第8話 女王個体
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闇の中に浮かび上がった二つの瞳は、しばらく四人を見つめたまま動かなかった。
巣穴の奥から、低く濁った唸り声が響く。
先ほどまで戦っていたアクア・ラットの鳴き声とは、明らかに違う。
音が空気を震わせるたび、穴の縁に積もっていた細かな土がぱらぱらと崩れ落ちた。
「……来るぞ」
ロイが槍を構える。
「待って」
薫が静かに制した。
その視線は巣穴ではなく、地面に残された大きな足跡へ向けられている。
通常のアクア・ラットと比べて、幅も深さも倍近い。
依頼書には、これほど巨大な個体が生息しているという記載はなかった。
今回の依頼は、東水路に現れたアクア・ラットの討伐と、巣の所在を確認すること。
巣の中へ踏み込み、群れを根絶することではない。
ましてや、女王個体との戦闘など想定されていない。
「ここで引き返そう」
薫が言った。
ロイが驚いたように振り返る。
「でも、目の前にいるんだぞ」
「だからだよ」
薫は立ち上がり、足跡から巣穴へ視線を移した。
「依頼書に女王個体の記載はなかった。ギルドも、ここにいることを把握していない可能性が高い」
「倒せるかもしれないだろ」
「倒せるかどうかで判断する依頼じゃない」
薫の声は落ち着いていた。
「巣の場所と、通常個体より大型の魔獣がいることは確認できた。これ以上は依頼の範囲を超えてる」
ロイは槍を握ったまま、暗い巣穴を睨む。
その顔には、納得しきれないものが残っていた。
だが、先ほどの戦いを経て、感情だけで前へ出ようとはしなかった。
「……報告して、討伐隊を出してもらうってことか」
「うん」
ミナも小さく頷いた。
「中の広さも、アクア・ラットの数も分かりません。ここで戦うのは危険だと思います」
千鶴は大剣を構えたまま、薫へ視線を向けた。
「帰り道は?」
「来た道を戻る。追ってくるようなら、無理に倒さず距離を取る」
「了解」
千鶴は迷いなく答えた。
少し離れた場所で、バルトは腕を組んだまま四人の判断を聞いていた。
その表情は変わらない。
だが、薫が撤退を決めた瞬間、その目がわずかに細められた。
敵を前にして退く。
経験の浅い者ほど、それを臆病だと考える。
だが、依頼の目的を見失わず、未知の脅威を正しく報告することこそ、冒険者に求められる判断だった。
少なくとも、ここまでの試験に関しては。
四人は巣穴から目を離さないまま、ゆっくりと後退を始めた。
先頭に千鶴。
その後ろにロイとミナ。
薫が最後尾につき、巣穴を警戒する。
誰も背を向けない。
一歩。
また一歩。
闇の中に浮かんでいた瞳が、ふっと消えた。
「……奥へ戻った?」
ミナが小声で尋ねる。
薫は答えなかった。
何かがおかしい。
先ほどまで穴の奥から感じていた気配が、突然消えた。
逃げたわけではない。
むしろ――。
「止まって!」
薫が叫んだ。
直後。
四人の左側に広がっていた斜面が、内側から弾け飛んだ。
土と砕けた石が激しく舞い上がる。
「うわっ!」
ロイが咄嗟に腕で顔を庇う。
地面の下から、巨大な影が飛び出した。
青黒い毛並み。
岩のように盛り上がった背中。
通常個体とは比べものにならないほど太い前脚。
前へ突き出した二本の牙は、人間の腕ほどの長さがある。
全身を覆う水の膜も、薄いものではなかった。
幾重にも重なった水が、巨大な身体の表面を絶えず渦巻いている。
魔獣が地面へ着地した瞬間、辺り一帯が大きく揺れた。
「な……」
ロイの口から、声にならない息が漏れる。
通常のアクア・ラットの倍。
いや、三倍近い。
大型犬どころではない。
四足で立った状態でも、背中は千鶴の胸元近くまで届いている。
「ギィィィィィィッ!」
女王個体の咆哮が響き渡った。
周囲の草木が揺れ、水路の水面に幾重もの波紋が広がる。
千鶴の肩で、ノクスが激しく毛を逆立てた。
「キュルルルル……!」
女王個体は、崩れた斜面と水路の間に立っている。
四人が来た道を塞ぐ位置だった。
薫が素早く周囲を見回した。
右には水路。
左には崩れた斜面。
背後には巣穴。
正面には女王個体。
逃げ道がない。
「回り込まれた……」
ミナの声が震える。
女王個体は巣穴の中から出てきたのではない。
地中に掘られた別の通路を使い、四人の退路へ先回りしたのだ。
「バルトさん!」
ロイが試験官へ振り返る。
バルトはすでに腕を解いていた。
腰へ下げた剣の柄に、右手を添えている。
先ほどまでとは違う。
いつでも抜剣できる姿勢。
その変化を見た瞬間、ロイの表情から血の気が引いた。
バルトも、この魔獣を想定していなかったのだ。
「依頼書には、女王個体の報告はなかった」
バルトの低い声が響く。
その目は巨大な魔獣から一瞬も離れていない。
「これは試験の範囲外だ」
ロイが息を呑んだ。
「じゃあ……」
「俺が引き受ける。お前たちは――」
バルトが剣を抜こうとした、その瞬間。
女王個体が地面を蹴った。
巨体が一気に距離を詰める。
狙われたのは、四人の中で最も前にいた千鶴だった。
「姉さん!」
薫の声より早く、千鶴は大剣を横へ構えた。
女王個体の巨大な前歯が刀身へ食らいつく。
轟音。
千鶴の身体が後方へ押し飛ばされた。
両足が地面を抉り、泥と土を巻き上げる。
「くっ……!」
千鶴は歯を食いしばり、大剣を両手で支えた。
だが、勢いが止まらない。
「千鶴!」
ロイが槍を構えて走り出す。
女王個体の横腹へ、全力で穂先を突き出した。
槍が水膜へ触れる。
その瞬間。
厚い水の層が渦を巻き、穂先を外側へ弾き飛ばした。
「なっ――」
ロイの身体が大きく流れる。
女王個体は千鶴から牙を離し、前脚を振るった。
太い爪がロイへ迫る。
「風よ!」
ミナの杖から風が放たれた。
横から吹きつけた突風が、女王個体の前脚をわずかに押す。
爪の軌道が逸れ、ロイの身体すれすれを通り過ぎた。
「助かった!」
ロイが体勢を立て直す。
だが。
ミナの風によって女王個体の巨体がずれたことで、薫が狙っていた首元も動いていた。
薫の長剣が水膜を切り裂く。
しかし、刃は青黒い毛を浅く掠めただけだった。
女王個体が薫へ向き直る。
「薫!」
千鶴が大剣を振り上げ、魔獣の側頭部へ叩きつけようとする。
その踏み込み先へ、ロイが退路を塞ごうと突き出した槍が伸びた。
千鶴の足が止まる。
このまま踏み込めば、ロイの槍を蹴り飛ばす。
一瞬の躊躇。
女王個体の太い尾が、横薙ぎに振るわれた。
「下がれ!」
バルトの怒声が響く。
千鶴は咄嗟に大剣を盾にした。
尾が刀身へ激突する。
凄まじい衝撃に千鶴の身体が浮き、そのまま数歩後方へ弾き飛ばされた。
薫も巻き込まれ、地面を転がる。
ロイとミナも衝撃波に煽られ、尻もちをついた。
「姉さん!」
「大丈夫……!」
千鶴は大剣を地面へ突き立て、身体を起こした。
腕が痺れている。
借り物の大剣は折れていないが、刀身には浅い歪みが生じていた。
女王個体は低く唸り、再び四人へ向き直る。
ロイが立ち上がろうとする。
「まだやれる!」
「動かないで」
薫が言った。
静かな声だった。
だが、ロイの動きを止めるには十分だった。
「何を言ってるんだ。俺たちも――」
「今は邪魔になる」
言葉が鋭く響いた。
ロイの顔が強張る。
ミナも杖を握ったまま、動きを止めた。
薫は二人を見ていない。
その目は女王個体だけを捉えている。
「さっきの攻撃が外れたのは、ミナの風で位置が変わったからだ」
ミナの肩が震えた。
「千鶴が踏み込めなかったのは、ロイの槍が進路を塞いだから」
ロイは反論できなかった。
すべて事実だった。
二人は助けようとした。
だが、その行動が千鶴と薫の動きを崩し、女王個体に反撃の隙を与えた。
「でも、このまま二人だけで戦わせるなんて……」
ミナが絞り出すように言った。
薫はようやく、二人へ視線を向けた。
「僕たちだけなら、守る相手を考えなくていい」
冷たい言葉ではなかった。
むしろ、二人を生きて帰すための判断だった。
千鶴が大剣を肩へ担ぐ。
「ごめんね」
顔には、いつもの柔らかな笑みが浮かんでいる。
「少しだけ、そこで見てて」
ロイは拳を握りしめた。
悔しさに唇を噛む。
それでも前へは出なかった。
バルトは三人のやり取りを聞きながら、剣の柄を握っていた。
本来なら、すぐにでも介入すべき状況だ。
予想外の女王個体。
仮登録の新人。
依頼の範囲外。
戦わせる理由などない。
だが。
千鶴と薫の表情には、追い詰められた者の焦りがなかった。
むしろ二人だけになった瞬間、それまで纏っていた何かが消えた。
周囲に合わせるための迷い。
味方を気遣うための躊躇。
そのすべてが。
千鶴が一歩前へ出る。
薫は何も言わず、その斜め後ろへ移動した。
二人の間に会話はない。
目配せすらない。
女王個体が千鶴へ向けて咆哮した。
口元へ大量の水が集まっていく。
通常個体が放った《水弾》とは比べものにならない。
人間の胴体ほどもある水の塊が、激しく回転しながら圧縮されていく。
「来るぞ!」
バルトが叫ぶ。
女王個体が巨大な《水弾》を放った。
千鶴は避けなかった。
大剣の腹を正面へ向け、地面へ深く突き立てる。
水弾が刀身へ直撃した。
爆発した水が辺り一帯へ弾け飛ぶ。
千鶴の姿が、白い飛沫の中へ消える。
「千鶴!」
ミナが声を上げた。
次の瞬間。
水飛沫の中から、千鶴が飛び出した。
全身を濡らしながらも、その足は止まっていない。
水弾を真正面から受けたのではない。
大剣の角度をわずかに傾け、衝撃を左右へ流していた。
女王個体が牙を剥く。
千鶴へ噛みつこうと首を伸ばした。
千鶴は大剣を横へ振る。
狙ったのは女王個体の身体ではない。
巨大な牙だった。
鉄と牙がぶつかる。
大剣の軌道に押され、女王個体の頭がわずかに右へ流れた。
その先に、薫がいた。
長剣が下から跳ね上がる。
水膜の薄くなった顎下を刃が走った。
青黒い毛が裂け、初めて鮮血が飛ぶ。
「ギィィッ!」
女王個体が怒りの声を上げ、薫へ前脚を振り下ろす。
薫は後ろへ下がらない。
前へ踏み込んだ。
爪が頭上を通り過ぎる。
薫は女王個体の懐へ潜り込み、短剣を前脚の付け根へ突き立てた。
刃が深く沈む。
女王個体の身体が傾いた。
そこへ千鶴の大剣が迫る。
薫は振り返らない。
だが、大剣がどこを通るのか分かっているように、頭を下げながら横へ抜けた。
直後。
大剣が女王個体の肩口を薙ぎ払う。
分厚い水膜が爆ぜ、巨体が大きくよろめいた。
「なんだ……」
ロイは目の前の光景に、息をすることさえ忘れていた。
速い。
ただ、それだけではない。
千鶴が攻撃すれば、その先には必ず薫がいる。
薫が敵を動かせば、その逃げ道へ千鶴の大剣が振り下ろされる。
二人は互いを確認していない。
声もかけていない。
それなのに、一度も進路が重ならない。
一度も剣筋が交わらない。
どちらかが相手に合わせているのではない。
二人が、最初から同じ戦いを見ている。
女王個体が怒りに任せ、薫へ噛みつこうとした。
千鶴はまだ、魔獣の背後にいる。
間に合わない。
そう思った瞬間。
薫は避けずに、その場で長剣を斜めへ構えた。
女王個体の牙が刃へ触れる。
薫の身体が押し込まれる。
だが、長剣は牙を止めるためのものではなかった。
力の向きを変え、女王個体の頭をわずかに下へ向ける。
その瞬間。
背後から千鶴の大剣が振り上げられた。
大剣の腹が、女王個体の下顎を打ち抜く。
巨体の前脚が地面から浮いた。
首が大きく反り返る。
無防備になった喉元。
薫はすでに動いていた。
千鶴が大剣を振り上げるよりも先に、そこへ隙が生まれることを知っていたかのように。
長剣が一直線に走る。
女王個体の喉元を覆う水膜が裂けた。
深い傷から大量の血が噴き出す。
「ギィァァァァッ!」
女王個体が暴れた。
尾を振り回し、前脚で地面を抉る。
周囲の石が砕け、土が舞い上がる。
千鶴と薫は左右へ分かれた。
巨体の暴走を避けながら、それぞれ反対方向へ走る。
女王個体は迷った。
どちらを追うべきか。
ほんの一瞬。
その判断が遅れた。
千鶴が地面を蹴る。
大剣を引きずるように構え、女王個体の正面へ飛び込んだ。
魔獣が千鶴へ向き直る。
同時に、薫が背後へ回り込む。
女王個体が牙を突き出す。
千鶴は身体を捻った。
牙が脇腹すれすれを通り過ぎる。
千鶴は大剣の柄を両手で握り、すれ違いざまに刀身を女王個体の前脚へ叩き込んだ。
分厚い水膜ごと、骨を砕く鈍い音が響く。
女王個体の前脚が折れ、巨体が前方へ崩れた。
その先に薫がいる。
長剣を両手で握り、低く腰を落としていた。
倒れ込んでくる女王個体の首へ向け、刃を振り抜く。
先ほど斬り裂いた喉の傷へ、正確に。
刃が深く食い込んだ。
女王個体の動きが止まる。
だが、まだ息はある。
巨大な前歯が震え、薫へ向かって僅かに動いた。
「薫!」
千鶴が叫ぶ。
初めて交わされた言葉。
薫は長剣を引き抜き、横へ跳んだ。
同時に。
千鶴が大剣を振り上げる。
女王個体が最後の力で顔を上げた。
その額へ、巨大な鉄塊が振り下ろされた。
轟音が響いた。
地面が沈み、土煙が巻き上がる。
大剣の刀身が、女王個体の頭部を地面へ縫い止めていた。
巨体が一度だけ大きく痙攣する。
やがて。
全身を覆っていた水膜が、力を失ったように崩れ落ちた。
水が地面へ流れ、泥の中へ染み込んでいく。
静寂が訪れた。
千鶴は大剣を引き抜き、大きく息を吐く。
「ふぅ……」
薫は女王個体から距離を取り、長剣を構えたまま様子を見る。
完全に動かなくなったことを確認してから、ようやく刃を下ろした。
「終わったよ」
その声で、止まっていた時間が動き始めた。
ミナは杖を握ったまま、その場に立ち尽くしている。
ロイも槍を下ろすことさえ忘れていた。
二人とも、戦いへ加わることはできなかった。
いや。
加わらなかったのではない。
加わる隙がなかった。
「俺たち……」
ロイが乾いた声を漏らした。
千鶴が振り返る。
「ん?」
「俺たちがいたから、戦いにくかったのか」
千鶴はすぐには答えなかった。
気まずそうに頬を掻く。
薫は長剣についた血を振り払いながら、静かに答えた。
「あの相手には、そうだった」
ロイの顔が歪む。
ミナも俯いた。
否定してほしかったのかもしれない。
だが、薫はごまかさなかった。
「通常個体との戦いでは、二人の力が必要だった。でも、あの女王個体を相手にしながら二人を守る余裕はなかった」
「守られていたのか、俺たちは」
「うん」
薫の言葉に、ロイは拳を強く握りしめた。
千鶴が大剣を背負い直す。
「でも、下がってくれたから私たちは全力で戦えた」
「それは……何もしてないのと同じだろ」
「違うよ」
千鶴は真っ直ぐロイを見た。
「戦いたいのに、動かないでいてくれた。それも必要なことだった」
ロイは何も答えなかった。
納得したわけではない。
それでも、千鶴の言葉を否定することもできなかった。
少し離れた場所で。
バルトは剣の柄に手を置いたまま、動けずにいた。
女王個体が倒れたことではない。
確かに、仮登録の新人が討伐できる相手ではなかった。
二人の剣技も、身体能力も、常識から外れている。
だが、それ以上に。
バルトの目を奪ったのは、二人の連携だった。
合図はなかった。
指示もなかった。
互いの姿が見えない場面さえあった。
それでも二人は、一度として動きを違えなかった。
千鶴が作った隙へ薫が入り。
薫が導いた先へ千鶴の大剣が落ちる。
連携が巧みなのではない。
阿吽の呼吸という言葉でも足りない。
まるで。
二人で一つの意思を持っている。
バルトは数多くの冒険者を見てきた。
長年組んだ仲間も。
命を預け合う夫婦も。
幼い頃から共に戦ってきた兄弟も。
だが、これほどの連携は見たことがない。
しかも二人が使っていたのは、ギルドから貸し出された武器だ。
自分の得物ですらない。
バルトは倒れた女王個体を見た。
次に、歪んだ大剣と血に濡れた長剣。
そして、その前に立つ双子へ視線を移す。
千鶴と薫は、何事もなかったかのように互いの怪我を確認していた。
「薫、腕は?」
「少し痺れてるだけ。姉さんこそ、脇腹は?」
「当たってないよ。服が破れただけ」
「本当に?」
「本当だって」
その姿は、先ほど女王個体を圧倒した者たちと同一人物には見えない。
バルトの口から、無意識に言葉が漏れた。
「……お前たち」
千鶴と薫が同時に振り返る。
その動きまで、ぴたりと重なった。
バルトはわずかに目を見開く。
そして、低い声で問いかけた。
「何者だ」




