第26話 封印の中
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黒紫色の魔力が揺れている。
風もない。
千鶴も何もしていない。
それなのに石碑の亀裂から漏れ出す魔力だけが、薫へ向かうようにゆっくりと形を変えていた。
「薫」
千鶴が後ろから肩を掴む。
「それ以上、近づかない方がいいんじゃない?」
薫は足を止めた。
「……うん」
返事をしながらも、石碑から目を離せない。
亀裂の奥には何も見えない。
ただ暗闇があるだけだ。
それなのに何かがいる。
視線を感じるわけではない。
殺気もない。
ましてや声が聞こえているわけでもなかった。
それでも薫には、そこに意思を持った何かが存在していることだけは分かった。
「中にいる」
「何かが?」
「たぶん」
千鶴が石碑を見る。
「魔獣?」
「分からない」
薫は一歩下がった。
すると黒紫色の魔力も、それ以上こちらへ伸びてこなかった。
まるで距離を測るような反応だった。
千鶴もそれに気付いたらしい。
「襲ってきてる感じじゃないね」
「今のところは」
二人は石碑から少し距離を取り、改めて周囲を確認する。
床一面に刻まれた巨大な魔法陣。
いくつもの円が重なり、その中心に石碑が立っている。
祠の地下で見てきた紋様よりも遥かに複雑だった。
文字は読めない。
だが魔力の流れなら、ある程度は追える。
薫は床へしゃがみ込んだ。
直接触れないように手をかざす。
「……変だ」
「何が?」
「魔力の流れ」
亀裂から溢れた黒紫色の魔力は、床の魔法陣へ流れ込んでいる。
そこから地下全体へ。
さらに地上へ。
祠の周辺へ。
二人がここまで辿ってきた異常な魔力の流れと繋がっている。
だが魔法陣そのものは。
その逆だった。
「外に出そうとしてるんじゃない」
薫が言った。
千鶴が首を傾げる。
「どういうこと?」
「この魔法陣は、魔力を石碑の中へ押し戻そうとしてる」
「じゃあ……」
千鶴も石碑を見る。
「これ、封印?」
「そうだと思う」
薫はゆっくり立ち上がった。
完全な封印なら本来、魔力が漏れ出すことはない。
だが石碑には巨大な亀裂が走っている。
床の魔法陣も所々が欠け、光を失った線がいくつもあった。
「封印が壊れかけてるんだ」
「だから魔力が漏れてる?」
「たぶんね」
祠周辺で増えた魔獣。
異常に成長した植物。
本来この土地にはいないはずの魔獣まで集まっていた理由。
すべてがここへ繋がる。
「原因は見つかったね」
千鶴が言った。
「これをギルドに報告すれば依頼は終わり?」
本来なら。
そうするべきだった。
原因不明の古代遺跡。
巨大な封印。
その中には正体不明の何かがいる。
これ以上は、ストーン級の冒険者二人が踏み込む領域ではない。
薫はそう考えていた。
その時だった。
ピシッ。
小さな音が響いた。
二人が石碑を見る。
亀裂が。
僅かに広がっていた。
「……今」
「広がったね」
石碑から漏れ出す魔力が増える。
黒紫色の煙が一気に床へ流れ込み、魔法陣の一部が明滅した。
ノクスが千鶴の肩で身を縮める。
「キュル……」
薫は眉を寄せた。
「このまま放っておくのも危ない」
「壊れたらどうなる?」
「分からない」
「中の何かが出てくる?」
「それだけならまだいい」
薫は床を見る。
封印の外へ流れ続ける膨大な魔力。
これが一気に解放されれば。
祠だけで済む保証はない。
周辺にいる魔獣がどうなるのかも分からない。
「戻って誰か呼んでくる?」
千鶴が尋ねた。
薫は姉を見る。
以前なら千鶴は真っ先に中を調べようとしていただろう。
「姉さんが戻るって言うんだ」
「私だって少しは成長するよ」
「少しなんだ」
「そこ拾わなくていいでしょ」
薫は小さく笑った。
すぐに石碑へ視線を戻す。
戻る。それが一番安全だ。
けれどもう一つ問題がある。
「この場所、僕たちじゃないと開けなかった」
千鶴の表情が変わる。
「祠の地下も」
「石扉も」
「守護獣も?」
「耳飾りを見て通してくれた」
二人は同時に自分たちの耳元へ触れた。
太陽。
月。
これが何なのかは分からない。
祠に残された古い仕掛けが、二人を拒絶していないことだけは確かだった。
「もし誰か呼んできても」
千鶴が言う。
「ここまで来られないかもしれない?」
「可能性はある」
ピシッ。
亀裂が広がる。
今度は二人にもはっきりと分かった。
時間はあるが
いつまでも持つとは思えない。
千鶴は石碑を見上げた。
「薫はどうしたい?」
決めつけるのではなく。
弟へ尋ねる。
薫は少しだけ目を見開いた。
そして。
考える。
依頼。
危険性。
封印。
中に存在する何か。
自分たちに反応した祠
すべてを考えた上で
「もう少し調べたい」
薫は言った。
「封印を壊すかどうかは、その後決める」
千鶴が頷く。
「分かった」
「勝手に触らないでね」
「今いい感じだったのに!」
◇
二人は石碑の周囲を調べ始めた。
近づけば近づくほど、魔力の濃さが増していく。
千鶴には重く感じるだけだった。
だが薫にはそれ以上のものが分かる。
自分の闇と。
石碑から漏れる闇。
似ているけれど同じではない。
薫の闇が夜の静けさに近いものだとすれば
こちらはもっと鋭い。
刃。
そんな印象だった。
触れれば傷つく。
だが。
自ら誰かを傷つけようとしているわけではない。
「……剣みたいだ」
薫が呟いた。
「剣?」
「魔力の感じが」
千鶴が首を傾げる。
「魔力に剣っぽいとかあるの?」
「普通はないと思う」
「じゃあ薫の感覚?」
「たぶん」
薫は亀裂へ視線を向けた。
その瞬間、頭の中へ何かが流れ込んだ。
暗闇。
無数の鎖。
そして。
一本の剣。
「っ……!」
薫が頭を押さえる。
「薫!」
千鶴がすぐに駆け寄った。
「大丈夫!?」
「大丈夫……」
「本当に?」
「今度は本当に」
薫は呼吸を整える。
ほんの一瞬だった。
幻だったのか。
それとも石碑の中にある何かを感じ取ったのか。
判断できない。
「何が見えたの?」
「剣」
「剣?」
「黒い剣が一本」
薫は亀裂を見る。
「鎖で繋がれてた」
千鶴の表情が真剣になる。
「封印されてるのは剣なの?」
「分からない。でも」
薫は自分の胸へ手を当てる。
あの感覚。
敵意はなかった。
むしろ。
「苦しそうだった」
「……分かるの?」
「何となく」
千鶴は少し考える。
そして石碑へ向かって一歩踏み出した。
「姉さん」
「触らないよ」
薫を見る。
「見るだけ」
「本当に?」
「本当に!」
千鶴は亀裂の前まで近づいた。
黄金色の瞳が暗闇を覗き込む。
何も見えない。
その時太陽の耳飾りが僅かに熱を持った。
「……あ」
「どうした?」
「これ」
千鶴が耳元へ触れる。
黄金色の光。
それに応えるように。
石碑の表面へ一本の線が浮かび上がった。
薫の月も光る。
青白い線がもう一本。
二つの光は石碑の表面を走り。
亀裂の左右へ。
それぞれ一つの紋様を浮かび上がらせた。
太陽。
月。
「まただ」
千鶴が呟く。
「完全に僕たちへ反応してるね」
薫は紋様を見る。
その下。
読めない文字の間へ。
魔力の流れが集中している。
「ここが封印の中心かもしれない」
「触ったら?」
「解除される可能性がある」
千鶴の手が止まった。
「……どうする?」
今度は薫もすぐには答えなかった。
石碑を見る。
亀裂は今も少しずつ広がっている。
封印が自然に崩れるのを待つか。
自分たちの手で解除するか。
どちらが正しいのかは分からない。
ただ一つだけ。
薫は確信していた。
「中の何かから、殺気は感じない」
「うん」
「でも安全だとも言えない」
「うん」
「開けた瞬間、襲われるかもしれない」
「その時は私が止める」
千鶴は大剣へ手を添えた。
迷いはない。
「薫は封印を見てて」
「僕も戦うよ」
「最初は私が前に出る」
「姉さん」
「こういう時のお姉ちゃんでしょ?」
薫はため息をついた。
「そういうところは変わらないね」
「いいところだからね!」
「そこは自分で言わないで」
それでも薫は笑っていた。
「じゃあ」
月の紋様へ手を伸ばす。
「開けよう」
千鶴も太陽へ手を伸ばした。
「うん」
二人の指先が。
同時に石碑へ触れた。
◇
黄金と青白。
二つの光が一気に広がった。
床の魔法陣が輝く。
千鶴と薫は咄嗟に目を細めた。
だが。
爆発は起きない。
むしろ。
逆だった。
今まで亀裂から漏れ出していた黒紫色の魔力が。
石碑へ戻り始める。
「吸い込まれてる?」
千鶴が言う。
煙のように漂っていた魔力が逆流し。
亀裂の奥へ消えていく。
床。
壁。
地下。
祠の外へ広がっていた魔力まで。
引き戻されていくような感覚。
石碑へ刻まれた文字が光を失っていった。
封印が壊れているのではない。
順番に解かれている。
薫にはそう感じた。
「姉さん」
「うん」
「来る」
最後の紋様から光が消えた。
直後。
石碑の亀裂が大きく開いた。
轟音。
二人が後ろへ跳ぶ。
千鶴が大剣を抜き。
薫も長剣と短剣を構えた。
黒紫色の光が石碑から噴き上がる。
地下神殿の天井まで届くほどの巨大な魔力。
ノクスが叫ぶ。
「キュルッ!」
「ノクス、後ろに!」
千鶴が前へ出る。
魔力の奔流が。
徐々に形を変えていく。
人。
千鶴にはそう見えた。
長い髪。
細い腕。
脚。
そして。
右手に握られた剣。
黒紫色の魔力が薄れていく。
そこから現れたのは一人の女性だった。
千鶴より少し背が高い。
腰まで伸びた黒髪。
その毛先には紫色の光が混じっている。
肌は驚くほど白く。
額の左右には、黒い結晶でできた角のようなものが伸びていた。
身体には黒を基調とした軽装の鎧。
そして右手には。
一本の黒い剣。
薫が幻の中で見たものと同じだった。
女性は宙に浮いたまま目を閉じている。
「……人?」
千鶴が小さく呟く。
薫は答えない。
人ではない。
見れば分かる。
身体を構成しているものそのものが。
魔力だ。
女性の足がゆっくりと床へ触れた。
黒い剣の切っ先が下がる。
そして瞼が開いた。
紫紺の瞳。
最初に見たのは。
薫だった。
「……」
女性の瞳が僅かに揺れる。
次に。
千鶴。
二人を交互に見る。
太陽の耳飾り。
月の耳飾り。
女性の表情が。
初めて変わった。
薫の呼吸が止まる。
女性は眉を寄せた。
何かを思い出そうとしている。
だが。
すぐに首を横へ振った。
「……違う」
再び千鶴を見る。
そして薫を見る。
「太陽と……月か」
地下神殿に静かな声が響いた。
千鶴と薫は動けなかった。
初対面。
のはずだ。
それなのに目の前の女性は二人を見た瞬間に
太陽と月そう呼んだ。
薫が一歩前へ出る。
「僕たちを知ってるの?」
女性の瞳が薫へ向く。
「……知って……」
言葉が止まる。
眉間へ皺が寄る。
「……いる?」
「質問されても」
薫が困ったように答える。
女性は頭へ手を当てた。
「分からぬ……」
「記憶がないの?」
千鶴が尋ねる。
女性は千鶴を見る。
「記憶……」
その言葉すら確かめるように繰り返す。
長い沈黙。
そして。
「名」
女性が呟いた。
「え?」
「我の……名……」
自分へ問いかけるように。
何度も繰り返す。
やがて。
紫紺の瞳が僅かに見開かれた。
「……リゼ」
「リゼ?」
千鶴が聞き返す。
女性は頷いた。
「そう……だ」
黒い剣を握る。
「我は……リゼ」
その瞬間だった。
黒い剣へ亀裂が走った。
「……?」
リゼが剣を見る。
パキッ。
刃の一部が。
黒紫色の光になって崩れた。
「おい」
薫の表情が変わる。
「大丈夫?」
「……何が」
リゼが言い終えるより早く。
身体が揺れた。
「危ない!」
薫が駆け寄る。
リゼの膝が折れる。
同時に。
身体から大量の黒紫色の光が溢れ出した。
「なっ……」
千鶴が目を見開く。
光に包まれたリゼの身体が。
縮んでいく。
背丈が。
半分。
さらに半分。
黒い剣は完全に光となって消え。
鎧も。
長い髪も。
身体と一緒に小さくなっていく。
「薫!」
「見えてる!」
落ちてきたリゼを。
薫が両手で受け止めた。
軽い。
あまりにも。
薫は恐る恐る手を開く。
そこにいたのは。
先ほどまでの凛々しい女性ではなかった。
手のひらに収まるほど小さな。
幼い少女。
黒い髪。
紫紺の瞳。
額に残った小さな黒い角。
服も同じように小さくなっている。
少女は薫の手の中で。
ぼんやりと目を開けた。
「……」
薫を見上げる。
その瞳から。
先ほどまで感じていた威圧感は完全に消えていた。
千鶴が横から覗き込む。
「……小さくなった」
薫はしばらく黙っていた。
「見れば分かるよ」
「さっき聞いた!」
ノクスも千鶴の肩から身を乗り出す。
「キュル?」
小さくなったリゼと。
ノクスの紫色の瞳が合った。
「……」
「……キュル」
リゼは何も言わない。
もう一度薫を見上げた。
そして小さな手を伸ばすと。
薫の指を握った。
「……つき」
「え?」
それだけを呟いて。
リゼは静かに目を閉じた。
薫の手のひらの上で
小さな寝息が聞こえ始める。
千鶴。
薫。
ノクス。
三人はしばらくその小さな少女を見つめていた。
祠の異変を調べに来ただけだった。
そのはずなのに…
どうやらとんでもないものを
起こしてしまったらしい。




