第一節 星墜ちの双子
「薫は、私が守るから」
その言葉を、薫はずっと信じていた。
そして同じくらい、嫌っていた。
姉の千鶴がそう口にする時、決まって彼女は薫よりも危険な場所に立っていたからだ。
◇
蒼穹界エルディアの南端に、セレスタという小さな村がある。
東には穏やかな森が広がり、西には黄金色の麦畑が揺れる。戦争を続ける二つの大国からは遠く、地図にも小さな点としてしか記されていない辺境の村だった。
村を訪れる者は少ない。
街道を外れたこの土地へやって来るのは、行商人か、道に迷った旅人か、あるいは怪我をして診療所を頼る者くらいだった。
診療所を営んでいるのは、宗一郎と静という夫婦だ。
宗一郎は大柄で無口な男だったが、子供や動物には弱かった。静はいつも穏やかに笑い、村人の話を最後まで遮らずに聞く女性だった。
二人の間に血の繋がった子供はいなかった。
それでも村人たちは、診療所の裏庭を走り回る二人の子供を、夫婦の実子だと思っていた。
白金色の髪を風になびかせる少女、千鶴。
黒に近い紺色の髪を揺らし、その後ろを追いかける少年、薫。
同じ日に生まれ、同じ顔立ちを持ちながら、二人の印象はまるで違っていた。
千鶴は太陽のようだった。
よく笑い、よく怒り、よく転び、転んだ次の瞬間にはもう立ち上がっている。困っている者を見つければ、事情も聞かずに駆け寄っていく。
薫は月のようだった。
口数は少なく、千鶴が走り出す前に行き先を予想し、姉が転びそうな場所へ先回りしている。村の大人たちが気づかない小さな変化にも、彼だけはすぐに気づいた。
その日も、千鶴は木の上にいた。
「もう少しだから! 大丈夫!」
「姉さんの『大丈夫』は信用できない」
薫は木の下から見上げ、静かに答えた。
大きな樫の木の枝先で、千鶴が片腕を伸ばしている。その先では、村の子供が飼っている白い猫が、怯えた声で鳴いていた。
「でも、放っておけないでしょ?」
「だから父さんを呼んでくればいい」
「それじゃ遅いよ。怖がってるもん」
猫が再び鳴く。
千鶴は幹から足を離し、細い枝へ体重を移した。
その瞬間、乾いた音が響いた。
「姉さん!」
枝が折れた。
千鶴の身体が宙へ投げ出される。
薫が両手を伸ばした。
届くはずがない。
十歳の少年が、同じ年頃の少女を受け止められる高さではなかった。
それでも薫は、姉の名前を呼びながら手を伸ばした。
世界から音が消えた。
風が止まり、木々の葉が空中で静止する。
落下していた千鶴の身体まで、見えない水の中へ沈んだように速度を失った。
薫は息を止めた。
何が起きたのか理解できない。
ただ、ゆっくりと落ちてきた千鶴を、今度こそ両腕で受け止めた。
二人はそのまま草の上へ倒れ込んだ。
猫だけが何事もなかったように千鶴の胸へ飛び降り、短く鳴いた。
「……ほら、大丈夫だった」
千鶴が笑う。
「大丈夫じゃない」
薫の声は震えていた。
「枝が折れることくらい分かってたでしょ」
「でも猫が――」
「猫より、姉さんが落ちたらどうするの」
「薫が受け止めてくれたじゃん」
「そういう話じゃない!」
薫が声を荒らげると、千鶴は目を丸くした。
普段の薫は滅多に怒らない。
千鶴は胸の上の猫を抱き、少しだけ俯いた。
「……ごめん」
薫は何も答えなかった。
自分の両手を見つめる。
先ほどまで周囲を包んでいた静寂は、もう消えていた。木々は風に揺れ、遠くでは鳥が鳴いている。
しかし、あれが気のせいではないことだけは分かった。
薫が千鶴を助けたいと願った瞬間、世界そのものが動きを止めた。
「薫?」
千鶴が顔を覗き込む。
「どこか痛い?」
「……痛くない」
「本当に?」
「姉さんこそ」
「私は平気。薫が守ってくれたから」
千鶴は立ち上がり、薫へ手を差し出した。
その耳元で、三日月を象った銀の耳飾りが揺れる。
薫の視線がそこへ吸い寄せられた。
自分の右耳にも、同じ形の耳飾りがある。ただし薫のものは三日月、千鶴のものは太陽を象っていた。
静が二人へ贈った、大切な耳飾り。
――あなたたちが、どれほど遠く離れても見つけ合えるように。
そう言って、静は笑っていた。
薫が千鶴の手を取ろうとした時、太陽の耳飾りが一瞬だけ黄金色に輝いた。
同時に、薫の三日月も青白い光を放つ。
二つの光は互いを確かめるように明滅し、すぐに消えた。
千鶴は気づいていないらしい。
「帰ろう。お母さんに見つかったら、また怒られる」
「怒られるのは姉さんだけだよ」
「薫も一緒にいたでしょ?」
「止めてた」
「でも一緒に怒られてくれるよね?」
「嫌だ」
「薫の薄情者!」
千鶴は頬を膨らませながら、薫の手を引いて走り出した。
つい先ほど落ちかけたばかりだというのに、もう足取りに迷いはない。
薫は呆れながらも、その手を離さなかった。
◇
夕暮れ時。
診療所の食卓には、静が焼いた黒麦のパンと、宗一郎が畑で採った野菜のスープが並んでいた。
千鶴は猫を助けた話を誇らしげに語った。
枝が折れたことと、薫が起こした不思議な現象については話さなかった。
「それでね、私がこうやって手を伸ばして――」
「木へ登ったのか」
宗一郎の低い声で、千鶴の動きが止まる。
「……少しだけ」
「どのくらいだ」
「屋根より、ちょっと高いくらい」
「千鶴」
「でも猫がいたから!」
宗一郎は深いため息をついた。
向かいでは、静が困ったように笑っている。
「猫を助けたことは立派よ。でも、自分が怪我をしてしまったら、猫も悲しむわ」
「薫が受け止めてくれたから平気だったよ」
「薫が?」
静が薫を見る。
「本当に受け止めたの?」
薫は一瞬だけ迷い、頷いた。
嘘ではない。
ただ、すべてを話していないだけだ。
静は薫の腕や肩に怪我がないことを確かめ、安心したように息を吐いた。
「薫は千鶴をよく見てくれているのね」
「姉さんは、見てないと何をするか分からないから」
「なによ、それ」
千鶴が不満そうに言う。
宗一郎はスープを飲みながら、わずかに口元を緩めた。
「だが、薫」
「なに、父さん」
「千鶴の無茶を止めるのは、お前一人の役目じゃない」
薫は父を見た。
「お前まで無茶をする必要はない。困った時は、誰かを呼べ」
「……でも、間に合わなかったら?」
「一人で背負うな」
宗一郎は短く言った。
「家族とは、そのためにいる」
千鶴は意味を理解したのか、していないのか、隣に座る薫の肩へ自分の肩をぶつけた。
「そうだよ。薫は一人で頑張らなくていいんだから」
「姉さんが言うの?」
「私はお姉ちゃんだからいいの」
「よくない」
「いいの!」
「よくないって」
二人の言い争いを、静は楽しそうに眺めていた。
窓の外では、沈みかけた太陽と昇り始めた月が、同じ空に浮かんでいる。
光と影。
昼と夜。
決して交わらないはずの二つが、黄昏の短い間だけ肩を並べていた。
「ねえ、お母さん」
食事を終えた千鶴が、不意に尋ねた。
「私たちって、どこで生まれたの?」
食卓から音が消えた。
薫は静の指先がわずかに震えたのを見逃さなかった。
宗一郎は視線を落とし、黙っている。
静は少しだけ考えてから、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「この村の近くよ」
「どこ?」
「星の降った場所」
「星?」
千鶴の瞳が輝く。
「私たち、星から生まれたの?」
「そうかもしれないわね」
「すごい! 薫、私たち星の子だって!」
「お母さんは、そうかもしれないって言っただけだよ」
「同じでしょ?」
「全然違う」
千鶴は楽しそうに笑った。
薫は笑えなかった。
静が嘘をついたとは思わない。
だが、すべてを話しているとも思えなかった。
二人が発見された夜の話を、村人たちはほとんど口にしない。
流星が村の東へ落ち、森の一部を消し飛ばしたこと。
巨大なクレーターの中心に、傷一つない二人の赤ん坊が眠っていたこと。
二人を囲むように、太陽と月を重ねた奇妙な紋章が大地へ刻まれていたこと。
幼い薫は、それらを村人の噂話から少しずつ知った。
そして今日、千鶴を助けた時に起きた現象。
薫は胸元を押さえた。
何かがいる。
自分の身体の奥深くに、静かに目を閉じている何かが。
それが何なのかは分からない。
ただ、その何かは千鶴の中にも存在している。
二つで一つ。
言葉ではなく、本能がそう告げていた。
◇
その夜。
薫は奇妙な夢を見た。
見渡す限り何もない、星空の中に立っている。
足元にも空があり、無数の星が広がっていた。
正面には、一人の女性が立っている。
顔は見えない。
長い髪が風もないのに揺れ、その手には光と闇を同時に宿す剣が握られていた。
女性の背後には、巨大な黒龍がいる。
紫色の瞳が、まっすぐ薫を見つめていた。
『まだ、早い』
女性が言った。
声は遠く、けれど不思議なほど鮮明だった。
『今はまだ、眠っていなさい』
「あなたは誰?」
薫が尋ねる。
女性は答えない。
代わりに剣を振り上げた。
星空が真二つに裂ける。
裂け目の向こうには、燃え上がる村が見えた。
セレスタだった。
家々が炎に包まれ、黒い鎧の兵士たちが村人を追い立てている。
診療所も燃えている。
千鶴が橋の向こう側から、薫へ手を伸ばしていた。
『薫!』
声が聞こえない。
千鶴の口だけが、自分の名前を叫んでいる。
二人の間で橋が崩れる。
薫は走った。
しかし、どれほど走っても千鶴へ近づけない。
「姉さん!」
黒龍が咆哮した。
世界が闇に包まれる直前、女性が初めて薫を見た。
紫色の瞳。
悲しみと後悔を宿した目だった。
『次こそは、離してはいけない』
◇
薫は跳ね起きた。
身体中が汗で濡れている。
窓の外はまだ暗い。
隣の寝台では、千鶴が穏やかな寝息を立てていた。
薫は寝台を降り、姉のそばへ歩み寄る。
千鶴の手が毛布から出ていた。
薫はその手を取り、確かめるように握った。
温かい。
生きている。
ここにいる。
「……離さないよ」
眠る千鶴へ、小さく呟く。
その時、遠くで犬が吠えた。
一匹だけではない。
村中の犬が、森の方角へ向かって一斉に吠えている。
薫は窓へ近づいた。
夜の森に、いくつもの赤い光が浮かんでいた。
松明。
それも、旅人や狩人の数ではない。
統率された軍勢が、音を殺して村へ近づいている。
薫の三日月の耳飾りが、冷たい光を放った。
隣の寝台で、千鶴が目を開く。
「薫……?」
薫は窓の外から目を離せなかった。
夢の中で見た光景と、同じだった。
「姉さん」
声が震えないよう、強く拳を握る。
「父さんと母さんを起こして」
遠くで、最初の鐘が鳴った。
セレスタ村へ危険を知らせる、けたたましい警鐘。
平穏な日々の終わりを告げる音だった。




