第2話 黒龍は姉に懐き、弟を恐れる
千鶴が目を覚ました時、胸の上に黒い塊が乗っていた。
重い。
呼吸をするたび、柔らかい腹が小さく上下している。
「……薫」
返事はない。
千鶴は眠気の残る目を擦り、自分の胸元を見下ろした。
小さな黒龍――ノクスが、前足を投げ出したまま気持ちよさそうに眠っている。
翼は力なく左右へ広がり、細い尻尾が千鶴の腰へ巻きついていた。
昨夜まで警戒していたとは思えないほど、完全に安心しきった寝姿だった。
「かわいい……」
千鶴がそっと頭を撫でる。
艶のある黒い鱗は、見た目に反して滑らかで温かい。
ノクスは目を閉じたまま喉を鳴らし、千鶴の手へ頭を押しつけた。
「起こさないで」
焚き火の向こうから薫の声がした。
千鶴は視線を上げる。
薫は木の根元に腰を下ろし、長剣を膝へ置いていた。
夜通し見張っていたのか、目の下に僅かな疲れが見える。
「薫、寝てないの?」
「少しは寝た」
「どのくらい?」
「一時間くらい」
「全然寝てないじゃん!」
千鶴の声に驚き、ノクスが飛び起きた。
「キュッ!?」
小さな翼を広げ、辺りを見回す。
やがて危険がないと分かると、千鶴の胸へ再び身体を沈めた。
薫はため息をつく。
「だから起こさないでって言ったのに」
「薫が寝てないからでしょ」
「姉さんとノクスが熟睡していたから、誰かが見張る必要があった」
「交代で起こしてって言ったよね?」
「起こそうとした」
「本当?」
「三回呼んだ」
「……聞こえなかった」
「知ってる」
薫は長剣を鞘へ戻した。
「一回目は返事だけして寝た。二回目は『あと五分』と言った。三回目はノクスを抱き締めて離さなかった」
千鶴は自分の腕の中を見る。
ノクスは何事もなかったように前足を舐めている。
「ノクスが離してくれなかったんだよ」
「責任を龍に押しつけないで」
「この子、意外と力が強いから」
「姉さんの腕がしっかり回ってたけど」
「寝てたから覚えてない」
「便利な言葉だね」
千鶴はノクスを抱き上げた。
「薫にごめんなさいして」
「キュル?」
「ほら、かわいいから許してって」
薫は無言で二人を見る。
ノクスも紫色の瞳で薫を見つめ返した。
数秒後。
ノクスは千鶴の腕の中で身体をひねり、薫から顔を背けた。
「嫌われてるね」
千鶴が言う。
「わざわざ確認しなくても分かってる」
「薫、昨日この子に何かした?」
「会った瞬間から唸られた」
「顔かな」
「どういう意味?」
「薫って、黙ってると少し怖いから」
「姉さんの前では、よく喋ってるつもりだけど」
「私は慣れてるから」
薫は返事をせず、残っていた水を僅かに口へ含んだ。
小瓶の中身は、もう底が見えている。
食料もない。
昨夜食べた保存食が最後だった。
冗談を言っていられる状況ではなかった。
千鶴もそれを理解している。
ノクスを膝へ置き、真剣な顔で尋ねた。
「今日中に森を抜けられるかな」
「分からない。でも、昨日よりは高い場所へ向かっている」
薫は木々の隙間から見える空を確認した。
「朝日があちらから昇った。風は北から南へ流れている。鳥の群れも同じ方向へ飛んでいた」
「鳥についていくの?」
「渡り鳥なら水場や開けた場所へ向かっている可能性がある」
「さすが薫」
「だから今日は、僕より先に走らないこと」
「分かった」
「知らない植物へ触らない」
「分かった」
「一人で危険な場所へ行かない」
「分かった」
「本当に?」
千鶴は視線を逸らした。
「努力する」
「分かってない時の答えだね」
ノクスが千鶴の膝から下り、焚き火の跡へ鼻を近づけた。
炭になった枝を前足で転がし、興味深そうに匂いを嗅ぐ。
「ノクスはどうする?」
薫が尋ねる。
「一緒に来るんじゃない?」
「野生の龍かもしれない」
「でも私から離れないよ」
千鶴が立ち上がると、ノクスもすぐに後を追った。
右へ動けば右へ。
左へ動けば左へ。
千鶴が止まると、ノクスは足元へ座る。
「ほら」
千鶴は得意そうに笑った。
「完全に懐いてる」
「僕には完全に警戒してるけどね」
薫が一歩近づく。
ノクスはすぐに千鶴の脚の後ろへ隠れ、顔だけを覗かせた。
喉の奥から低い声を出している。
「グルル……」
「薫、ゆっくり」
「何もしてない」
「急に近づくから怖いんだよ」
「普通に一歩進んだだけ」
薫はその場へしゃがんだ。
目線をノクスと同じ高さまで下げ、右手を差し出す。
「何もしない」
ノクスは動かなかった。
鼻先を僅かに動かし、薫の匂いを確かめている。
薫がさらに手を近づける。
あと少しで触れられる距離。
その瞬間。
ノクスの瞳が大きく見開かれた。
「ギャウッ!」
小さな口から黒い火花が飛び出す。
薫は咄嗟に手を引いた。
火花は地面へ落ち、草を一瞬で灰に変えた。
普通の炎ではない。
赤く燃えることもなく、触れた部分だけを黒く崩して消えた。
薫は灰になった草を見つめる。
「今のは……」
「ノクス!」
千鶴が抱き上げる。
「駄目でしょ! 薫は敵じゃないよ!」
ノクスは千鶴の胸へ顔を埋め、身体を震わせていた。
攻撃しようとしたのではない。
恐怖で、反射的に火を吐いた。
薫は自分の右手を見る。
ノクスが見ていたのは手ではない。
昨日と同じ。
自分の背後。
「やっぱり、僕の中に何かを見てる」
千鶴の表情が曇る。
「何かって?」
「分からない」
薫は胸へ手を当てた。
「でも、ノクスは僕自身を怖がってるわけじゃない気がする」
「だったら何を?」
「それを知るためにも、人のいる場所を探そう」
薫は立ち上がった。
「この世界の龍について、僕たちは何も知らない」
千鶴はノクスを優しく撫でた。
「薫は大丈夫だよ」
ノクスへ言い聞かせる。
「私の大切な弟だから」
ノクスは恐る恐る顔を上げた。
薫を見る。
唸り声は止まっていた。
それでも千鶴の腕から下りようとはしなかった。
◇
三人は森を南へ進んだ。
正確には二人と一匹。
ノクスは最初こそ千鶴の肩へ乗っていたが、やがて飽きたらしく、頭の上へ移動した。
前足で白金の髪を掴み、器用に身体を支えている。
「薫、見て」
千鶴が振り返る。
「頭に龍がいる」
「見れば分かる」
「似合う?」
「髪を巣にされてるようにしか見えない」
「失礼な」
ノクスは千鶴の髪を口に咥え、満足そうに引っ張った。
「痛い、痛い!」
「懐かれてるね」
「助けてよ!」
「仲がいいみたいだから」
薫は少し先を歩きながら、周囲へ注意を向けていた。
森は昨日よりも深い。
木々の幹は大人が数人で囲んでも足りないほど太く、枝葉が空を覆っている。
地面には巨大な獣の足跡がいくつも残されていた。
三本の鋭い爪。
千鶴の足よりも大きい。
「止まって」
薫が片手を上げる。
千鶴も足を止めた。
ノクスが頭の上で耳を動かす。
「どうしたの?」
「足跡」
薫は地面へしゃがんだ。
土はまだ湿っている。
跡の縁も崩れていない。
「新しい。数時間以内」
「何の魔獣?」
「分からない。ただ、昨日見た鳴き声の主かもしれない」
足跡は二人が進もうとしている方向へ続いている。
千鶴が大剣の柄へ手をかけた。
「避ける?」
「今の力で戦える相手か分からない」
「でも、この方向に進まないと森を抜けられないんでしょ」
「迂回する」
「どのくらい?」
「半日か、それ以上」
「水がないよ」
薫は黙った。
進めば魔獣と遭遇する可能性が高い。
避ければ、今日中に水場へ着けないかもしれない。
どちらにも危険がある。
「まず足跡を少し追う」
薫が決めた。
「巣や縄張りが分かれば、安全な迂回路を探せる」
「戦うのは?」
「最後の手段」
「分かった」
千鶴は素直に頷いた。
薫が立ち上がる。
その背後で、千鶴は小さくノクスへ囁いた。
「もし出てきたら、私たちで倒そうね」
「聞こえてるよ」
薫が振り返らずに言った。
「耳がいいね」
「姉さんの声が大きいだけ」
ノクスが千鶴の頭の上で、小さく鳴いた。
「キュッ」
同意したように聞こえた。
◇
足跡を追ってしばらく進むと、森の空気が変わった。
鳥の声がない。
虫の音もない。
風さえ木々の間で止まっている。
薫は短剣を抜いた。
「近い」
千鶴も大剣を構える。
ノクスが千鶴の肩から飛び降り、地面へ着地した。
身体を低くし、前方を睨んでいる。
茂みの向こうから、肉を引き裂く湿った音が聞こえた。
薫は指を唇へ当て、ゆっくりと枝葉を押し開く。
その先は、小さく開けた空間になっていた。
中央には一頭の巨大な獣。
狼に似ている。
だが肩までの高さは千鶴を超え、背中からは岩のような突起が何本も生えていた。
灰色の毛皮の隙間には、赤黒い光が流れている。
獣の足元には、別の魔獣の死骸が横たわっていた。
腹を裂き、魔力を含んだ心臓を食べている。
「大きいね」
千鶴が囁く。
「声を出さないで」
「囁いてる」
「姉さんの囁きは普通の人の会話と同じ音量」
獣の耳が動いた。
薫は千鶴の口を塞ぐ。
二人は息を止めた。
巨大な狼は顔を上げ、血に濡れた鼻を鳴らす。
赤い瞳が周囲を探る。
やがて再び死骸へ顔を戻した。
薫は千鶴の耳元へ口を寄せる。
「戻る」
千鶴も頷いた。
二人は音を立てないよう、一歩ずつ後退する。
ノクスも静かについてくる。
あと少しで茂みを離れられる。
その時。
千鶴の足元で、細い枝が折れた。
乾いた音。
巨大な狼の頭が上がる。
赤い瞳が、真っ直ぐ千鶴たちを捉えた。
「走って!」
薫が叫ぶ。
狼が地面を蹴る。
巨体からは想像できない速度。
木々を薙ぎ倒しながら迫ってくる。
千鶴はノクスを抱き上げ、薫と共に走った。
「ごめん!」
「何が?」
「枝!」
「今は反省しなくていい!」
「後でならいいの?」
「生きてたら!」
背後で咆哮が響く。
空気が震え、千鶴の身体が前へ押される。
「追いつかれる!」
「右へ!」
薫が急に進路を変えた。
千鶴も続く。
直後、狼が二人のいた場所を通過し、巨大な爪で木の幹を切り裂いた。
木が倒れる。
地面が揺れる。
千鶴はノクスを薫へ押しつけた。
「持ってて!」
「何をする気?」
「止める!」
「最後の手段って言ったよね!」
「今が最後の手段!」
千鶴は大剣を抜き、狼へ向き直った。
黄金の火花が刀身へ散る。
胸の奥の太陽へ意識を集中する。
「燃えて!」
小さな炎が刀身を包んだ。
以前とは比べものにならないほど弱い。
それでも、何もないよりはいい。
狼が再び突進する。
千鶴は正面から大剣を振り下ろした。
刃と岩のような額が衝突する。
鈍い音。
千鶴の腕へ強烈な衝撃が走った。
「重っ……!」
大剣が弾かれる。
千鶴の身体も後方へ吹き飛ばされた。
薫が千鶴の背後へ回り、受け止める。
二人まとめて地面を転がった。
「姉さん!」
「大丈夫!」
「絶対に大丈夫じゃない!」
千鶴の両腕が痺れている。
大剣を握る指に力が入らない。
狼の額には浅い傷しかついていなかった。
赤黒い魔力が傷口へ集まり、すぐに塞がっていく。
「再生するの?」
千鶴が立ち上がる。
薫はノクスを地面へ下ろし、二本の剣を抜いた。
「千鶴、正面から引きつけて」
「任せて!」
「でも無理に受けない。避けて」
「分かった!」
「本当に?」
「今は信じて!」
狼が吠える。
背中の岩角から、赤黒い魔力が放たれた。
地面へ落ちた魔力が、鋭い石槍となって突き出す。
千鶴は横へ跳び、石槍をかわした。
薫は反対側から距離を詰める。
長剣へ青白い霧をまとわせ、狼の後脚を斬った。
刃は毛皮を裂いたが、筋肉までは届かない。
「硬い」
狼が振り返り、巨大な尾を薫へ叩きつける。
薫は短剣を地面へ突き立てた。
周囲から音が消える。
尾の速度が僅かに落ちる。
薫は身を低くし、紙一重でかわした。
その間に千鶴が背後へ回る。
炎をまとった大剣を、狼の岩角へ叩きつけた。
一本が折れる。
狼が悲鳴を上げた。
「効いた!」
「背中の角が魔力を集めてる!」
薫が叫ぶ。
「全部壊せば再生を止められるかもしれない!」
「了解!」
千鶴がもう一度踏み込む。
しかし狼も狙いを理解した。
巨体を回転させ、爪を振り下ろす。
千鶴は大剣で受ける。
金属が軋む。
膝が地面へ沈んだ。
「くっ……!」
力で押し潰される。
太陽の炎は弱く、狼の毛皮を焦がすことさえできない。
「姉さん!」
薫が助けへ向かおうとする。
狼の背中から残った岩角が光る。
赤黒い石槍が無数に浮かんだ。
狙いは薫。
薫は月の霧を広げ、石槍の魔力を弱める。
一つ。
二つ。
三つ。
空中で崩れる。
だが、すべては止められない。
一本が薫の肩を掠めた。
戦装束が裂け、血が流れる。
「薫!」
千鶴の炎が激しく揺れる。
狼を押し返そうと、無意識に太陽の力を引き出す。
胸の奥が焼ける。
刀身の炎が黄金から白へ変わった。
「駄目だ、姉さん!」
薫が叫ぶ。
「今それを使ったら、身体がもたない!」
「でも、このままじゃ!」
狼の爪がさらに深く大剣へ食い込む。
千鶴の腕から血が滲む。
ノクスが二人の間を見ていた。
小さな身体を震わせている。
千鶴が傷ついている。
薫も血を流している。
ノクスの紫色の瞳が強く光った。
「ギャアアッ!」
小さな黒龍の口から、黒い炎が放たれる。
炎は狼の前脚へ命中した。
毛皮も肉も燃えない。
その代わり、狼の身体を覆っていた赤黒い魔力だけが焼け落ちた。
狼の再生が止まる。
千鶴は好機を逃さなかった。
大剣を横へ滑らせ、狼の爪から抜け出す。
地面を転がり、距離を取る。
「ノクス、すごい!」
千鶴の声に、ノクスは得意そうに胸を張った。
しかし、炎を一度吐いただけで息が上がっている。
「魔力そのものを焼いた」
薫が呟く。
「普通の火じゃない」
狼は前脚を引きずりながら、怒りに満ちた目でノクスを睨んだ。
次の標的を、小さな黒龍へ変える。
「ノクス、逃げて!」
千鶴が叫ぶ。
狼が突進する。
ノクスは翼を広げたが、まだ十分に飛べない。
薫が狼とノクスの間へ入った。
「薫!」
薫は二本の剣を構えた。
狼が口を開く。
鋭い牙。
死の匂い。
その瞬間。
薫の胸の奥で、何かが目を開いた。
世界から色が消える。
音も消える。
狼の動きが止まった。
千鶴も。
ノクスも。
風に舞っていた葉さえ、空中で静止する。
薫だけが動いていた。
自分の意思で起こしたものではない。
《月蝕葬界》とも違う。
もっと深く。
もっと暗い。
薫の足元から黒い影が広がっていく。
影は地面を覆い、木々へ登り、空まで塗りつぶす。
薫の青紫色だった瞳が、完全な黒へ変わった。
頭上に、壊れた星の冠が浮かぶ。
背中から巨大な翼の影が伸びた。
狼の赤い瞳に、初めて恐怖が浮かぶ。
『退け』
薫の口から声が漏れた。
薫自身の声ではなかった。
男とも女ともつかない。
遠い星空から響くような、冷たい声。
狼の身体が震える。
爪を地面へ立てる。
逃げようとしている。
だが足が動かない。
『我が前に立つことを許した覚えはない』
薫が一歩進む。
そのたびに、狼の身体を覆っていた魔力が消えていく。
火でもない。
闇でもない。
存在すること自体を否定するような力。
狼は悲鳴を上げた。
巨大な身体を無理やり反転させ、木々へぶつかりながら逃げていく。
数秒後には、その姿は森の奥へ消えていた。
薫は追わなかった。
黒い影の中で、ただ立っている。
ノクスは地面へ伏せ、身体を丸めて震えていた。
紫色の瞳を閉じることさえできず、薫を見つめている。
千鶴だけが動いた。
「薫」
一歩近づく。
薫の黒い瞳が千鶴へ向く。
「薫、私が分かる?」
返事はない。
千鶴は剣を捨てた。
両手を空にし、さらに近づく。
「薫」
薫の周囲を覆う影が、千鶴の足元へ伸びる。
触れた草が色を失い、枯れていく。
それでも千鶴は止まらない。
「大丈夫」
いつもの言葉。
薫が最も信用していない言葉。
「私がいるよ」
千鶴は薫の前へ立った。
黒い瞳を真っ直ぐ見つめる。
「一人じゃないから」
薫の表情が僅かに揺れた。
千鶴は右手を伸ばし、薫の頬へ触れる。
冷たい。
生きている人間とは思えないほど。
それでも手を離さない。
「帰っておいで、薫」
薫の瞳に、一瞬だけ青紫色の光が戻った。
「……姉さん?」
掠れた声。
次の瞬間、周囲の影が消えた。
音と色が世界へ戻る。
風が吹き、止まっていた葉が地面へ落ちる。
薫の身体から力が抜けた。
千鶴は倒れかけた弟を抱き止める。
「薫!」
「何が……」
薫は頭を押さえた。
「狼は?」
「逃げた」
「どうやって?」
千鶴は答えられなかった。
薫は何も覚えていない。
「僕が何かした?」
千鶴は弟の背後を見る。
壊れた星の冠も。
黒い翼も。
もう存在しない。
しかし、地面の草は薫を中心として円状に枯れている。
「……うん」
千鶴は正直に答えた。
「薫の中から、何かが出てきた」
薫の表情が固まる。
「どんなもの?」
「分からない。でも、薫じゃなかった」
少し迷い、千鶴は続けた。
「でも、呼んだら戻ってきた」
薫は自分の両手を見る。
血のついた手。
月影双剣。
何も変わっていないように見える。
「ノクス」
千鶴が振り返る。
小さな黒龍はまだ震えていた。
薫が視線を向けると、ノクスは小さな悲鳴を上げ、千鶴の背後へ逃げ込んだ。
「ギュッ……」
「これが、ノクスが僕を怖がっていた理由か」
薫は低く呟く。
千鶴はノクスを抱き上げた。
「薫は薫だよ」
「今のものが、僕の中にいる」
「それでも」
「また出てきたら?」
「私が連れ戻す」
千鶴は迷わず言った。
「何度でも呼ぶ」
「姉さんに何かしたら?」
「薫はしない」
「僕じゃないものがするかもしれない」
「その時も止める」
「どうやって」
「考える」
「何も考えてないんだね」
薫はそう言ったが、その声には僅かな安堵があった。
千鶴は笑う。
「薫が一緒に考えてくれるでしょ?」
「結局僕任せじゃないか」
「二人で考えるってこと」
千鶴はノクスを抱いたまま、薫へ手を差し出した。
薫は少し迷い、その手を取った。
立ち上がろうとする。
しかし足に力が入らず、再び膝をついた。
「薫!」
「大丈夫」
「その言葉、禁止って言ってたよね」
「姉さんが使ってるから」
「私の真似しないで」
「悪いところだけ似るのが双子らしい」
千鶴は薫の腕を自分の肩へ回した。
ノクスは反対の肩へ移す。
三人で支え合うような格好になる。
「少し休もう」
薫が言う。
「でも、あの魔獣が戻ってくるかも」
「戻らないと思う」
「どうして?」
「……あれは、僕を見て本気で怯えていた」
薫の声は重かった。
自分の力で敵を退けた誇らしさなどない。
ただ恐怖だけが残っている。
千鶴は何も言わず、薫を支える腕へ力を込めた。
◇
戦いの跡から少し離れた場所で、三人は休息を取った。
薫の肩の傷は浅かった。
千鶴が布を裂き、止血する。
「痛い?」
「少し」
「ごめんね」
「姉さんが謝ることじゃない」
「私が枝を踏んだから」
「あれはいつか気づかれてた」
「でも」
「今は反省するところが違う」
薫は千鶴の腕を見る。
大剣を受け止めた時の傷。
赤く腫れ、皮膚が裂けている。
「姉さんも怪我してる」
「これくらい平気」
「大丈夫は禁止」
「……少し痛い」
「素直でよろしい」
薫は千鶴の腕にも布を巻いた。
二人が互いの傷を手当てしている間、ノクスは少し離れた場所へ座っていた。
薫を警戒しつつも、逃げることはない。
千鶴がノクスへ手招きする。
「おいで」
ノクスは千鶴の膝へ乗った。
頭を撫でられながら、薫を見る。
薫は何もしなかった。
視線を合わせず、ただ静かに座っている。
やがてノクスは、千鶴の膝から一歩だけ下りた。
薫との距離が僅かに縮まる。
薫は動かない。
ノクスは鼻を鳴らした。
さらに一歩。
薫の足元まで来る。
だが顔を上げた瞬間、先ほど見た影を思い出したのか、身体を震わせた。
逃げようとする。
薫はゆっくりと顔を背けた。
「無理に近づかなくていい」
ノクスの耳が動く。
「僕も、自分の中に何がいるのか分からない」
薫は地面を見たまま続けた。
「怖がるのが普通だ」
ノクスは動かなかった。
数秒。
数十秒。
やがて小さな前足が、薫の膝へ触れた。
薫が僅かに目を見開く。
ノクスはすぐに足を引っ込め、千鶴の元へ戻った。
触れたのは一瞬だけ。
それでも、完全な拒絶ではなかった。
千鶴は笑った。
「少し仲良くなったね」
「そう見える?」
「前進だよ」
薫は自分の膝を見る。
ノクスの小さな足跡が、土で薄く残っていた。
「そうかもしれない」
◇
昼過ぎ。
二人は再び南へ歩き始めた。
薫の足取りはまだ重いが、歩けないほどではない。
ノクスは千鶴の肩へ乗り、時々薫の方を確認している。
先ほどまでの敵意は消えていた。
警戒は残っている。
それでも、もう火を吐くことはなかった。
森を抜ける手掛かりを探しながら進んでいると、薫が突然立ち止まった。
「何か見つけた?」
千鶴が尋ねる。
薫は地面を指した。
草の間に、浅い窪みがある。
魔獣の足跡ではない。
靴底の跡。
人間のもの。
それも一人ではない。
複数人が同じ方向へ通った痕跡。
「人がいる!」
千鶴が声を上げる。
「まだ安全とは限らない」
「でも、道があるってことだよね」
薫は足跡を確認する。
古くても二日以内。
荷車の細い轍も残っている。
「商人か、狩人の道かもしれない」
「追おう」
「慎重に」
「分かってる」
二人は足跡を辿った。
しばらく歩くと、木々の間に人工的に伐採された道が現れた。
土を固めただけの細い街道。
道の脇には、木製の標識が立っている。
見たことのない文字。
薫は読めない。
しかし、矢印が二方向を示していた。
片方は森の奥。
もう片方は南。
南へ向かう道の先から、微かに煙が上がっている。
焚き火か。
人家の煙か。
千鶴の顔が明るくなる。
「やっと人に会える!」
「油断しないで」
「分かってる」
「僕たちの服装も武器も、この世界では目立つかもしれない」
「どう説明する?」
薫は少し考えた。
別世界から来た。
戦争を終わらせた。
未知の力を持っている。
神器らしき武器を使う。
小さな黒龍を連れている。
すべて正直に話せば、信用される可能性より拘束される可能性の方が高い。
「遠い国から来た旅人」
薫が答える。
「道に迷って、森で魔獣に襲われた」
「嘘つくの?」
「全部が嘘じゃない」
「力のことは?」
「聞かれたら、姉さんは火属性」
薫は自分の双剣へ視線を落とす。
「僕は水と闇の複合属性」
「私の炎、普通の火に見えるかな」
「今は弱ってるから、むしろ普通に見える」
「喜んでいいのか分からない」
「僕の力も、霧と影だけなら誤魔化せる」
「ノクスは?」
二人は小さな黒龍を見る。
ノクスは千鶴の肩の上で欠伸をしていた。
「黒いトカゲ」
薫が答える。
ノクスの瞳が細くなる。
「今、怒ったよ」
「言葉が分かるの?」
「たぶん」
「だったら使い魔」
「龍って言わないの?」
「言った瞬間に捕まるかもしれない」
千鶴はノクスの顎を撫でた。
「ノクス、しばらく龍なのは秘密ね」
「キュル」
納得したのかは分からない。
ただ、千鶴の頬を小さく舐めた。
薫は南の道を見つめた。
煙は一つではない。
さらに遠く、木々の向こうへ複数の煙が立っている。
村か。
街か。
少なくとも、人間の生活圏がある。
「行こう」
薫が歩き始める。
「まず水と食べ物。それから、この世界について情報を集める」
「元の世界へ帰る方法も」
「うん」
「薫の記憶を戻す方法も」
薫は少しだけ足を止めた。
「それも調べる」
「それから、薫の中にいたもの」
「……うん」
千鶴は薫の隣へ並ぶ。
以前のように先へ走ることはしない。
歩幅を合わせる。
ノクスも千鶴の肩から顔を伸ばし、薫を見た。
紫色の瞳にはまだ恐れがある。
だが、そこには小さな好奇心も生まれていた。
三人は街道を南へ進んだ。
その先に、自由都市アルカへ向かう商隊がいることを、まだ知らない。
帝国兵の襲撃が待っていることも。
自分たちが、この世界で初めて剣を振るう理由を見つけることも。
そして。
森の奥。
双子が立ち去った戦場へ、一人の男が降り立った。
灰色の外套。
背中には、刃の砕けた黒い大剣。
ヴァレス・クロウは、円状に枯れた草を見下ろした。
指先で土へ触れる。
残された力の痕跡を読み取り、目を細めた。
「月ではない」
静かな声。
「これは、もっと古いものだ」
近くには、黒い炎で焼かれた魔力の跡も残っている。
ヴァレスは立ち上がり、双子が向かった南を見た。
「双星と黒龍」
その名を、感情のない声で口にする。
やがて、唇へ冷たい笑みが浮かんだ。
「また世界は、英雄を作るつもりか」
灰色の外套が風に揺れる。
次の瞬間。
ヴァレスの姿は、森の影へ溶けるように消えていた。




