第16話 双星
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「姉さん。」
薫が静かに呼んだ。
その声を聞いた瞬間。
千鶴は動いていた。
背負っていた大剣を抜き放つ。
鞘から刃が抜け切るより早く、千鶴は一歩前へ踏み込んだ。
地面を蹴る。
迫っていた魔獣との距離が、一瞬で消えた。
魔獣が牙を剥く。
だが。
遅い。
千鶴は大剣を振り上げなかった。
大きく構えることもしない。
低く構えた刃を、そのまま斜め上へ振り抜いた。
鈍い衝撃音。
魔獣の身体が宙へ浮いた。
そのまま千鶴の横を通り過ぎ、街道へ転がる。
二度、三度。
地面を跳ねた身体は、そのまま動かなくなった。
「……え?」
ミナが声を漏らした。
ロイも槍を構えたまま固まっている。
あまりにも、一瞬だった。
何が起きたのか理解するより先に、戦闘が終わっていた。
だが。
千鶴は倒した魔獣を見ていなかった。
すでに視線は、その先へ向いている。
倒れた荷車。
負傷者。
戦い続ける冒険者たち。
そして、その周囲を埋め尽くす魔獣の群れ。
「薫」
「うん」
それだけだった。
薫が木箱を抱え直す。
千鶴は大剣についた血を振り払い、そのまま前へ走り出した。
「行こう!」
「え、ちょっ――!」
ロイが慌てて後を追う。
ミナも杖を握り締め、走り出した。
「待ってください!」
四人は戦場へ向かって駆ける。
正面では、先ほど声をかけてきた冒険者が目を見開いていた。
「今の……お前が?」
千鶴は走りながら答える。
「回復薬はどこへ運べばいいですか!」
冒険者は一瞬だけ呆けた。
すぐに我へ返り、街道脇を指差す。
「負傷者を集めてる場所がある! あそこだ!」
横転した荷車の向こう。
何人もの冒険者が地面へ横たえられている。
治療士らしき女性が、一人で負傷者の間を走り回っていた。
「薫!」
千鶴が叫ぶ。
だが薫は、すでに進路を変えていた。
「分かってる」
木箱を抱えたまま、負傷者のもとへ走る。
千鶴もその横へ並んだ。
ロイとミナが後ろへ続く。
その時。
右側の草むらが大きく揺れた。
二体。
さらに奥から一体。
魔獣が飛び出す。
「三体!」
ロイが叫び、槍を構えた。
「俺が――」
その横を。
千鶴が通り過ぎた。
一体目が飛びかかる。
大剣が横へ走る。
刃が魔獣の首元を捉え、その身体を地面へ叩きつけた。
止まらない。
千鶴は振り抜いた大剣の勢いを殺さず、そのまま身体を回転させる。
二体目。
振り返ることすらしない。
背後から迫っていた魔獣へ、大剣の柄頭を叩き込んだ。
骨の砕ける音。
魔獣が吹き飛ぶ。
残る一体が千鶴を避けた。
狙いは薫。
木箱を抱え、両手が塞がっている。
「薫!」
ミナが叫ぶ。
薫は振り返らない。
走る速度も落とさなかった。
魔獣が跳ぶ。
その瞬間。
千鶴の大剣が地面を滑った。
低い軌道。
薫の背後へ迫った魔獣の前脚を正確に薙ぎ払う。
体勢が崩れる。
魔獣の身体が宙で傾いた。
その真横を、薫が通り過ぎる。
「ありがと」
「うん」
千鶴も走り続ける。
ロイは思わず足を止めかけた。
「……なんだよ、それ」
会話すらしていない。
薫は後ろを見ていなかった。
それなのに、千鶴が助けることを知っていたように見えた。
「ロイ!」
千鶴の声が飛ぶ。
「置いてくよ!」
「っ……!」
ロイは我に返った。
「分かってる!」
再び走り出す。
四人は戦場を横切り、負傷者が集められた場所へ辿り着いた。
「回復薬です!」
薫が叫ぶ。
治療士が振り返った。
「ギルドから!?」
「はい!」
薫は木箱を地面へ置き、蓋を開く。
淡い緑色の液体が入った小瓶が、整然と並んでいる。
治療士の表情が変わった。
「助かった!」
すぐに数人の冒険者が集まり、小瓶を受け取っていく。
「重傷者から使って!」
「こっちにも一本!」
「止血が先だ! 傷を押さえろ!」
木箱の中から次々と回復薬が運び出されていく。
千鶴はその光景を見つめた。
苦しそうに息をする者。
血に染まった鎧。
折れた武器を握ったまま横たわる冒険者。
その一人へ回復薬が使われる。
淡い緑色の光が傷口を包んだ。
荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「……よかった」
千鶴が小さく呟いた。
薫も木箱を見下ろす。
空になっていた。
届けた。
任務は終わった。
「よし」
ロイが槍を握り直した。
「じゃあ次は――」
「帰るよ」
薫が言った。
ロイの動きが止まる。
「……は?」
「任務は終わった」
薫は空になった木箱を持ち上げた。
「回復薬を届けたら帰還。指示がない限り戦うな。バルトさんからそう言われてる」
「でも!」
ロイが周囲を見る。
戦闘は続いている。
剣戟。
怒号。
魔獣の咆哮。
目の前で、多くの冒険者が戦っている。
「こんなの見て帰れるかよ!」
「帰る」
薫は即答した。
「僕たちはストーン級だ」
「だからって!」
「命令を無視して勝手に戦えば、現場の邪魔になる」
ロイが言葉に詰まる。
「今ここで戦っている人たちは、僕たちより経験がある。誰がどこを守るのか、誰が負傷者を下げるのか、全部考えて動いてる」
薫は戦場を見る。
「そこへ事情も分からない僕たちが入れば、守らなきゃいけない人間が四人増えるかもしれない」
「……っ」
ロイは槍を握り締めた。
悔しい。
それでも。
仮登録試験で女王個体と遭遇した時。
薫は戦うことより、撤退を選んだ。
あの時と同じだ。
勝てるかどうかではない。
自分たちが何をするべきなのか。
薫はそれだけを見ている。
「戻ろう」
千鶴も言った。
ロイが千鶴を見る。
意外だった。
真っ先に戦場へ飛び込むと思っていた。
だが千鶴は、大剣を背負い直している。
「私も戦いたいよ」
千鶴は少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、約束したから」
ロイは何も言えなかった。
ミナが小さく頷く。
「……戻りましょう」
四人が戦場へ背を向ける。
その時だった。
「下がれぇぇぇ!!」
怒号が響いた。
千鶴と薫が同時に振り返る。
戦場の中央。
冒険者たちの一角が崩れていた。
一人が倒れる。
その隙間へ魔獣が雪崩れ込む。
二体。
三体。
五体。
「押さえろ!」
「無理だ! 数が多い!」
「負傷者を下げろ!」
前線が押される。
そして。
一体の魔獣が、その隙間を抜けた。
向かう先。
負傷者たち。
「まずい!」
ロイが叫ぶ。
護衛の冒険者が追おうとする。
だが別の魔獣に阻まれた。
間に合わない。
治療士が顔を上げる。
目の前には、動けない負傷者。
逃げられない。
魔獣が地面を蹴った。
千鶴が大剣へ手を伸ばす。
だが。
その前に。
薫が動いた。
空になった木箱を地面へ置く。
長剣を抜く。
一歩。
ただ、それだけだった。
次の瞬間。
薫の姿が消えた。
「え……?」
ミナが瞬きをする。
甲高い金属音。
薫は魔獣の前にいた。
長剣が牙を受け止めている。
魔獣の勢いを正面から止めたのではない。
刃を僅かに傾け、突進の軌道を横へ流していた。
魔獣の身体が薫の横を抜ける。
そこへ短剣が走った。
首。
一閃。
血飛沫が舞う。
魔獣が地面へ崩れた。
薫は血を払う。
その背後へ。
二体目。
「薫さん!」
ミナが叫ぶ。
薫は振り返らない。
短剣だけを逆手へ持ち替えた。
次の瞬間。
大剣が薫の頭上を通過した。
轟音。
背後から飛びかかっていた魔獣が、千鶴の一撃を受けて横へ吹き飛ぶ。
薫の髪が風圧で揺れた。
それでも薫は瞬きすらしなかった。
「姉さん」
「うん」
千鶴が薫の隣へ並ぶ。
それだけ。
何をするか。
どちらが右を見るのか。
どちらが前へ出るのか。
そんな確認は必要なかった。
千鶴が大剣を構える。
薫が長剣と短剣を下げる。
二人の前では、崩れた前線から魔獣たちが流れ込んできている。
一体。
三体。
五体。
さらにその後ろ。
まだいる。
ロイが息を呑んだ。
「おい……」
千鶴が一歩前へ出る。
薫も同時に動いた。
その瞬間。
二人の立ち位置が、まるで最初から決められていたかのように重なった。
千鶴が前。
薫が半歩後ろ。
けれど。
それは前衛と後衛ではない。
互いが互いの死角を消している。
「ロイ」
薫が戦場を見たまま言った。
「ミナをお願い」
「……お前らは?」
薫は答えなかった。
代わりに。
千鶴が笑った。
先ほどまでの柔らかな笑顔ではない。
剣を握った時だけ見せる。
戦士の顔。
「大丈夫」
大剣の切っ先を、迫る群れへ向ける。
「こうなったら――」
隣で薫の双剣が静かに構えられた。
「戦うしかないから」
次の瞬間。
双子が同時に地面を蹴った。
戦場へ。
二つの星が、駆け出した。




