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双星のレガリア  作者: ボンヌ
第1章

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第1話 伝説の終わり、物語の始まり


目を開けた時、千鶴は空を見ていた。


夜だった。


けれど、知っている夜空ではない。


深い藍色の空に、大小二つの月が浮かんでいる。


一つは青白く、もう一つは淡い紫色。


二つの月は寄り添うように並び、周囲には見たこともない星座が広がっていた。


「……きれい」


そう呟いた直後、千鶴は自分が何をしていたのかを思い出した。


黄昏塔。


アーク・ノヴァ。


崩壊する炉心。


手を伸ばしてくる薫。


「薫!」


千鶴は跳ね起きた。


身体中に激痛が走る。


全身の骨が砕けたように痛んだが、構っている余裕はなかった。


周囲を見回す。


背の高い木々。


青白く光る草花。


薄い霧。


風に揺れるたび、鈴のような音を立てる葉。


どこを見ても知らないものばかりだった。


そして、少し離れた草の上に、薫が倒れていた。


「薫!」


千鶴は転ぶように駆け寄った。


薫の顔は青白く、目を閉じたまま動かない。


「ねえ、薫。起きて」


肩を揺らす。


反応はない。


千鶴は震える手を薫の首へ当てた。


脈。


弱いが、確かにある。


胸も僅かに上下している。


生きている。


それを確認した瞬間、千鶴の身体から力が抜けた。


「よかった……」


薫の手を握る。


黄昏塔で掴んだ時と同じ、温かい手。


今度こそ離さなかった。


千鶴は薫の隣へ座り込み、周囲を見回した。


ここがどこなのか分からない。


アーク・ノヴァの爆発に巻き込まれたのか。


空間の裂け目へ吸い込まれたことまでは覚えている。


その先は、光しか思い出せない。


ただ一つだけ。


誰かの声を聞いた。


――帰ってきて。


女性の声。


懐かしいはずがないのに、胸が締めつけられるほど懐かしい声だった。


「帰ってきたって……どこに?」


千鶴の呟きに答える者はいない。


遠くで、獣の鳴き声が響いた。


低く、腹の底へ響くような声。


千鶴は薫のそばへ置かれていた大剣へ手を伸ばした。


神陽大剣ソル・クラウディア


黄昏塔で初めて真の姿を現した、白金と黄金の神剣。


しかし今、千鶴の手にあるのは、長く使い込んだ銀色の大剣だった。


刀身はくすみ、あの黄金の光はどこにもない。


「戻っちゃった……?」


千鶴は剣へ魔力を流そうとした。


胸の奥にある太陽へ意識を向ける。


いつもなら、呼吸をするように感じられた熱。


だが今は、遠い。


厚い壁の向こうで、小さな火が揺れているようにしか感じられない。


大剣の表面へ、弱々しい火花が一つだけ散った。


それきりだった。


「嘘でしょ」


もう一度試す。


何も起きない。


黄昏塔で力を使い切ったのか。


それとも、この場所では力そのものが違うのか。


千鶴は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、その場へ膝をついた。


疲労。


痛み。


知らない土地。


使えない力。


意識を失った薫。


不安が一気に押し寄せる。


「大丈夫」


千鶴は自分へ言い聞かせた。


「大丈夫。薫もいる。剣もある。まだ何とかなる」


その言葉を聞いた薫が、いつものように呆れてくれればいい。


――姉さんの『大丈夫』は信用できない。


声が聞きたかった。


「だから、早く起きてよ」


返事はない。


千鶴は薫の手を両手で包んだ。


「一人にしないって言ったでしょ」


草の上へ、小さな雫が落ちた。


千鶴は自分が泣いていることに気づき、慌てて袖で目元を拭った。


「違うから。これは……目に霧が入っただけだから」


薫はまだ起きない。


「本当だよ」


言い訳を重ねても、聞いている者はいなかった。



薫が目を覚ましたのは、空が少しずつ白み始めた頃だった。


「……姉さん」


小さな声。


千鶴は薫の隣で座ったまま眠っていた。


声を聞いた瞬間、飛び起きる。


「薫!」


薫の顔を両手で挟む。


「分かる? 私が誰か分かる?」


「痛い」


「ごめん!」


千鶴はすぐに手を離した。


薫はゆっくりと上体を起こす。


顔をしかめながら、周囲を見た。


「ここは……?」


「分からない」


「黄昏塔は?」


「ない」


「アーク・ノヴァは?」


「たぶん、壊した」


「たぶん?」


「だって爆発しなかったし、私たちも生きてるから」


薫は額へ手を当てた。


「相変わらず判断が大雑把だね」


その言葉を聞き、千鶴は笑った。


いつもの薫だ。


少なくとも、そう思えた。


「身体は?」


「痛い」


「どこが?」


「全部」


「私も!」


「嬉しそうに言うことじゃない」


薫は自分の双剣を探した。


すぐそばの草の上に、長剣と短剣が並んでいる。


月影双剣ルナ・セレネも、黄昏塔での神聖な姿を失い、黒銀の古い剣へ戻っていた。


薫が長剣を手に取る。


目を閉じ、力を流す。


刀身に青白い霧が浮かんだが、すぐに消えた。


「姉さんも?」


「火花が一つ出ただけ」


「僕もほとんど使えない」


「この世界に来たせいかな」


「世界?」


薫が二つの月を見る。


その表情が僅かに強張った。


「やっぱり、エルディアじゃない」


「たぶんね」


「どうしてそんなに落ち着いてるの」


「薫が起きたから」


千鶴は当然のように答えた。


「薫がいれば、何とかなるでしょ?」


「僕に全部任せる気?」


「私は戦う係」


「今はほとんど戦えないよね」


「剣は振れるよ」


「その身体で?」


「少しくらいなら」


立ち上がろうとした千鶴は、足をもつれさせて薫の方へ倒れた。


薫が慌てて受け止める。


「少しも無理じゃないか」


「今のは地面が動いた」


「動いてない」


「異世界だから」


「異世界を言い訳に使わないで」


薫はため息をつき、千鶴を近くの木へ座らせた。


千鶴は不満そうだったが、大人しく従った。


「持ち物を確認しよう」


薫が言う。


二人が持っていたのは、武器と身につけていた衣服だけだった。


千鶴の鎧は所々が焼け、薫の戦装束も裂けている。


千鶴の腰にあった小さな革袋には、硬くなった保存食が二つと、半分ほど水の残った小瓶が入っていた。


「食べ物がある!」


千鶴の顔が明るくなる。


「二人分しかない」


「一人一個だね」


「今日中に人のいる場所を見つけられなければ、次はない」


「半分ずつ食べれば二日もつよ」


「最初からそのつもり」


二人は保存食を一つだけ取り出し、半分に割った。


硬い黒麦の焼き菓子。


味はほとんどなかったが、今の二人には十分だった。


千鶴が水を一口飲み、薫へ渡す。


薫も僅かに口をつける。


「母さんが作ってくれた黒麦パンを思い出すね」


千鶴が言った。


薫の手が止まった。


「……母さん」


「どうしたの?」


薫は瓶を見つめたまま、黙っている。


「薫?」


「名前が」


「え?」


「母さんの名前が思い出せない」


千鶴は瞬きをした。


冗談だと思った。


しかし、薫の表情は真剣だった。


「静だよ」


千鶴は言った。


「お母さんの名前は静」


「……静」


薫が繰り返す。


知らない名前を覚えようとするような響きだった。


「顔は?」


薫は目を閉じた。


長い沈黙。


「分からない」


「そんな……」


「母さんがいたことは覚えてる。優しかった。診療所で薬草の匂いがして……僕たちを抱き締めてくれた」


薫は苦しそうに眉を寄せた。


「でも、顔が見えない。名前も、姉さんに言われるまで出てこなかった」


千鶴の胸が冷たくなる。


黄昏塔で薫が《月蝕葬界》を使った時。


炉心の爆発を止めるため、限界を超えて月の力を使っていた。


薫の力には、記憶を代償とする性質がある。


それは分かっていた。


だが、何を失っていたのかを、二人は確かめる時間がなかった。


「ほかには?」


千鶴は震える声で尋ねた。


「父さんは?」


「宗一郎」


薫はすぐに答えた。


「父さんの顔も声も覚えてる。セレスタも、白夜城も、黄昏塔も覚えてる」


「私のことは?」


「残念ながら全部覚えてる」


「残念って何!」


千鶴は反射的に言い返し、それから口を閉じた。


笑えることではない。


けれど薫は、ほんの少しだけ笑っていた。


千鶴を安心させるための笑顔だと分かった。


「ごめん」


千鶴は俯いた。


「私のせいだ」


「どうして姉さんのせいになるの」


「私の力を止めたり、アーク・ノヴァを封じたりしたから、薫の記憶が……」


「僕が選んだ」


「でも――」


「黄昏塔で言ったよね」


薫は千鶴の目を見る。


「僕が失うものを、姉さんが勝手に決めるなって」


「覚えてる」


「だったら、失ったことまで姉さんが背負わないで」


「でも、お母さんの顔だよ」


「姉さんは覚えてる?」


「覚えてる」


「なら、教えて」


薫は静かに言った。


「どんな顔だったのか。どんな声だったのか。僕が忘れた分まで、姉さんが覚えていて」


千鶴は唇を噛んだ。


涙が出そうになる。


今度は霧のせいにはできなかった。


「うん」


千鶴は頷く。


「何回でも話す。薫が思い出せなくても、私が全部話すから」


「ありがとう」


「お母さんはね、笑うと右の目尻だけ少し下がるの」


「うん」


「怒る時も声は優しいんだけど、笑顔のままだから逆に怖くて」


「それは覚えてる気がする」


「あと、お父さんに隠れて甘いものを食べてた」


「それは初めて聞いた」


「私とお母さんだけの秘密だったから」


「今、話していいの?」


「お父さんには黙ってて」


「伝える方法がないけどね」


薫の言葉に、二人は黙った。


父も母も、もういない。


元の世界へ帰れたとしても、会うことはできない。


それでも。


エルディアには、彼らが守った人々がいる。


戦争が終わったかどうかも確かめたい。


協力してくれたガルドたちの無事も知りたい。


帰らなければならない。


「必ず帰ろう」


千鶴が言う。


「うん」


薫も頷いた。


「そのためにも、まずはここがどこなのか調べる」


「どうやって?」


「高い場所を探す。川や道が見つかれば、人里へ行ける可能性がある」


「さすが薫!」


「姉さんも少しは考えて」


「薫が考えて、私が実行する。完璧な役割分担でしょ?」


「僕の負担が大きすぎる」


二人は武器を背負い、ゆっくりと歩き始めた。



森はどこまでも続いていた。


エルディアでは見たことのない植物ばかりだった。


透明な葉を持つ低木。


触れると青い光を放つ苔。


宙へ浮かび、風に流される綿毛のような花。


千鶴は珍しいものを見つけるたびに足を止めた。


「薫、これ見て!」


「触らないで」


「まだ触ってないよ」


「右手を伸ばしてる」


「見るだけ」


「見るだけなら手は要らない」


千鶴が手を引っ込めた直後、花の中心から細い針が飛び出した。


針は目の前の木へ突き刺さり、幹を紫色に変色させる。


千鶴は無言で一歩下がった。


薫が横目で見る。


「何か言うことは?」


「……薫は頼りになるね」


「ほかには?」


「異世界の花は危険だね」


「一番大事な反省が抜けてる」


薫は短剣を抜き、変色した木の表面を確認した。


強い毒性。


当たっていれば、治療魔法のない二人には危険だった。


「この森では、見た目で安全かどうか判断しない方がいい」


「分かった」


千鶴は素直に頷いた。


「本当に?」


「たぶん」


「不安しかない」


森を進むうちに、二人は奇妙な石柱を発見した。


苔に覆われ、半分ほど地面へ埋まっている。


表面には、円を重ねたような文字が刻まれていた。


薫が手で苔を払う。


「読める?」


千鶴が尋ねる。


「見たことのない文字」


「じゃあ駄目か」


「でも、魔力が残ってる」


薫は石柱へ触れた。


指先へ青白い光が集まる。


すると刻まれていた文字が一瞬だけ輝いた。


千鶴の太陽の耳飾りも反応する。


続いて薫の三日月が光った。


二つの光に呼応し、石柱へ隠されていた紋章が浮かび上がる。


太陽と月を重ねた星。


星冠院の紋章に似ている。


けれど、何かが違う。


星冠院のものより古く、歪みがない。


「また、この印……」


千鶴が眉を寄せる。


「星冠院がこの世界にもいるのかな」


「分からない」


薫は紋章を見つめる。


「むしろ、星冠院がこの紋章を真似した可能性もある」


「じゃあ、ここが元なの?」


「少なくとも、アーク・ノヴァの中にあった剣の欠片は、この世界と繋がっていた」


「ルクシオン」


千鶴が名を口にする。


「どうして薫は、あの剣の名前を知ってたの?」


「僕にも分からない」


薫は自分の胸へ手を当てた。


「知っていたというより、思い出した感じだった」


「この場所へ来たことがある?」


「あるわけない」


「でも、あの声は『帰ってきて』って」


「姉さんも聞いた?」


「うん」


二人は顔を見合わせた。


千鶴だけの幻聴ではなかった。


同じ女性の声を、薫も聞いていた。


「私たち、ここに来たんじゃなくて……」


千鶴が石柱へ触れる。


「帰ってきたのかな」


薫は答えなかった。


答えを持っていなかった。


ただ、胸の奥に眠る何かが、その言葉へ反応していた。


ここを知っている。


この空気を知っている。


この大地を知っている。


自分の記憶には存在しない、もっと古い何かが。


薫は石柱から手を離した。


「先へ進もう」


「調べなくていいの?」


「今の僕たちには道具も知識もない。人里を探すのが先だ」


「分かった」


千鶴は紋章をもう一度振り返った。


石柱の光は消えている。


しかし二人が離れた後。


地中深くへ伸びた紋様の一部が、静かに紫色の光を放ち始めていた。



日が沈み始めても、森を抜けることはできなかった。


二つの月が昇り、気温が急速に下がっていく。


二人は岩壁の下に小さなくぼみを見つけ、そこで夜を明かすことにした。


千鶴が枯れ枝を集める。


火を起こそうと手をかざした。


「今度こそ」


集中する。


胸の奥の太陽へ呼びかける。


指先に黄金の火花が生まれた。


火花は枯れ枝へ落ち、小さな炎となる。


「できた!」


千鶴が拳を上げる。


「火をつけただけで、そこまで喜べるのは才能だね」


「今の私には大技なんだよ」


炎は普通の焚き火と変わらない。


それでも温かかった。


二人は残っていた保存食をさらに半分に分けた。


明日、人里へ辿り着けなければ、食べ物はなくなる。


「お腹すいた」


千鶴が言う。


「我慢して」


「薫の分、少しだけ大きくない?」


「同じ大きさに割った」


「薫は目分量が正確だから信用できない」


「普通は逆じゃない?」


千鶴は自分の分を少しちぎり、薫の手へ置いた。


「何」


「薫の方が頭を使ってるから」


「姉さんの方が身体を使ってる」


薫はその欠片を千鶴へ戻した。


「半分ずつ」


千鶴は少し迷った後、頷いた。


二人は同時に焼き菓子を口へ入れた。


何の味もしない。


それでも一人で食べるより、少しだけ美味しく感じた。


食事を終え、薫は岩壁へ背を預けた。


千鶴は火を見つめている。


「薫」


「なに」


「怖い?」


「何が?」


「帰れないかもしれないこと」


薫は炎へ視線を向けた。


「怖いよ」


即答だった。


千鶴は少し驚いた。


薫なら大丈夫だと言うと思っていた。


「知らない世界で、力もほとんど使えない。食べ物もない。人がいるかどうかも分からない」


「うん」


「僕の記憶も、どこまで残っているか分からない」


千鶴は俯く。


「でも」


薫は続けた。


「八年前とは違う」


「何が?」


「姉さんがいる」


千鶴は顔を上げた。


「僕たちは一度、離れ離れになって生き延びた。それよりは、今の方がいい」


「私も同じこと思ってた」


「やっぱり双子だね」


「でしょ?」


千鶴は薫の隣へ移動した。


肩と肩を寄せる。


「少しだけ寝るね」


「僕が見張る」


「駄目。薫も寝て」


「交代で休む」


「じゃあ最初は私が見張る」


「姉さんは歩きながら二回転びかけた」


「三回だよ」


「増やしてどうするの」


結局、薫が先に見張ることになった。


千鶴は不満を言いながらも、岩壁へ身体を預ける。


「何かあったら起こしてね」


「分かった」


「一人で何とかしようとしないでね」


「それは姉さんにも言える」


「お互い様だね」


千鶴は目を閉じた。


疲れていたのだろう。


すぐに静かな寝息が聞こえ始める。


薫は焚き火へ枯れ枝を足した。


炎の向こうで眠る千鶴を見る。


白金の髪。


傷ついた鎧。


穏やかな寝顔。


姉のことは覚えている。


幼い頃の無茶も。


橋の上で離した手も。


白夜城で再会した時の涙も。


黄昏塔で握った手も。


すべて覚えている。


それなのに、母の顔だけがない。


薫は目を閉じ、記憶を探した。


診療所。


食卓。


黒麦パン。


薬草の匂い。


誰かの手が、幼い自分の頭を撫でている。


顔を上げようとすると、そこだけが白い光に覆われる。


思い出せない。


「静……」


姉に教えられた名前を、小さく口にする。


自分の母親の名前なのに、借り物の言葉のようだった。


薫は拳を握った。


月の力を使えば、これからも記憶を失うかもしれない。


次は父の声か。


セレスタの景色か。


あるいは、千鶴のことか。


もし姉の顔を忘れたら。


その想像だけで、呼吸が苦しくなる。


その時。


近くの草むらから、微かな音がした。


薫はすぐに長剣へ手を伸ばした。


「誰だ」


返事はない。


草が揺れる。


何かがこちらを見ている。


紫色の光が二つ。


瞳。


薫は立ち上がり、千鶴を庇う位置へ移動した。


「出てこい」


青白い霧が長剣へ僅かに集まる。


草むらから、小さな生き物が姿を現した。


黒い鱗。


細い尾。


小さな角。


背中には、まだ十分に育っていない一対の翼。


大きさは猫ほど。


だが、その姿はどう見てもトカゲではなかった。


「……龍?」


小さな黒龍は、薫を見つめた。


紫色の瞳。


黄昏塔の裂け目で見た、巨大な黒龍と同じ色。


薫は剣を構えたまま動かなかった。


黒龍も動かない。


互いに視線を交わす。


やがて黒龍は、小さく鼻を鳴らした。


「グルル……」


低い唸り声。


薫に対して、明確な警戒心を見せている。


「薫?」


背後で千鶴が目を覚ました。


「動かないで」


「何かいるの?」


千鶴が薫の肩越しに覗き込む。


小さな黒龍を見ると、瞳を輝かせた。


「かわいい!」


「近づかないで」


「でも、小さいよ」


「小さければ安全とは限らない。昼間の花を忘れた?」


「あれは花でしょ。この子は龍だよ」


「龍の方が危険だと思うけど」


千鶴は薫の横へ出た。


小さな黒龍が、彼女を見る。


先ほどまで逆立っていた鱗が、僅かに落ち着いた。


「おいで」


千鶴が手を差し出す。


「姉さん」


「大丈夫」


「その言葉を使うのを禁止したい」


黒龍は千鶴の手を見つめた。


ゆっくりと一歩近づく。


鼻先を千鶴の指へ近づけ、匂いを嗅ぐ。


そして。


小さな舌で、指先を一度だけ舐めた。


千鶴が笑う。


「ほら、いい子だよ」


黒龍はさらに近づき、千鶴の足へ身体を擦りつけた。


喉を鳴らしている。


薫は唖然とした。


「さっきまで僕には唸ってたのに」


「薫が怖い顔をしてるからじゃない?」


「姉さんを守ろうとしてただけ」


「この子も怖かったんだよ」


千鶴は地面へ座り、黒龍の頭を撫でた。


小さな龍は嫌がる様子もなく、目を細めている。


千鶴の膝へ前足をかけ、そのまま身体をよじ登った。


「重い」


そう言いながら、千鶴は嬉しそうだった。


黒龍は千鶴の胸元へ丸くなり、再び喉を鳴らした。


「名前、あるのかな」


千鶴が呟く。


首輪も印もない。


「勝手につけるつもり?」


「呼びにくいでしょ」


「野生の龍なら、明日にはいなくなるかもしれない」


「でも今は一緒にいる」


千鶴は黒い鱗を撫でながら、少し考えた。


その時。


何の前触れもなく、一つの名前が胸へ浮かんだ。


「ノクス」


千鶴は口にした。


薫が彼女を見る。


「どうして、その名前を?」


「分からない」


千鶴自身も戸惑っている。


「でも、この子を見たら、ノクスって……」


小さな黒龍の耳が動いた。


千鶴を見上げる。


「ノクス?」


呼びかけると、黒龍は嬉しそうに鳴いた。


「キュルル」


「気に入ったみたい」


「初めから自分の名前だったようにも見えるけど」


薫が近づこうとした瞬間、ノクスの態度が変わった。


黒い鱗が逆立つ。


千鶴の膝の上で身を起こし、薫へ牙を見せる。


「グルルル……!」


「やっぱり僕だけ嫌われてる」


「薫、何かした?」


「会ったばかりだよ」


ノクスは薫の顔ではなく、その背後を見ていた。


薫が振り返る。


何もない。


暗い森が広がっているだけ。


しかし、ノクスの紫色の瞳には別のものが映っていた。


薫の背後。


月明かりの届かない闇の中。


人の形をした巨大な影が、静かに立っている。


頭上には、壊れた星の冠。


背中から、夜空を覆うほどの黒い翼。


その影は薫と同じ輪郭を持ちながら、薫ではなかった。


ノクスは恐怖に震えていた。


千鶴はそれに気づかず、ノクスを抱き上げる。


「大丈夫だよ。薫は怖くないから」


ノクスは千鶴の腕へ顔を埋めた。


それでも紫色の瞳だけは、薫の背後から離れない。


薫自身にも、何かの気配は感じられた。


胸の奥。


月の力よりもさらに深い場所で、眠っていた何かが僅かに目を開いたような感覚。


次の瞬間には消えていた。


「薫?」


千鶴が心配そうに見る。


「何でもない」


薫は答えた。


「明るくなるまで休もう」


「ノクスも一緒でいい?」


「外へ追い出しても戻ってきそうだね」


「じゃあ決まり!」


千鶴はノクスを抱いたまま、焚き火のそばへ座った。


ノクスはすぐに丸くなり、目を閉じる。


まるで、ずっと千鶴を探していたかのように。


薫は二人から少し離れた場所へ座った。


ノクスの警戒する様子が、頭から離れない。


なぜ千鶴には懐き、自分を恐れるのか。


なぜ千鶴は、知らないはずの名前を口にしたのか。


なぜこの世界の遺跡に、太陽と月の紋章があるのか。


答えは何一つ分からなかった。


だが、一つだけ確かなことがある。


この世界は、千鶴と薫を知らない土地ではない。


二人がこの世界を忘れているだけなのかもしれない。


焚き火が小さく揺れる。


二つの月が、森を照らしていた。


その光の下で。


伝説を終えた双子と、小さな黒龍の物語が、静かに始まった。

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