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双星のレガリア  作者: ボンヌ
プロローグ

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第一節 星墜ちの双子



「薫は、私が守るから」


その言葉を、薫はずっと信じていた。


そして同じくらい、嫌っていた。


姉の千鶴がそう口にする時、決まって彼女は薫よりも危険な場所に立っていたからだ。



蒼穹界エルディアの南端に、セレスタという小さな村がある。


東には穏やかな森が広がり、西には黄金色の麦畑が揺れる。戦争を続ける二つの大国からは遠く、地図にも小さな点としてしか記されていない辺境の村だった。


村を訪れる者は少ない。


街道を外れたこの土地へやって来るのは、行商人か、道に迷った旅人か、あるいは怪我をして診療所を頼る者くらいだった。


診療所を営んでいるのは、宗一郎と静という夫婦だ。


宗一郎は大柄で無口な男だったが、子供や動物には弱かった。静はいつも穏やかに笑い、村人の話を最後まで遮らずに聞く女性だった。


二人の間に血の繋がった子供はいなかった。


それでも村人たちは、診療所の裏庭を走り回る二人の子供を、夫婦の実子だと思っていた。


白金色の髪を風になびかせる少女、千鶴。


黒に近い紺色の髪を揺らし、その後ろを追いかける少年、薫。


同じ日に生まれ、同じ顔立ちを持ちながら、二人の印象はまるで違っていた。


千鶴は太陽のようだった。


よく笑い、よく怒り、よく転び、転んだ次の瞬間にはもう立ち上がっている。困っている者を見つければ、事情も聞かずに駆け寄っていく。


薫は月のようだった。


口数は少なく、千鶴が走り出す前に行き先を予想し、姉が転びそうな場所へ先回りしている。村の大人たちが気づかない小さな変化にも、彼だけはすぐに気づいた。


その日も、千鶴は木の上にいた。


「もう少しだから! 大丈夫!」


「姉さんの『大丈夫』は信用できない」


薫は木の下から見上げ、静かに答えた。


大きな樫の木の枝先で、千鶴が片腕を伸ばしている。その先では、村の子供が飼っている白い猫が、怯えた声で鳴いていた。


「でも、放っておけないでしょ?」


「だから父さんを呼んでくればいい」


「それじゃ遅いよ。怖がってるもん」


猫が再び鳴く。


千鶴は幹から足を離し、細い枝へ体重を移した。


その瞬間、乾いた音が響いた。


「姉さん!」


枝が折れた。


千鶴の身体が宙へ投げ出される。


薫が両手を伸ばした。


届くはずがない。


十歳の少年が、同じ年頃の少女を受け止められる高さではなかった。


それでも薫は、姉の名前を呼びながら手を伸ばした。


世界から音が消えた。


風が止まり、木々の葉が空中で静止する。


落下していた千鶴の身体まで、見えない水の中へ沈んだように速度を失った。


薫は息を止めた。


何が起きたのか理解できない。


ただ、ゆっくりと落ちてきた千鶴を、今度こそ両腕で受け止めた。


二人はそのまま草の上へ倒れ込んだ。


猫だけが何事もなかったように千鶴の胸へ飛び降り、短く鳴いた。


「……ほら、大丈夫だった」


千鶴が笑う。


「大丈夫じゃない」


薫の声は震えていた。


「枝が折れることくらい分かってたでしょ」


「でも猫が――」


「猫より、姉さんが落ちたらどうするの」


「薫が受け止めてくれたじゃん」


「そういう話じゃない!」


薫が声を荒らげると、千鶴は目を丸くした。


普段の薫は滅多に怒らない。


千鶴は胸の上の猫を抱き、少しだけ俯いた。


「……ごめん」


薫は何も答えなかった。


自分の両手を見つめる。


先ほどまで周囲を包んでいた静寂は、もう消えていた。木々は風に揺れ、遠くでは鳥が鳴いている。


しかし、あれが気のせいではないことだけは分かった。


薫が千鶴を助けたいと願った瞬間、世界そのものが動きを止めた。


「薫?」


千鶴が顔を覗き込む。


「どこか痛い?」


「……痛くない」


「本当に?」


「姉さんこそ」


「私は平気。薫が守ってくれたから」


千鶴は立ち上がり、薫へ手を差し出した。


その耳元で、三日月を象った銀の耳飾りが揺れる。


薫の視線がそこへ吸い寄せられた。


自分の右耳にも、同じ形の耳飾りがある。ただし薫のものは三日月、千鶴のものは太陽を象っていた。


静が二人へ贈った、大切な耳飾り。


――あなたたちが、どれほど遠く離れても見つけ合えるように。


そう言って、静は笑っていた。


薫が千鶴の手を取ろうとした時、太陽の耳飾りが一瞬だけ黄金色に輝いた。


同時に、薫の三日月も青白い光を放つ。


二つの光は互いを確かめるように明滅し、すぐに消えた。


千鶴は気づいていないらしい。


「帰ろう。お母さんに見つかったら、また怒られる」


「怒られるのは姉さんだけだよ」


「薫も一緒にいたでしょ?」


「止めてた」


「でも一緒に怒られてくれるよね?」


「嫌だ」


「薫の薄情者!」


千鶴は頬を膨らませながら、薫の手を引いて走り出した。


つい先ほど落ちかけたばかりだというのに、もう足取りに迷いはない。


薫は呆れながらも、その手を離さなかった。



夕暮れ時。


診療所の食卓には、静が焼いた黒麦のパンと、宗一郎が畑で採った野菜のスープが並んでいた。


千鶴は猫を助けた話を誇らしげに語った。


枝が折れたことと、薫が起こした不思議な現象については話さなかった。


「それでね、私がこうやって手を伸ばして――」


「木へ登ったのか」


宗一郎の低い声で、千鶴の動きが止まる。


「……少しだけ」


「どのくらいだ」


「屋根より、ちょっと高いくらい」


「千鶴」


「でも猫がいたから!」


宗一郎は深いため息をついた。


向かいでは、静が困ったように笑っている。


「猫を助けたことは立派よ。でも、自分が怪我をしてしまったら、猫も悲しむわ」


「薫が受け止めてくれたから平気だったよ」


「薫が?」


静が薫を見る。


「本当に受け止めたの?」


薫は一瞬だけ迷い、頷いた。


嘘ではない。


ただ、すべてを話していないだけだ。


静は薫の腕や肩に怪我がないことを確かめ、安心したように息を吐いた。


「薫は千鶴をよく見てくれているのね」


「姉さんは、見てないと何をするか分からないから」


「なによ、それ」


千鶴が不満そうに言う。


宗一郎はスープを飲みながら、わずかに口元を緩めた。


「だが、薫」


「なに、父さん」


「千鶴の無茶を止めるのは、お前一人の役目じゃない」


薫は父を見た。


「お前まで無茶をする必要はない。困った時は、誰かを呼べ」


「……でも、間に合わなかったら?」


「一人で背負うな」


宗一郎は短く言った。


「家族とは、そのためにいる」


千鶴は意味を理解したのか、していないのか、隣に座る薫の肩へ自分の肩をぶつけた。


「そうだよ。薫は一人で頑張らなくていいんだから」


「姉さんが言うの?」


「私はお姉ちゃんだからいいの」


「よくない」


「いいの!」


「よくないって」


二人の言い争いを、静は楽しそうに眺めていた。


窓の外では、沈みかけた太陽と昇り始めた月が、同じ空に浮かんでいる。


光と影。


昼と夜。


決して交わらないはずの二つが、黄昏の短い間だけ肩を並べていた。


「ねえ、お母さん」


食事を終えた千鶴が、不意に尋ねた。


「私たちって、どこで生まれたの?」


食卓から音が消えた。


薫は静の指先がわずかに震えたのを見逃さなかった。


宗一郎は視線を落とし、黙っている。


静は少しだけ考えてから、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。


「この村の近くよ」


「どこ?」


「星の降った場所」


「星?」


千鶴の瞳が輝く。


「私たち、星から生まれたの?」


「そうかもしれないわね」


「すごい! 薫、私たち星の子だって!」


「お母さんは、そうかもしれないって言っただけだよ」


「同じでしょ?」


「全然違う」


千鶴は楽しそうに笑った。


薫は笑えなかった。


静が嘘をついたとは思わない。


だが、すべてを話しているとも思えなかった。


二人が発見された夜の話を、村人たちはほとんど口にしない。


流星が村の東へ落ち、森の一部を消し飛ばしたこと。


巨大なクレーターの中心に、傷一つない二人の赤ん坊が眠っていたこと。


二人を囲むように、太陽と月を重ねた奇妙な紋章が大地へ刻まれていたこと。


幼い薫は、それらを村人の噂話から少しずつ知った。


そして今日、千鶴を助けた時に起きた現象。


薫は胸元を押さえた。


何かがいる。


自分の身体の奥深くに、静かに目を閉じている何かが。


それが何なのかは分からない。


ただ、その何かは千鶴の中にも存在している。


二つで一つ。


言葉ではなく、本能がそう告げていた。



その夜。


薫は奇妙な夢を見た。


見渡す限り何もない、星空の中に立っている。


足元にも空があり、無数の星が広がっていた。


正面には、一人の女性が立っている。


顔は見えない。


長い髪が風もないのに揺れ、その手には光と闇を同時に宿す剣が握られていた。


女性の背後には、巨大な黒龍がいる。


紫色の瞳が、まっすぐ薫を見つめていた。


『まだ、早い』


女性が言った。


声は遠く、けれど不思議なほど鮮明だった。


『今はまだ、眠っていなさい』


「あなたは誰?」


薫が尋ねる。


女性は答えない。


代わりに剣を振り上げた。


星空が真二つに裂ける。


裂け目の向こうには、燃え上がる村が見えた。


セレスタだった。


家々が炎に包まれ、黒い鎧の兵士たちが村人を追い立てている。


診療所も燃えている。


千鶴が橋の向こう側から、薫へ手を伸ばしていた。


『薫!』


声が聞こえない。


千鶴の口だけが、自分の名前を叫んでいる。


二人の間で橋が崩れる。


薫は走った。


しかし、どれほど走っても千鶴へ近づけない。


「姉さん!」


黒龍が咆哮した。


世界が闇に包まれる直前、女性が初めて薫を見た。


紫色の瞳。


悲しみと後悔を宿した目だった。


『次こそは、離してはいけない』



薫は跳ね起きた。


身体中が汗で濡れている。


窓の外はまだ暗い。


隣の寝台では、千鶴が穏やかな寝息を立てていた。


薫は寝台を降り、姉のそばへ歩み寄る。


千鶴の手が毛布から出ていた。


薫はその手を取り、確かめるように握った。


温かい。


生きている。


ここにいる。


「……離さないよ」


眠る千鶴へ、小さく呟く。


その時、遠くで犬が吠えた。


一匹だけではない。


村中の犬が、森の方角へ向かって一斉に吠えている。


薫は窓へ近づいた。


夜の森に、いくつもの赤い光が浮かんでいた。


松明。


それも、旅人や狩人の数ではない。


統率された軍勢が、音を殺して村へ近づいている。


薫の三日月の耳飾りが、冷たい光を放った。


隣の寝台で、千鶴が目を開く。


「薫……?」


薫は窓の外から目を離せなかった。


夢の中で見た光景と、同じだった。


「姉さん」


声が震えないよう、強く拳を握る。


「父さんと母さんを起こして」


遠くで、最初の鐘が鳴った。


セレスタ村へ危険を知らせる、けたたましい警鐘。


平穏な日々の終わりを告げる音だった。

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