってたから」
薫は桶を床へ置いた。
「顔を洗って。初心者講習まで、あまり時間がない」
「朝ご飯は?」
「机の上」
「半分しかない」
「僕の分を食べていいよ」
「薫は?」
「もう食べた」
千鶴は薫の顔を見つめた。
「本当に?」
「本当」
「嘘じゃない?」
「姉さんより先に起きて、食堂へ行った」
「ずるい」
「何が?」
「一人で朝ご飯食べた」
「起こしたよ」
「聞いてない」
「三回呼んだ」
千鶴は昨日の朝と同じ言葉を聞き、黙った。
「また返事だけして寝た?」
「二回目には『ノクスに聞いて』と言ってた」
千鶴は胸の上の黒龍を見る。
ノクスは大きな欠伸をした。
「ノクスも寝てたよね」
「キュル」
「じゃあ仕方ない」
「仕方なくない」
薫は布を千鶴へ渡した。
「急いで」
「分かった」
千鶴は寝台から起き上がり、机のパンへ手を伸ばした。
その瞬間。
ノクスも同時に動いた。
「これは私の!」
「ギュッ!」
千鶴とノクスが、残されたパンを挟んで睨み合う。
薫はその様子を見ながら、静かに息を吐いた。
「食費を稼ぐ前に、講習へ遅刻しそうだね」
◇
初心者講習が行われるのは、ギルド本館の西側にある訓練棟だった。
石造りの広い講義室。
正面には黒い板が置かれ、壁には武器や魔獣の絵が並んでいる。
千鶴と薫が入った時、すでに二十人ほどの仮登録者が集まっていた。
人間。
獣の耳を持つ者。
背の低い岩のような肌を持つ者。
長い耳を持つ細身の女性。
年齢も種族もばらばらだったが、全員が胸元へ灰色の石札を下げている。
千鶴と薫も昨日受け取った仮登録証を身につけていた。
ノクスの首には、小型魔獣用の銀札がある。
「使い魔まで講習へ連れてきていいの?」
千鶴が尋ねる。
「受付では、小型なら問題ないって言われた」
「ノクス、静かにできる?」
「キュル」
「怪しい返事だね」
「姉さんと同じだよ」
二人が空いている席へ座る。
千鶴は布で包んだ大剣を椅子の脇へ置き、薫も双剣を壁際へ立てかけた。
周囲の仮登録者たちが、包まれた武器へ視線を向ける。
「随分、大きな武器だな」
後ろの席から声がした。
振り返ると、筋肉質な青年が千鶴の大剣を見ていた。
「大剣です」
「使えるのか?」
「今は使えません」
千鶴は正直に答えた。
青年は意味が分からないという顔をした。
「使えない武器を、どうして持ってる?」
千鶴は布に包まれた柄へ触れた。
「大切だからです」
青年はさらに尋ねようとしたが、講義室の扉が大きな音を立てて開いた。
室内の会話が止まる。
入ってきたのは、左目に傷を持つ大柄な男だった。
年齢は五十歳ほど。
焦げ茶色の髪に白髪が混じり、左脚には金属製の補助具がついている。
男は教卓の前へ立ち、全員を見渡した。
「今日の講習を担当する、バルドだ」
低く、よく通る声。
「以前はゴールド級冒険者として活動していた。今は新人教育と、死に急ぐ馬鹿を止める仕事をしている」
何人かの仮登録者が背筋を伸ばした。
千鶴は隣の薫へ小声で囁く。
「強そうだね」
「聞こえるよ」
バルドが千鶴を見る。
「そこの白い髪。何か言ったか?」
「強そうだと言いました」
「そうか」
男は表情を変えずに答えた。
「俺が強いかどうかは、お前たちには関係ない。今日覚えるのは、お前たちがどれほど弱いかだ」
千鶴が口を閉じる。
バルドは教卓へ数枚の札を置いた。
石。
鉄。
銀。
金。
透明な宝石。
青白い金属。
「冒険者ランクは六段階」
バルドは一枚ずつ持ち上げる。
「ストーン、アイアン、シルバー、ゴールド、ダイヤモンド、ミスリル」
最後の青白い札を置いた。
「お前たちは、まだストーンですらない。講習と実地試験を終えれば、正式なストーン級として登録される」
若い仮登録者が手を上げた。
「強い魔獣を倒せば、一気にシルバーやゴールドへ上がれますか?」
バルドは即答した。
「そう考える新人から先に死ぬ」
室内が静かになる。
「冒険者ランクは戦闘能力だけで決まらない。依頼達成率、判断力、仲間や市民の救助、規則の順守、報告の正確さ。すべてを含めた、ギルドからの信用だ」
黒板へ大きく文字を書く。
千鶴には読めない。
しかしバルドが説明する内容は理解できた。
「高等級の武器を持った馬鹿より、撤退を判断できる凡人の方が長く生きる。長く生きて、依頼主と仲間を帰還させる者が上へ進む」
バルドは先ほど質問した若者を見る。
「強い敵を一人で倒せば英雄になれると思うな。依頼を成功させても、仲間を全員死なせたなら評価は下がる」
千鶴の表情が僅かに曇った。
英雄。
その言葉が、胸へ引っかかった。
エルディアでは、敵を倒し続けることで英雄と呼ばれた。
けれど、どれほど勝っても戦争は終わらなかった。
どれほど守っても、失う者はいた。
薫が机の下で、千鶴の指先へ軽く触れた。
千鶴は弟を見る。
薫は何も言わない。
それでも千鶴は小さく頷いた。
バルドは次に、壁へ掛けられていた七枚の板を外した。
それぞれに、異なる魔獣の絵が描かれている。
小型の獣。
群れを作る牙獣。
巨大な蟲。
城壁へ襲いかかる怪鳥。
都市を覆う竜。
大陸の上空へ浮かぶ巨大な影。
最後の一枚は、黒く塗り潰されていた。
「次は、魔獣や事件の危険度を示す脅威位階だ」
一枚目を指す。
「位階Ⅰ、獣害級。個人や家畜へ被害を与える程度。ストーン級が主に対処する」
二枚目。
「位階Ⅱ、群害級。商隊や小さな集落へ被害を及ぼす。基本的にはアイアン級以上のパーティーで対応する」
三枚目。
「位階Ⅲ、災害級。村や街道網を壊滅させる危険がある。シルバー級が中心となる」
四枚目。
「位階Ⅳ、都市災害級。都市一つが消える可能性がある。見つけても戦うな。ゴールド級と都市軍へ報告しろ」
五枚目。
「位階Ⅴ、国家災害級。国家の存亡に関わる」
六枚目。
「位階Ⅵ、大陸終焉級。複数国家が協力しなければ対処できない」
最後に、黒く塗り潰された板を持つ。
「EX、規格外。能力、被害範囲、討伐方法のいずれも測定不能」
仮登録者たちが息を呑む。
「そんな魔獣、本当にいるんですか?」
誰かが尋ねた。
「確認されている存在は少ない」
バルドが答える。
「だから存在しないと思うなら、冒険者には向いていない」
千鶴は手を上げた。
バルドが目を向ける。
「質問は?」
「魔獣を見ただけで、位階は分かるんですか?」
「分からん」
「大きさとか、魔力の強さでは?」
「参考にはなる。だが絶対ではない」
バルドは壁の絵を見た。
「小さくても毒で村を全滅させる魔獣がいる。巨大でも人間へ興味を示さない魔獣もいる。同じ種類でも、個体の強さ、知能、群れの規模、場所によって位階は変わる」
「じゃあ、どうやって判断するんですか?」
「調べる」
短い答え。
「足跡。食痕。魔力の残滓。被害者の証言。周囲の生態系。分からなければ戦わず戻れ」
バルドは千鶴を真っ直ぐ見る。
「冒険者に必要なのは、倒せるかどうかを見抜く力じゃない。倒せないかもしれないと疑う力だ」
千鶴は少し考え、頷いた。
「分かりました」
「本当に分かった顔には見えんな」
「努力します」
「それも信用できんな」
薫が小さく息を吐く。
「姉さんと話した人は、大体同じ反応になるね」
「聞こえてるよ、薫」
「静かにしろ」
バルドの声で、二人は同時に前を向いた。
◇
講習の後半。
訓練棟の隣にある武具庫へ、仮登録者たちは移動した。
壁には剣、槍、斧、弓、盾が整然と並んでいる。
使い込まれた革鎧や胸当ても、サイズごとに分けられていた。
「冒険者が使う武装には、複数の分類がある」
バルドは一本の鉄剣を持ち上げた。
「普通武装。第一から第三等級。鉄や鋼で作られ、特殊能力を持たない。一般に購入できる」
次に、柄へ小さな魔石が埋め込まれた剣を示す。
「魔導武装。第四から第五等級。魔石や術式を搭載し、使用者の魔力で能力を発揮する。これも購入できるが、高価だ」
机の上へ、獣の牙を使った短剣を置く。
「魔獣武装。第一から第九等級。魔獣素材と武装鍛冶師の技量によって等級が決まる。強い素材を使えば、必ず強い武器になるわけではない」
「第九等級の魔獣武装はいくらですか?」
誰かが尋ねた。
「お前が生涯働いても買えん」
「……諦めます」
「金の問題だけではない。高等級の魔獣武装には、素材となった魔獣の残留本能が宿る場合がある。武器に使われる者もいる」
続いて、古びた杖を見せる。
「遺物武装。第一から第九等級。古代遺跡から発掘され、現在の技術では再現できない能力を持つ。等級は素材ではなく、能力と危険性で決まる」
バルドは一度言葉を切った。
「そして、既存の等級では測れない武装があるとされる」
千鶴と薫の視線が、壁際に置いた布包みへ向いた。
「神器、神装。通称EX級」
武具庫が静まり返る。
「本当にあるんですか?」
「伝承ではな」
バルドは答えた。
「神や原初龍、世界法則と結びつき、所有者を選ぶ。現代では存在が確認されていないものも多い。新人のお前たちには関係のない話だ」
千鶴は薫の耳元へ顔を近づけた。
「関係あるよね」
「黙ってて」
「私たちの剣、EXなのかな」
「たぶん」
「聞いてみる?」
「絶対にやめて」
バルドが二人を見る。
「また何かあるのか?」
「ありません」
薫がすぐに答えた。
千鶴も笑顔で頷く。
「何もないです」
バルドは二人を疑うように見た後、貸与武装へ話を戻した。
「仮登録者へ貸し出されるのは、第二等級の普通武装だ。破損させれば報酬から修理費を引く。紛失すれば全額弁償。故意に売れば資格剥奪だ」
武具庫の扉が開かれる。
「自分の得意武器を選べ」
仮登録者たちが一斉に動いた。
千鶴は迷わず、大剣が並ぶ場所へ向かった。
数本を持ち上げ、重さを確かめる。
一本目。
首を傾げる。
二本目。
すぐに戻す。
三本目。
数度振り、眉を寄せる。
「これにする」
千鶴が選んだのは、幅広い量産型の鉄大剣だった。
刃には何度も研ぎ直した跡があり、柄の革も一部擦り切れている。
バルドが近づく。
「気に入ったのか?」
「いいえ」
「なら、なぜ選んだ?」
「ここにある中では、一番ましだったから」
周囲の仮登録者が振り返る。
バルドの眉が僅かに動いた。
「貸与品に文句があるか?」
「重いことは問題ありません」
千鶴は大剣を水平に構えた。
「でも、重さが前へ寄りすぎています。柄も少し短い。振り下ろすにはいいけど、途中で軌道を変えにくいです」
バルドは大剣を受け取り、片手で持ち上げた。
数度振る。
「以前、修理した時に刀身を厚くしすぎた剣だ」
「やっぱり」
「一度振っただけで分かったのか?」
「何度も大剣を使ってきたので」
「戦闘経験は多少と申告したそうだな」
千鶴は視線を逸らした。
「多少の基準は、人それぞれです」
「便利な言葉だ」
バルドは大剣を千鶴へ返した。
「それでも使うのか?」
「今の私が選べる中では、この剣が一番合います」
千鶴は柄を握り直す。
「武器が私に合わないなら、私が合わせます」
少し離れた場所で、薫が長剣と短剣を選んでいた。
二本を交互に持ち、重さを確認する。
長剣は少し重く、短剣は柄が細い。
もともと対として作られたものではない。
薫は腰へ鞘を取りつけ、抜刀の動きを何度も繰り返した。
短剣の位置を僅かに下げる。
長剣の鞘を背中側へずらす。
それだけで二本の抜き方が自然につながった。
バルドが今度は薫へ近づく。
「二刀としては、随分と釣り合いが悪いぞ」
「分かっています」
「交換しなくていいのか?」
「ほかの組み合わせも同じでした」
薫は長剣を抜く。
続けて短剣。
刃が干渉しない位置で止める。
「武器に自分を合わせます。今は選べる立場ではないので」
「姉弟で同じようなことを言うな」
「双子ですから」
千鶴が横から答えた。
「姉さんには聞いてない」
バルドは二人を見比べた。
「お前たち、本当に何者だ?」
薫は穏やかな顔で答える。
「冒険者としては、初心者です」
「その答えも便利だな」
◇
武器を選んだ後は、防具の貸与が行われた。
千鶴には革鎧と鉄製の胸当て。
肩と腰へ最低限の金属板が取りつけられている。
大剣を振るため、腕周りの動きを妨げないものを選んだ。
「少し大きい」
千鶴が胸当てを押さえる。
「中へ布を詰めれば調整できる」
薫が留め具を見る。
「背中側を少し締めるよ」
「苦しくしないでね」
「動いてずれる方が危険」
薫は革紐を引き、千鶴の身体へ合わせる。
千鶴は腕を動かし、何度か大剣を振る姿勢を取った。
「うん。これなら動ける」
薫には、軽装の革鎧と腕当て。
黒に近い焦げ茶色の革で作られ、足音を抑えるため金属部分が少ない。
「薫、似合う」
千鶴が言う。
「貸与品だよ」
「でも、ちゃんと冒険者みたい」
「姉さんもね」
「本当?」
「胸当てが少し傾いてるけど」
「薫がつけたんでしょ!」
ノクスは千鶴の周囲を一周し、新しい防具の匂いを嗅いでいる。
やがて胸当てへ前足をかけ、よじ登ろうとした。
「ノクス、爪を立てないで!」
「キュル」
「借り物だから!」
ノクスは不満そうに鳴き、千鶴の肩へ飛び乗った。
バルドが手を叩く。
「装備が決まった者から、訓練場へ出ろ」
◇
訓練場には、木製の人形が十体並んでいた。
人間の形をしているが、関節部分へ魔石が組み込まれている。
訓練用魔導人形。
低出力ではあるものの、実際に動き、攻撃を行う。
「午前中に説明した内容を、身体へ覚えさせる」
バルドは人形の一体へ手を置いた。
「まず声を出せ。攻撃する時、後退する時、魔法を使う時。仲間が分からなければ連携ではない」
魔導人形が剣を構える。
「次に、倒すことだけを考えるな。武器を落とす。足を止める。視界を奪う。逃げ道を作る。目的に合わせて戦え」
バルドが人形の手首を打つ。
木剣が落ちた。
続けて足を払い、動きを止める。
「魔獣を討伐する場合も同じだ。素材を回収する依頼なら、価値のある部位を傷つけるな。生け捕りなら殺すな。護衛なら敵を追いすぎるな」
千鶴が手を上げる。
「全部倒した方が安全じゃないですか?」
「追った先に別の群れがいたら?」
「……戻ります」
「護衛対象を置き去りにした後でか?」
千鶴が黙る。
「敵を倒すことと、依頼を成功させることは同じではない」
バルドは全員を見る。
「今日、最も覚えて帰れ。お前たちは戦うために依頼を受けるんじゃない。依頼を果たすために、必要なら戦うんだ」
訓練が始まった。
仮登録者が二人一組となり、魔導人形と戦う。
攻撃を受け止める者。
背後から武器を落とす者。
魔法で足を止める者。
上手く連携できず、互いにぶつかる組もいた。
千鶴と薫の番が来る。
「ノクスは外で待ってて」
千鶴が肩から下ろす。
ノクスは訓練場の端へ座った。
銀札を前足で触りながら、二人を見つめている。
バルドが二体の魔導人形を起動した。
片方は剣。
もう片方は槍。
「条件は、相手を破壊せず、二体とも行動不能にすること」
千鶴が大剣を構える。
「壊したら弁償?」
「貸与武器も人形もな」
「薫、絶対に壊さないようにしよう」
「主に姉さんが気をつけて」
剣を持つ人形が千鶴へ向かう。
槍の人形は距離を取り、薫を狙った。
「私が前!」
千鶴が声を上げる。
大剣で剣を受け止める。
衝撃。
いつもの神器とは違う重心が、腕を外へ引っ張った。
千鶴はすぐに柄を滑らせ、刀身の角度を変える。
相手の剣を受け流す。
「薫、右!」
「見えてる」
薫は槍の一撃を長剣で逸らし、短剣で柄を挟んだ。
手首を返す。
槍が人形の手から外れ、地面へ落ちる。
そのまま短剣の柄で肘の関節を打つ。
魔石の流れが一瞬だけ乱れ、右腕が動かなくなった。
「魔力回路を狙った?」
バルドが呟く。
薫は答えない。
長剣を人形の足元へ滑らせる。
刃ではなく、峰で膝裏を押す。
人形が倒れる。
短剣を首元へ当てた。
「一体停止」
薫が声を上げる。
千鶴も剣の人形と打ち合っていた。
大剣は使いにくい。
振り下ろした後の戻りが遅い。
だから千鶴は、大きく振らなかった。
柄と刀身を使い、相手の剣を押さえる。
身体ごと踏み込む。
大剣の鍔で、木製の手首を打った。
剣が落ちる。
「姉さん、壊さないで」
「分かってる!」
千鶴は大剣を横へ振る。
刃は人形へ当てない。
大剣の平らな面で胸を押し、地面へ倒す。
人形が起き上がろうとした瞬間、切っ先を喉元へ止めた。
木の表面へ、刃が僅かに触れる。
傷はついていない。
「二体停止!」
千鶴が叫ぶ。
バルドは腕を組み、二人を見ていた。
「今の動き、どこで覚えた?」
「故郷で」
薫が答える。
「軍人の動きだ」
「似たような組織にいたことはあります」
「それを『戦闘経験は多少』と呼ぶのか?」
千鶴が大剣を肩へ担ぐ。
「私たちの故郷では、もっと強い人も多かったので」
「その故郷とやらへ、一度行ってみたいものだな」
薫は小さく答えた。
「僕たちも帰りたいと思っています」
バルドは薫を見た。
一瞬だけ、男の表情から疑いが薄れる。
「事情は聞かん」
やがてそう言った。
「ギルドへ害をなさず、依頼を守るならな」
千鶴が笑う。
「ありがとうございます」
「まだ合格とは言っていない」
「え?」
「今日の講習は、知識と基礎動作を見るだけだ」
バルドは一枚の依頼書を取り出した。
「正式なストーン級になるには、実地試験を終える必要がある」
仮登録者たちが集まる。
バルドは依頼書を掲示板へ貼った。
文字は読めない。
千鶴と薫は説明を待つ。
「依頼内容。アルカ東水路に発生した小型魔獣の駆除」
バルドが読み上げる。
「推定位階、Ⅰ。獣害級」
千鶴が少しだけ笑った。
「最初の相手にしては、小さそうですね」
「その油断を捨てるのが、今日の講習だったはずだ」
バルドが即座に返す。
千鶴は口元を引き締めた。
「はい」
「試験は明日の朝。四人一組で行う。依頼の達成、報告、判断、連携をすべて評価する」
薫が手を上げる。
「魔獣の種類は分かっていますか?」
「水路鼠と推定されている」
バルドは別の紙を貼る。
水中を泳ぐ、犬ほどの大きさの鼠が描かれていた。
「通常は一体なら大きな脅威ではない。だが繁殖が早く、群れれば位階Ⅱへ上がることもある。水路を傷つけず、巣を確認し、可能なら女王個体の有無を調べろ」
「倒すだけじゃない」
千鶴が呟く。
「そうだ」
バルドは頷いた。
「お前たちの最初の依頼は、強さを見せる場所ではない」
男の視線が、仮登録者一人ひとりへ向けられる。
「学んだことを守り、生きて帰るための試験だ」
講習が終わる。
仮登録者たちは貸与武器を持ち、訓練棟を出ていく。
千鶴は新しい大剣を見下ろした。
神器とは比べものにならない。
名もない。
特別な能力もない。
多くの新人が使い、傷つけ、修理してきた一本。
それでも。
今の千鶴が、この世界で最初に預かった剣だった。
「薫」
「なに」
「この剣、大切に使おうね」
「さっきまで重心に文句を言ってたけど」
「文句は言う。でも、大切にはする」
薫は腰に下げた長剣と短剣へ触れた。
「僕も同じ」
ノクスが駆け寄り、千鶴の脚へよじ登る。
「ノクスも明日、一緒に行く?」
「キュル!」
「試験官へ確認してから」
薫が言う。
「勝手に連れていって失格になったら困る」
「ノクスも仲間なのに」
「規則を守るのも冒険者の仕事だって、今習ったよね」
千鶴は少し考えた。
「冒険者って、思ったより細かいね」
「姉さんに必要なことばかりだったね」
「薫にも必要だよ」
「僕は守るつもり」
「私も」
薫は姉を見る。
千鶴は一度言葉を止めた後、言い直した。
「……守れるように努力する」
薫は少しだけ笑った。
「そこは成長したね」
千鶴も笑い返す。
二人の胸元で、灰色の石札が揺れた。
まだ正式な冒険者ではない。
英雄だった過去も。
眠る神器も。
この街では、二人の価値を証明してくれない。
だからこそ。
借り物の剣と、自分たちの判断だけで。
千鶴と薫は、この世界における最初の一歩を踏み出そうとしていた。




