第二節 太陽と月の離別
警鐘が鳴り響いていた。
一度。
二度。
三度。
眠りに沈んでいたセレスタ村を叩き起こすように、鐘の音は夜の空気を震わせ続ける。
「千鶴、薫!」
診療所の扉が勢いよく開き、宗一郎が部屋へ駆け込んできた。
普段と変わらない寝間着姿だったが、その右手には、物置へしまわれていた古い剣が握られている。
刃こぼれした、飾り気のない鉄の剣。
薫は父がそれを持っているところを、これまで一度も見たことがなかった。
「服を着ろ。すぐに裏口から出る」
「何があったの?」
千鶴が寝台から飛び降りる。
宗一郎は答えず、窓の外へ目を向けた。
森の中に見えていた赤い光は、すでに村のすぐ近くまで迫っている。
松明の数は数十ではない。
百を超える兵士が、三方から村を包囲していた。
「盗賊……じゃないよね」
薫の言葉に、宗一郎は小さく頷いた。
「軍だ」
「どこの?」
答えたのは、遅れて部屋へ入ってきた静だった。
その腕には、小さな革袋と二着の外套が抱えられている。
「まだ分からないわ」
静はそう言ったが、声に迷いがあった。
分からないのではない。
兵士たちの姿に、説明できない矛盾があるのだ。
先頭を進む兵士たちは、白と金を基調とした鎧を着ている。
太陽聖王国アルヴァーンの軍装。
だが腰に差された短剣や、胸元に刻まれた小さな紋章は、月影連邦ノクシアのものだった。
二つの国は長く対立している。
同じ軍勢の中で、両国の装備が混在するはずがない。
「父さん、戦うの?」
千鶴が宗一郎の剣を見つめた。
宗一郎は剣を握る手へ力を込める。
「お前たちを逃がす」
「一緒に逃げればいいでしょ」
「全員が同じ道を使えば、すぐに追いつかれる」
「だったら私も戦う」
「千鶴」
「私、強いよ。村の大人にも負けないし――」
「駄目だ」
宗一郎の一言で、千鶴は口を閉じた。
怒鳴ったわけではない。
それでも、拒むことを許さない強さがあった。
「お前が強いかどうかは関係ない」
宗一郎は千鶴の前へ膝をつき、両肩を掴んだ。
「薫と一緒に生きろ」
「でも――」
「いいな」
千鶴の唇が震える。
彼女は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。
薫はそのやり取りを見ながら、胸の奥へ冷たいものが広がっていくのを感じていた。
父は最初から、自分たちと一緒に逃げるつもりがない。
「母さんも残るの?」
薫が尋ねる。
静は微笑んだ。
いつもと同じ、穏やかな笑顔だった。
だからこそ、薫には嘘だと分かった。
「怪我人が出るわ。診療所を空にはできないもの」
「僕たちより、怪我人の方が大事?」
千鶴が責めるように言った。
静は一瞬だけ目を伏せ、二人を強く抱き締めた。
「あなたたちが、一番大事よ」
千鶴の肩が震える。
薫は静の服を握った。
薬草と石鹸の匂い。
何度も熱を出した夜に嗅いだ、安心する匂いだった。
「だったら、一緒に来てよ」
薫が言う。
「お願いだから」
静は答えなかった。
代わりに二人から身体を離し、それぞれの耳飾りへそっと触れた。
千鶴の太陽。
薫の三日月。
「何があっても、二人でいるのよ」
「お母さん」
「千鶴。薫を守ってあげて」
千鶴は涙をこらえながら、強く頷いた。
「うん。絶対に守る」
静は次に薫を見る。
「薫」
「……なに」
「千鶴を一人にしないで」
同じことを頼まれると思っていた。
千鶴を支えてほしい。
無茶を止めてほしい。
いつものように、姉を見ていてほしい。
けれど静の言葉は違った。
守れ、ではなかった。
一人にするな。
その意味を理解するより先に、村の北側から爆発音が響いた。
窓ガラスが震え、天井から埃が落ちる。
遠くで悲鳴が上がった。
「行け!」
宗一郎が立ち上がる。
静は革袋と外套を二人に押しつけた。
袋の中には、少量の食料と水、小さな薬瓶、銀貨が入っていた。
「裏の森を南へ。川に沿って進めば、古い石橋があるわ。そこを渡って街道へ出るの」
「父さんたちは?」
千鶴が叫ぶ。
「後から行く」
宗一郎が答えた。
その言葉も、嘘だった。
千鶴にも分かったのだろう。
彼女の目から、とうとう涙がこぼれた。
「絶対だよ」
「ああ」
「絶対に来てよ!」
「ああ」
宗一郎は短く答え、千鶴の頭を大きな手で撫でた。
薫にも同じように手を伸ばす。
「薫」
「……うん」
「一人で背負うな」
夕食の時と同じ言葉。
「家族とは、そのためにいる」
薫は頷けなかった。
頷けば、これが父との最後の会話になってしまう気がした。
診療所の表口が激しく叩かれる。
「開けろ!」
男の声。
続いて、扉を破壊するような衝撃。
宗一郎は剣を抜き、廊下へ出た。
静が二人の背中を押す。
「走って」
千鶴は動かなかった。
「千鶴!」
薫が姉の手を掴む。
「でも、お父さんとお母さんが!」
「僕たちが残ったら、父さんたちが逃がしてくれた意味がなくなる!」
「でも!」
表口の扉が砕けた。
怒号と金属音。
宗一郎の剣が何かを弾く音が響く。
静はもう一度、二人の背中を押した。
「生きて」
その声だけは震えていた。
「お願いだから、生きて」
薫は千鶴の手を引き、裏口へ走った。
千鶴は何度も振り返った。
最後に見えたのは、暗い廊下へ立つ静の姿。
その向こうで、宗一郎の剣が松明の光を反射した。
扉が閉まる。
二人は夜の森へ飛び込んだ。
◇
村は燃え始めていた。
北側の家屋から上がった炎が風に煽られ、次々と屋根へ燃え移っていく。
村人たちが森や畑へ逃げようとしている。
しかし、村を囲んでいた兵士たちは、逃げ道を塞ぐように配置されていた。
「止まるな!」
薫は千鶴の手を引き、診療所の裏手から森へ駆け込む。
背後で火の粉が舞う。
赤ん坊の泣き声。
助けを求める声。
剣と剣がぶつかる音。
千鶴が足を止めかけるたび、薫はその手を強く引いた。
「助けなきゃ」
「無理だ」
「でも、みんなが!」
「僕たちだけじゃ何もできない!」
「やってみないと分からない!」
千鶴が薫の手を振りほどく。
「お父さんたちも村のみんなも、置いていけない!」
「姉さんが戻ったら、父さんたちは何のために残ったの!」
千鶴が息を呑む。
薫も言った直後に後悔した。
けれど訂正している時間はない。
森の入り口から兵士たちの声が聞こえる。
「子供が二人、南へ逃げた!」
「追え! 必ず生け捕りにしろ!」
生け捕り。
その言葉に、薫は違和感を覚えた。
村を襲った軍勢は、住民を無差別に殺している。
それなのに、自分たちだけは生きたまま捕らえようとしている。
やはり、この襲撃の目的は村ではない。
「僕たちを探してる」
「え?」
「兵士たちは、最初から僕たちを狙ってる」
千鶴は燃える村を見た。
家々を包む炎。
逃げ惑う村人。
自分たちを逃がすために残った両親。
「私たちのせいなの……?」
薫は答えられなかった。
否定したかった。
だが、兵士たちの命令が何よりの証拠だった。
「今は逃げよう」
薫はもう一度、千鶴へ手を伸ばした。
「生きて、理由を見つけるんだ」
千鶴は涙を拭い、その手を掴んだ。
二人は再び走り出した。
◇
森の中は暗かった。
月明かりは枝葉に遮られ、足元さえほとんど見えない。
それでも薫は迷わなかった。
昼間に何度も歩いた森だ。
川の音を聞き、地面の傾斜を確かめれば、石橋までの方角が分かる。
千鶴は薫の後ろを走っている。
いつもとは逆だった。
普段なら千鶴が先を走り、薫がその背中を追う。
今夜だけは、薫が姉を導かなければならない。
「もう少しで川だ」
薫が言った。
返事がない。
振り返ると、千鶴は苦しそうに呼吸をしていた。
裸足に近い薄い靴で森を走り、何度も枝や石に足を取られている。
「大丈夫?」
「大丈夫」
千鶴はすぐに答えた。
その言葉を聞くと、薫の胸が苦しくなる。
千鶴の「大丈夫」は、いつも大丈夫ではない時に使われる。
薫は千鶴の前へしゃがんだ。
「乗って」
「え?」
「背負う」
「薫だって疲れてるでしょ」
「僕は大丈夫」
「薫の『大丈夫』も信用できない」
こんな時なのに、千鶴が少し笑った。
薫もわずかに口元を緩める。
「じゃあ、二人とも大丈夫じゃない。少し休もう」
大きな木の根元へ身を隠す。
薫は革袋から水を取り出し、千鶴へ渡した。
千鶴は一口だけ飲み、薫へ返す。
「半分ずつ」
「もっと飲んでいいよ」
「半分ずつって言ったの」
薫も一口飲んだ。
遠くで枝が折れる音がする。
追手は近い。
休んでいられる時間はほとんどなかった。
その時、森の奥で光が瞬いた。
赤。
次の瞬間、炎の矢が飛来した。
「伏せて!」
薫が千鶴を押し倒す。
炎の矢は木の幹へ突き刺さり、乾いた樹皮を燃え上がらせた。
「見つけたぞ!」
兵士が三人、木々の間から現れる。
太陽聖王国の白い鎧。
しかし手にした剣の鍔には、月影連邦の紋章。
間近で見ても、矛盾した装備だった。
「抵抗するな」
先頭の兵士が剣を構える。
「お前たちは殺さない。大人しく来れば、村の者もこれ以上傷つけずに済む」
「嘘だ!」
千鶴が叫ぶ。
兵士の背後では、村を焼く炎が空を赤く染めている。
千鶴は地面から太い枝を拾い、薫を庇うように前へ立った。
「薫には近づかせない」
「姉さん」
「大丈夫」
千鶴の手が震えている。
それでも一歩も退かなかった。
兵士はため息をついた。
「対象の一人が抵抗。多少の負傷は許可されている」
二人目の兵士が千鶴へ近づく。
剣の峰で気絶させるつもりなのだろう。
千鶴は枝を振り上げた。
兵士の剣が迫る。
その瞬間。
千鶴の太陽の耳飾りが、黄金色に輝いた。
炎が噴き上がった。
木の枝を包んだ炎は、夜を昼へ変えるほど眩しく燃え上がる。
兵士が足を止めた。
「火属性……?」
千鶴自身も驚いていた。
だが次の瞬間には、燃える枝を剣のように振るう。
兵士の武器と炎の枝がぶつかった。
普通なら一撃で折れるはずの枝が、鉄の剣を弾き返す。
火花が散り、兵士が体勢を崩した。
「薫、走って!」
千鶴は二人目の兵士へ炎を振るう。
薫は走らなかった。
三人目が背後から千鶴へ回り込んでいる。
「姉さん、後ろ!」
間に合わない。
薫は右手を伸ばした。
姉を傷つけさせたくない。
ただ、それだけを願った。
世界から音が消えた。
燃え盛る木の音も、兵士の足音も、千鶴の呼吸も。
すべてが深い水の底へ沈んでいく。
兵士の動きが鈍る。
剣を振り下ろそうとした腕が、空中で静止した。
薫は自分でも何をしているのか分からないまま、兵士の足元へ手を向けた。
地面から青白い霧が広がる。
兵士の鎧が薄い氷に覆われ、完全に動きを止めた。
「水……いや、闇属性?」
先頭の兵士が狼狽する。
「報告と違う! 二人とも覚醒しているぞ!」
覚醒。
薫はその言葉を聞き逃さなかった。
兵士たちは、自分たちの力について何か知っている。
問い詰めたい。
だが今は、姉と生き延びることが先だ。
「姉さん!」
薫の声で千鶴が振り返る。
二人は同時に走り出した。
背後で兵士たちが叫んでいる。
炎と霧が森を分断し、わずかな時間だけ追手の足を止めた。
◇
やがて川の音が大きくなる。
森を抜けた先に、古い石橋が見えた。
幅は狭く、手すりもない。
下では増水した川が、黒い濁流となって岩へぶつかっている。
橋を渡れば街道へ出られる。
街道まで行けば、近隣の町へ助けを求められる。
千鶴と薫は石橋へ足を踏み入れた。
半分ほど渡ったところで、向こう岸の森から兵士たちが現れた。
待ち伏せ。
薫は足を止める。
背後からも追手が迫っている。
橋の中央で挟まれた。
「逃げ場はない」
向こう岸に立つ男は、他の兵士よりも豪華な鎧を着ていた。
白金の肩当て。
だが顔を覆う仮面には、太陽と月を重ねた奇妙な紋章が刻まれている。
「ようやく見つけた。星墜ちの双子」
「私たちを知ってるの?」
千鶴が問う。
男は答えず、手を差し出した。
「来い。お前たちには、世界を変える役目がある」
「村を焼いておいて、何が役目だ!」
「必要な犠牲だ」
男の声には、迷いも罪悪感もなかった。
「太陽と月は、苦しみの中でこそ目覚める。家族、故郷、安らぎ――それらを失って初めて、お前たちは完全になる」
千鶴の身体から炎が立ち上る。
「お父さんとお母さんを……村のみんなを、私たちのために?」
「そうだ」
男は静かに言った。
「喜べ。彼らの死は無意味ではない」
千鶴が叫んだ。
黄金の炎が橋を照らす。
薫は姉の腕を掴んだ。
「駄目だ、姉さん!」
「離して!」
「今の姉さんが力を使ったら――」
「許せない!」
炎がさらに膨れ上がる。
橋の石畳が熱で赤く染まる。
千鶴の瞳から、琥珀色の光があふれていた。
薫は本能的に理解した。
このままでは、千鶴自身も炎に焼かれる。
「姉さん、僕を見て!」
千鶴には届かない。
薫は姉を抱き締めた。
熱い。
皮膚が焼けるような熱。
それでも離さなかった。
「僕はここにいる!」
炎の中で叫ぶ。
「僕まで置いていかないで!」
千鶴の身体がわずかに震える。
炎が弱まった。
だが、その一瞬を男は見逃さなかった。
男が手を振る。
背後の兵士たちが一斉に魔導具を起動した。
橋の両端に刻まれていた術式が赤く輝く。
薫は足元を見た。
爆破術式。
「姉さん、走って!」
爆発が起きた。
石橋の中央が砕ける。
千鶴と薫の足元が崩れ、二人は宙へ投げ出された。
千鶴が薫の手を掴む。
薫も握り返す。
崩れた橋の端へ、千鶴のもう一方の手が届いた。
千鶴は片手で石橋へぶら下がり、その下で薫の手を握っている。
濁流が遥か下で轟いていた。
「薫、離さないで!」
「うん!」
兵士たちが橋の端へ近づいてくる。
千鶴は薫を引き上げようとするが、十歳の腕では二人分の体重を支えきれない。
石が少しずつ崩れる。
「千鶴!」
向こう岸から、声が聞こえた。
静だった。
服は血と煤で汚れ、片腕を押さえている。
その隣には、傷だらけの宗一郎がいた。
二人は生きていた。
「お父さん! お母さん!」
千鶴の顔に希望が浮かぶ。
しかし宗一郎たちの背後から、兵士の一団が迫っていた。
宗一郎は剣を構え、静を庇うように立つ。
「千鶴! 薫を上げろ!」
「でも!」
「早くしろ!」
薫は橋の下から両親を見た。
もう助からない。
子供の薫にも分かった。
それでも宗一郎と静は、自分たちではなく双子を見ていた。
静の唇が動く。
音は川の轟音に消されて聞こえない。
けれど、何を言ったのか分かった。
生きて。
石橋が大きく揺れた。
千鶴の指が滑る。
「薫!」
千鶴は必死に手を握り直した。
だが薫には分かった。
このままでは二人とも落ちる。
「姉さん」
「何?」
「絶対、生きて」
「何言ってるの? 二人で上がるんだよ!」
薫は千鶴の顔を見上げる。
涙で歪んだ、姉の顔。
離したくない。
ずっと隣にいたい。
それでも薫は、千鶴の手から自分の指を一本ずつ外し始めた。
「やめて」
「姉さんなら上がれる」
「やめて、薫!」
「今度は、僕が守る番だから」
最後の指が離れる。
「薫――!」
千鶴の叫び声。
薫の身体が濁流へ落ちていく。
その瞬間、三日月の耳飾りが青白く輝いた。
世界が静止する。
落下する薫の身体。
砕け散る橋。
伸ばされた千鶴の手。
すべてが一瞬だけ止まった。
薫は最後の力で、千鶴のいる橋の残骸を月の光で押し上げた。
千鶴の身体が岸へ投げ出される。
同時に静止した世界が動き出し、薫は暗い濁流へ飲み込まれた。
「薫!」
千鶴は橋の端へ這い寄った。
川面には何も見えない。
黒い水が激しく流れているだけだった。
「薫! 返事して!」
何度叫んでも、答えはない。
背後から兵士が迫る。
宗一郎が最後の力で兵士へ斬りかかり、千鶴への道を塞ぐ。
「走れ、千鶴!」
「嫌だ! 薫が!」
「走れ!」
宗一郎の怒号。
静が千鶴の名を呼ぶ。
千鶴は立ち上がれなかった。
薫の手の感触が、まだ右手に残っている。
自分が守ると言った。
絶対に守ると約束した。
それなのに。
「ごめん……薫」
宗一郎の剣が折れる音がした。
千鶴は涙を流しながら立ち上がり、森へ走った。
背後で、父と母の声が聞こえた気がした。
振り返らなかった。
振り返れば、二度と走れなくなる。
夜明け前の暗い森を、千鶴は一人で走り続けた。
◇
薫が次に目を開けた時、見知らぬ天井があった。
身体中が痛む。
喉へ水が入り、呼吸をするだけで胸が裂けそうだった。
周囲では、見たことのない黒と銀の軍服を着た者たちが話している。
「目を覚ましたぞ」
「月影連邦の巡回部隊が発見したそうだ」
「もう一人は?」
「川を捜索したが、見つかっていない。太陽聖王国側へ流された可能性もある」
薫は身体を起こそうとした。
「姉さん……」
声がほとんど出ない。
近くにいた兵士が薫を寝台へ戻す。
「無理をするな。お前の村は、太陽聖王国軍に襲われた」
薫は兵士を見た。
「違う……」
「何が違う?」
「鎧は……太陽だった。でも、武器は月影の……」
兵士たちは顔を見合わせた。
やがて一人が、哀れむような表情を浮かべる。
「混乱しているんだ。無理もない」
「姉さんは?」
誰も答えない。
「千鶴は、どこ?」
沈黙が答えだった。
薫は目を閉じた。
最後に見た千鶴の顔。
伸ばされた手。
自分の名前を叫ぶ声。
手を離したのは自分だ。
姉を生かすために。
それでも胸の中には、千鶴を見捨てたという痛みだけが残った。
薫の頬を涙が伝う。
三日月の耳飾りが、弱々しく光った。
その光に応える太陽は、どこにもなかった。
◇
同じ頃。
川から遠く離れた太陽聖王国側の森で、千鶴は意識を失って倒れていた。
彼女を発見した白金騎士団の兵士が、耳元の太陽の飾りを見て息を呑む。
「この子は……」
千鶴の右手は、何かを掴もうとするように固く握られていた。
その手の中には、薫の外套から千切れた小さな布だけが残されている。
騎士は千鶴の呼吸を確認し、抱き上げた。
「生存者だ。王都へ運ぶ」
千鶴は目を覚まさない。
夢の中で、何度も薫の名前を呼び続けていた。
この夜。
太陽は月を失い、
月は太陽を失った。
二人は互いを死んだと思ったまま、敵対する二つの国へ運ばれていく。
再び剣を交える、その日まで。




