第13話 ルーベ草原
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「それでは、初依頼ですね」
受付嬢が笑顔で告げる。
「お気を付けて行ってらっしゃいませ」
「ありがとうございます!」
千鶴が元気よく頭を下げた。
薫も渡された地図と採取袋を受け取り、受付を離れようとする。
その時。
「あ、少々お待ちください」
受付嬢が二人を呼び止めた。
机の下から、厚みのある一冊の本を取り出す。
深い緑色の表紙には、何枚もの葉を重ねた紋章が描かれていた。
「初めて採取依頼を受ける方には、こちらもお貸ししています」
受付嬢は本を開き、二人の前へ向ける。
「アルカ周辺に自生する、薬草と毒草をまとめた図鑑です」
開かれた頁には、一株の植物が細かく描かれていた。
細長い葉。
中心から外側へ広がる薄い葉脈。
葉の縁には、小さな白い斑点が並んでいる。
その横には、この世界の文字で説明が書かれていた。
薫には読むことができない。
だが、植物そのものには見覚えがあった。
「ヒールリーフ……」
薫が小さく呟く。
受付嬢が目を瞬かせた。
「ご存じなのですか?」
「名前と、よく似た薬草なら」
薫は頁へ視線を落としたまま答える。
「故郷でも、傷薬や熱冷ましに使われていました」
「用途も同じです」
受付嬢は少し驚いた様子で頷いた。
「ヒールリーフは比較的広い地域に自生しています。遠方にも同じ薬草があるのですね」
「たぶん、完全に同じものではありません」
薫は植物の絵を指先で追う。
「僕が知っているものより、葉が少し細い。それに、この白い斑点もありませんでした」
受付嬢の表情が僅かに明るくなった。
「よく気付きましたね」
彼女は頁の一部を指す。
「アルカ周辺のヒールリーフには、葉の縁に白い斑点が現れます。魔力を多く含んだ土壌で育つためだと言われています」
次の頁を開く。
そこには、先ほどとよく似た植物が描かれていた。
葉の形も大きさも、ほとんど変わらない。
違いは、葉脈の向きと白い斑点の位置だけだった。
「こちらは《灰眠草》です」
「灰眠草?」
千鶴が二つの絵を交互に見る。
「同じに見えるんだけど」
「似ていますが、別の植物です」
受付嬢が説明する。
「少量なら眠気や手足の痺れを引き起こします。大量に摂取すれば、呼吸が弱くなることもあります」
千鶴の顔から笑みが消えた。
もう一度、二つの絵を見比べる。
「……やっぱり同じに見える」
「姉さんは触らない方がよさそうだね」
「まだ何も間違えてないよ!」
「見分けられてもいないけどね」
千鶴が頬を膨らませる。
肩に乗っていたノクスも図鑑を覗き込み、二つの植物を交互に見た。
「キュル?」
ノクスも違いが分からないらしい。
小さく首を傾げている。
「ノクスは私の味方だね」
「二人とも分かってないだけでしょ」
薫が答えると、受付嬢が口元を押さえて笑った。
「今回採取していただくのは、ヒールリーフだけです」
彼女は最初の頁へ戻す。
「葉の縁に白い斑点があり、中心の葉脈が薄い青色をしています。茎を折ると、少し甘い香りがするのも特徴です」
「白い斑点と、青い葉脈」
千鶴が指を折りながら確認する。
「それから、甘い匂い」
「はい。ただし、確認するために茎を折るのは、採取する直前にしてください」
「どうしてですか?」
「一度傷つけると、長くは持ちません。依頼品として納められなくなる場合があります」
「なるほど」
千鶴は真剣に頷いた。
受付嬢は図鑑を閉じ、薫へ差し出す。
「似た植物も多く自生しています。少しでも判断に迷ったら、無理に採取しないでください」
「分かりました」
薫が図鑑を受け取る。
「採取した物は、戻られた際にこちらで最終確認します」
「間違っていたらどうなりますか?」
千鶴が恐る恐る尋ねた。
「数本程度なら、正しい見分け方を改めてお教えします」
受付嬢は優しく微笑む。
「ただし、明らかに確認を怠っていた場合や、毒草を薬草として依頼主へ渡そうとした場合は、評価へ影響します」
「ちゃんと確認します!」
千鶴が背筋を伸ばす。
「よろしくお願いします」
薫も頭を下げた。
受付嬢から地図、採取袋、薬草図鑑を受け取る。
二人は今度こそ受付を離れ、ギルドの出口へ向かった。
ノクスが千鶴の肩で元気よく鳴く。
「キュル!」
「初依頼、頑張ろうね」
千鶴が笑う。
「まずは正しい薬草を見つけるところからだけどね」
薫の言葉に、千鶴の笑顔が少しだけ引きつった。
◇
アルカの東門を抜けると、空気が大きく変わった。
石造りの城壁の外には、見渡す限りの草原が広がっている。
朝露を残した草が風に揺れ、波のように光を反射していた。
遠くには緩やかな丘陵。
そのさらに向こうには、青く霞んだ山々が連なっている。
街から続く街道の両脇には、小さな畑が点在していた。
農夫たちが土を耕し、荷車を引く角のある獣がゆっくりと歩いている。
「広いね」
千鶴が目を細めた。
「森とは全然違う」
「隠れる場所も少ないね」
薫は周囲へ視線を巡らせる。
草原は見通しがいい。
その分、遠くからでもこちらの姿を発見されやすい。
薫の腰には、昨日買った長剣と短剣。
千鶴の背には、新しい大剣がある。
薬草採取が目的とはいえ、城壁の外へ出る以上、何も起きないとは限らない。
「ルーベ草原は、この道を東だよね?」
千鶴が地図を覗き込む。
「うん。街道をしばらく進んで、小さな石橋の手前を北へ」
「読めるの?」
「文字は読めないけど、地図の印は分かる」
薫は紙に描かれた線と、実際の地形を見比べた。
街道。
水路。
丘。
その中に、薬草の葉を模した印が描かれている。
目的地までは、それほど遠くない。
ノクスは千鶴の肩から飛び降りると、草原を嬉しそうに走り始めた。
長い草の間へ姿が隠れる。
少し先から、小さな黒い頭だけが飛び出した。
「キュル!」
「遠くまで行っちゃ駄目だよ!」
「キュルル!」
返事だけはいい。
森にいた頃と比べれば翼の使い方にも慣れてきたらしく、時折地面を蹴って短い距離を飛んでいる。
それでも、千鶴から大きく離れることはなかった。
右へ走っては戻り。
左へ走っては、また戻る。
「楽しそう」
千鶴が笑う。
「街の中では、ずっと肩に乗ってたからね」
「今日はいっぱい走れるね、ノクス!」
声をかけられたノクスが、草の間から勢いよく飛び出す。
そのまま千鶴の胸へ飛び込んだ。
「わっ!」
千鶴は両手で受け止める。
ノクスの身体には、細かな草の種がいくつも付いていた。
「もう、いっぱい付いてるよ」
「キュル?」
「宿に帰ったら取ろうね」
千鶴が一つずつ種を払い落とす。
薫はその姿を眺めながら、歩調を少し緩めた。
穏やかな草原。
柔らかな風。
千鶴の笑い声。
昨日までの命懸けの戦いが、遠い出来事のように感じられる。
やがて、街道の先に小さな石橋が見えてきた。
橋の下には、澄んだ小川が流れている。
薫は地図を確認し、街道を外れた。
「ここから北だ」
三人は丈の低い草を踏みながら、緩やかな丘を上っていく。
丘を越えた先。
淡い緑色に染まった平原が広がっていた。
ところどころに白や黄色の小さな花が咲き、空中には薄い羽を持つ虫が飛んでいる。
風が吹くたび、草の間から甘い香りが漂った。
「ここが、ルーベ草原?」
「地図ではそうみたい」
薫が答える。
千鶴は周囲を見渡した。
どこを見ても草。
草。
さらに草。
「……この中から探すの?」
「薬草採取だからね」
「もっと分かりやすく生えてると思ってた」
「どんなふうに?」
「ここに薬草があります、みたいに」
「立札でも欲しかった?」
「それなら助かる」
薫は小さく息を吐いた。
「立札があったら、依頼にする必要がないよ」
ノクスが二人の間へ降り立ち、鼻先を草へ近づける。
様々な匂いが気になるのか、忙しそうに鼻を動かしていた。
薫は平らな石を見つけ、その上へ地図と図鑑を広げる。
風で頁がめくれないよう、短剣の鞘を端へ置いた。
ヒールリーフの描かれた頁を開く。
細長い葉。
白い斑点。
青い葉脈。
描かれているものは、確かに薫が知っている薬草と似ていた。
けれど、同じではない。
「懐かしいね」
隣から千鶴が図鑑を覗き込む。
「診療所にも、似た薬草があったよね」
「うん」
薫は短く答えた。
薬草の絵を見つめる。
記憶の中に、診療所の風景が浮かんだ。
壁一面に並べられた薬瓶。
天井から吊るされた乾燥中の薬草。
すり鉢の中で薬を混ぜる、宗一郎の大きな手。
黒麦パンの匂い。
食卓へ差し込む夕暮れの光。
そして。
自分の頭を撫でる、細い手。
温かな声。
優しい笑い方。
そこまでは分かる。
けれど、その手の持ち主を見ようとすると。
顔だけが、白い光の向こうへ消えてしまう。
名前も、自分では思い出せなかった。
静。
千鶴に教えられた、母親の名前。
何度繰り返しても、その言葉はまだ自分の記憶と結びつかない。
薫は無意識に図鑑の端を強く握っていた。
「薫」
千鶴の声が、静かに呼ぶ。
薫は顔を上げる。
千鶴は何も尋ねなかった。
ただ、薫の手元を見たあと、少しだけ明るい声で言った。
「お父さん、薬草の扱いには厳しかったよね」
薫は一瞬だけ目を伏せた。
それから、図鑑を握る指の力を緩める。
「姉さんが何度も間違えたからね」
「何度もじゃないよ」
「乾燥させていた薬草を、籠ごとひっくり返した」
「あれは一回だけ」
「種類ごとに分け直すのに、半日かかった」
「薫も手伝ってくれたじゃん」
「姉さん一人に任せたら、もっと時間がかかってたから」
千鶴は不満そうに頬を膨らませた。
「ちゃんと元に戻したでしょ」
「父さんがほとんど直した」
「私も頑張ったよ」
「薬草を色で分けてたね」
「分かりやすいと思って」
「種類で分けないと意味がないよ」
千鶴は反論しようとして、言葉を止めた。
少し考える。
「……今回は薫に任せようかな」
「最初からそのつもりだよ」
二人の間に、小さな笑いが生まれる。
ノクスも会話へ加わるように鳴いた。
「キュル!」
千鶴が立ち上がる。
「よし!」
採取袋を腰へ下げ、大きく腕を伸ばした。
「初依頼、始めよう!」
薫は図鑑を閉じて立ち上がる。
「まずは、見つけてもすぐに抜かないで」
「分かってる」
「白い斑点と青い葉脈を確認する」
「分かってるって」
「茎を折るのは最後」
「ちゃんと聞いてたよ!」
千鶴はそう言いながら、すでに近くの草むらへ歩き始めていた。
数歩進んだところで、勢いよくしゃがみ込む。
「薫!」
「なに?」
「もう見つけたかも!」
薫は図鑑を抱えたまま、千鶴の隣へ向かう。
彼女が指差していたのは、幅の広い丸葉を持つ、赤紫色の草だった。
白い斑点も。
青い葉脈も。
どこにもない。
薫は植物と千鶴を交互に見た。
「全然違うよ」
「まだ始まったばかりだから!」
ルーベ草原に、千鶴の声が明るく響いた。
薫は苦笑しながら図鑑を開いた。
「葉の形が全然違うよ。」
「うぅ……。」
千鶴は肩を落とす。
「やっぱり難しいなぁ。」
「最初から簡単だったら依頼にならないよ。」
薫は周囲へ目を向けた。
草原一面に広がる緑。
どれも似たような草に見える。
一本一本確認しなければ、とても見分けはつかなかった。
「姉さん。」
「見つけたら抜く前に呼んで。」
「僕が確認する。」
「了解!」
千鶴は元気よく返事をすると、少し離れた場所へ歩いていく。
ノクスも楽しそうに後を追った。
「キュル!」
草原を吹き抜ける風が心地よい。
鳥のさえずり。
小川のせせらぎ。
昨日まで命を懸けて戦っていたとは思えないほど、穏やかな時間が流れていた。
「薫!」
「今度こそ!」
千鶴が嬉しそうに手を振る。
薫が近寄る。
指差した植物を見る。
「……違う。」
「えぇー!」
「葉脈が違う。」
「難しすぎるよ!」
薫は思わず笑った。
「慣れれば見分けられるようになるよ。」
「父さんも最初はそこから教えてくれた。」
その言葉に、千鶴も少し笑う。
「そうだったね。」
「私は薬草より、すり鉢を回す方が好きだったな。」
「力任せに潰して、父さんに怒られてた。」
「そんなこともあったね。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
その時だった。
「キュル!」
ノクスが勢いよく草むらへ飛び込んでいく。
「あっ、ノクス!」
千鶴が追い掛ける。
ノクスは一株の植物の前で立ち止まり、前足でちょんちょんと地面を叩いた。
「キュル!」
薫が図鑑を開く。
細長い葉。
葉の縁には白い斑点。
中心には薄い青色の葉脈。
そっと茎を折る。
ふわりと甘い香りが漂った。
「……間違いない。」
「ヒールリーフだ。」
「やったぁ!」
千鶴は思わず両手を上げた。
「ノクスすごい!」
「キュル!」
得意そうに胸を張る。
「偶然かな。」
薫が呟く。
「食べられる草を探してただけかもしれない。」
「違うよ。」
千鶴はノクスを抱き上げた。
「ちゃんと私たちを手伝ってくれたんだよね。」
「キュル!」
返事をするように元気よく鳴く。
それからというもの。
ノクスは草原を駆け回っては立ち止まり、
「キュル!」
と鳴く。
薫が確認する。
本物だった。
また少し歩く。
「キュル!」
また本物。
「すごい……。」
千鶴は感心したように呟く。
「私たちより優秀じゃない?」
「少なくとも姉さんよりは。」
「そこは否定してよ!」
思わず頬を膨らませる。
薫は珍しく声を出して笑った。
その笑顔を見て、千鶴もつられて笑う。
穏やかな笑い声が、静かな草原へ溶けていった。
採取袋の中には、少しずつヒールリーフが増えていく。
薫が本数を確認した。
「あと三本。」
「よーし!」
千鶴は気合を入れ直す。
「ノクス隊長!」
「お願いします!」
「キュル!」
任せろと言わんばかりに胸を張ると、ノクスは再び草原へ飛び出した。
その姿を追いながら、三人は少しずつ草原の奥へ進んでいく。
気付けば、依頼に必要な本数はすべて採取できていた。
採取袋を確認した薫が頷く。
「これで依頼達成。」
「終わったぁー!」
千鶴はその場へ大の字になって寝転がった。
青い空。
流れる雲。
頬を撫でる優しい風。
「こういう依頼も悪くないね。」
「うん。」
薫も空を見上げる。
「派手じゃないけど。」
「誰かの役には立ってる。」
千鶴は小さく微笑んだ。
「戦うだけが冒険者じゃないんだね。」
薫は静かに頷く。
「たぶん、こういう仕事を積み重ねることが、一人前の冒険者になるってことなんだと思う。」
ノクスが二人の間へちょこんと座る。
「キュル。」
千鶴はその小さな頭を優しく撫でた。
「ノクスもお疲れさま。」
「今日は一番の功労者だね。」
ノクスは嬉しそうに目を細める。
しばらく休憩したあと、三人はゆっくり立ち上がった。
遠くにはアルカの城壁が見える。
初めて自分たちの力だけで達成した依頼。
大きな戦いも、劇的な出来事もなかった。
それでも三人の足取りは、ここへ来た時より少しだけ軽くなっていた。
夕日に照らされたルーベ草原を背に、三人は並んでアルカへの帰路についた。




