第9話「五センチ」
八月十五日、午前零時五十三分。
デッドラインまで、三十七分。
モバイルバッテリー一本目のインジケータが消えた。最後の一目盛りが灰色に変わり、給電が途絶えた。メインスマホの画面右上で充電マークが消える。バッテリー残量、三十二パーセント。配信アプリと常時点灯のリングライトを同時に駆動すれば、一パーセントは二分で溶ける。六十四分。デッドラインまでは持つが、その先がない。
二本目のモバイルバッテリーをポケットから引き抜いた。一本目のケーブルを外す。端子が抜けた瞬間、スマホの画面が一段暗くなった。省電力モードの予兆だ。暗くなる前に二本目を繋がなければ、画質が落ちる。画質が落ちれば「画質クソ」で離脱する奴がいる。今、一人でも失うわけにはいかない。
二本目のケーブルの端子を、スマホの充電口に差し込んだ。指が震えていて、一度目は外した。金属の端子がスマホの筐体を擦る硬い音がした。舌の上に錆びた鉄の味がする。緊張で唾液の組成が変わっている。二度目。端子が充電口に嵌まり、充電マークが画面に戻った。省電力モードは起動しなかった。三秒。給電が途切れた時間は三秒だ。
同接、四万七千九百。
さっき四万九千八百まで迫った数字から、千九百人減っている。多言語SOSの投稿からまだ十分程度しか経っていない。海外の深夜帯に入る地域もある。効果が出るまでのラグか、それとも呪いの恐怖報告で離脱が止まらないのか。
コメント欄に目を走らせた。
『ダイゴまだ生きてる?』『顔どうなった?』『右頬やばくない?』
「生きてる。顔は……二ミリ浮いたまま。安定はしてる」
右頬に指を添えた。皮膚と筋肉の間に隙間がある。二ミリ。指の腹で触れるとわずかに皮膚がたわむ。剥がれかけたシールの端を押し戻しているような手触り。押さえれば肉に密着するが、指を離すとまた二ミリ浮く。接着力が戻っていない。千六百人が一度に離脱したとき、複数本まとめて千切れた結合組織は、再生していない。
「やることを整理する」
声に出した。段取りを言語化する癖。四年で染みついた配信者の習性が、今は生存本能と直結している。
「一、同接を維持する。今の四万八千を割ったら頬がさらに剥がれる。二、三十七分後のデッドライン、午前一時三十分十三秒を生き延びる。三、そのために数字を伸ばす。五万を超えれば安全域に入る可能性がある」
同接、四万八千五百。六百人増えた。海外のコメントが混じり始めている。
『came from twitter whats happening(Twitterから来たんだけど、何が起きてるの?)』『这是什么?日本的恐怖直播?(これは何?日本のホラー配信?)』『이게 실제상황이야?(これって現実?)』
四ヶ国語のSOSが届き始めている。だが増え方が遅い。三十七分で五万に乗せるだけでも綱渡りだ。十万人など、別の惑星の話だ。
離脱を止めなければ話にならない。入ってくる人数と出ていく人数が拮抗して、数字が天井に張りつく。四万九千八百で止まったあの頭打ちが、まだ続いている。ならば、離脱率を下げるしかない。怖くて逃げる奴を、怖くても逃げないように変える。
「聞いてくれ」
カメラに向き直った。沼田のミイラが背後でスタンドランプに照らされている。灰色の目が俺の後頭部を見ている気配がある。構わない。今は四万八千人に向かって喋る。
「俺が死ぬ条件はもうわかってる。同接数で呪いの殺傷力が割られる。多いほど薄まる。少ないほど濃くなる。今、四万八千人だ。仮に呪いの致死量を百パーセントとする。四万八千で割ったら、一人あたり〇・〇〇二パーセントだ。致死量の五万分の一。水道水に目薬を一滴垂らしたほうがまだ濃い」
コメントが一瞬止まった。
「お前らの部屋でホルマリンの匂いがするって報告があった。水滴の音がするって。それは呪いの〇・〇〇二パーセントだ。匂いと音。それだけで済んでるのは、四万八千人で割ってるからだ。不快だろうが、致死量には程遠い」
言い切った。嘘ではない。根拠はカルテの数字とここまでの体感だ。四万八千人のとき、俺の頬は二ミリしか浮かなかった。五万人なら一ミリ以下になるかもしれない。百万人なら体感すらないかもしれない。
「逆に、お前らが一斉に離脱したらどうなるか。四万八千が一万に減ったら、一人あたり〇・〇一パーセントだ。五倍。匂いだけじゃ済まない。部屋に何かが入ってくる。それでも致死量には届かない。だが、不快の度合いが五倍になる」
コメント欄が動き出した。
『計算合ってるのかこれ』『理系かよ』『つまり見続けたほうが楽ってこと?』『0.002%なら我慢できる』『ホルマリンくせえけどまあ……我慢するか』
四万八千九百。百人増えた。
離脱率が下がっている。「怖い」を「計算式」で上書きした。感情ではなく数値で語れば、恐怖は情報に変わる。情報に対して人間は逃げない。分析する。分析している間は画面を閉じない。
「もう一つ。見てる人数が増えると、俺の頬の剥がれが戻る。皮膚が肉に再接着する。減ると剥がれる。増えると戻る。お前らが増えれば増えるほど、俺の顔は安全になるし、一人あたりの負荷も下がる。全員が得をする」
四万九千二百。さらに三百人。計算式の効果だ。怖いもの見たさで入ってきた野次馬が、数字の論理に引き留められている。
同接が増えるたびに、右頬の二ミリがわずかに縮む感覚がある。一・八ミリ。一・五ミリ。皮膚の裏側で、千切れた結合組織の断端が新しい接合点を探るように蠕動している。生きている組織だ。自分の頬が自力で修復しようとしている。だが完全には塞がらない。もう一ミリ。あと一ミリが戻らない。
沼田のミイラが椅子の上で微かに動いた。振り返る余裕はない。だが窓ガラスの表面に、背後のスタンドランプの光と沼田のシルエットが反射している。ミイラの頭が五度ほど右に傾いでいた。さっきまで正面を向いていた。俺が振り返れない隙に、首が動いた。こいつもまた「見ていない場所で動く」のルールに従っている。ミイラでありながら。顔だけが生きているこの死体は、実験の器官として稼働し続けている。
五万百。
五万を超えた。
画面の数字が五桁のまま、先頭が5に変わった瞬間、右頬の隙間が一ミリを切った。指で触れると、皮膚と筋肉の間にあった空隙がほぼ消えている。ほぼ。完全にゼロではない。〇・五ミリ。紙一枚分の隙間が、頬骨の下端から顎の手前にかけて残っている。結合組織が全部は戻らなかった。四本同時に千切れた断端の一本だけが、再接着を拒んでいる。
「五万超えた。頬、ほぼ戻った」
コメントが弾ける。
『いけるぞ!』『拡散もっとやれ!』『five hundred thousand needed right?』
英語の数字が間違っている。十万が fifty thousand ではなく five hundred thousand と書かれている。翻訳の精度が低い。だが人は来ている。アジアの昼下がり、ヨーロッパの夕方、南米の朝。日本の深夜が世界の昼間を吸い上げている。
五万千三百。五万八百。五万千六百。増減を繰り返しながら、五万のラインを基準に上下している。離脱均衡点が四万九千八百から五万千前後に引き上がった。海外からの流入が天井を押し上げた。だが構造は同じだ。入りと出が釣り合って、数字は横ばいに近い。
午前一時〇七分。デッドラインまで、二十三分。
五万二千四百。海外の流入が安定し始めている。韓国語のコメントが突出して多い。深夜一時の日本と朝の韓国。時差一時間。起床時間のユーザーが引っかかっている。
「デッドラインまであと二十三分。午前一時三十分十三秒。さっき地下の標本室で見た金属プレートに刻まれていた数字だ。この時刻に、俺の顔は瓶に収められる。リョウキは午前二時四十七分に死んだが、それは収納の後の話だ。先に顔を失い、それから死ぬ。順番がある。だから一時三十分が本当の期限だ」
言語化することで恐怖を段取りに変換する。何度目だ。もう数えていない。
午前一時十五分。
五万三千百。
沼田のオフィスの壁際に座り、スマホを膝の上に載せた。リングライトの光が天井を照らし、部屋全体がぼんやりと白く浮かんでいる。沼田のミイラは椅子の上で動かない。口角が上がったまま。灰色の目が薄く開いたまま。スタンドランプの暖色の光が、ミイラの顔半分を影に落としている。笑っている半分だけが照らされている。
足元の床に、振動があった。
地震ではない。床のコンクリートを通して、建物の奥底から伝わってくる律動だ。一秒に一回。規則正しい。心臓の鼓動に似ている。この病院の地下のどこかで、何かが脈打っている。
それと同時に、匂いが変わった。
沼田のオフィスに入ったとき、ここは「古い革と紙とインク」の匂いだった。殺意のない匂い。それが今、壁の隙間から別の成分が滲み出してきている。ホルマリンではない。もっと生臭い。鉄と蛋白質が分解されるときの、甘く湿った匂い。標本室で嗅いだ腐敗の匂いとも違う。もっと新しい。今まさに剥がされている生きた組織の匂いだ。誰かの。いや、俺自身の。
右頬の〇・五ミリの隙間から、生温い空気が皮膚の裏側に入り込んでいる。外気が傷口に触れたときの、あのじわりとした熱さ。皮膚は呼吸している。紙一枚分の隙間でも、空気は入る。入った空気が筋肉の表面を酸化させ、その化学反応の副産物が甘い匂いとして鼻に届いている。
自分の顔の裏側の匂いを、自分の鼻で嗅いでいる。
胃の底がきゅっと縮んだ。嘔吐の予兆。空のコンビニおにぎりの包装以来何も食べていない胃は、吐くものがない。代わりに胃酸だけが食道を這い上がり、喉の奥でUターンして沈んでいった。口の中に酸味が広がり、それがさっきから舌の上にこびりついている薬品の味と混ざった。
午前一時二十分。デッドラインまで、十分。
五万三千七百。数字は微増しているが、十万には遠い。五倍。ここから五倍。沼田のメモに書かれていた臨界は十万人以上を「持続」すること。持続時間すら不明。今の五万三千人では、せいぜい致死量の半分を相殺できるかどうか。半分が相殺された呪いが午前一時三十分十三秒に実行されたとき、何が起きる。
死なない。たぶん。四万八千人のときに頬が二ミリ浮いただけだった。五万三千人なら、もう少し耐えられるはずだ。だが二ミリが限界だったのは、あのときは通常状態の剥離圧だった。午前一時三十分は通常ではない。プレートに刻まれた実行時刻だ。システムが本気で顔を回収しにくる。
そのとき、通常の何倍の力がかかる?
「五万三千人。十分後に何が起きるかわからない。だが確実に言えることがある。人数が多ければ多いほど、俺が受けるダメージは減る。お前らが見ていてくれ。十分間だけでいい」
コメントが流れる。
『見てる』『見てるぞ』『Just ten more minutes, right?』『Don’t stop streaming』
英語のコメントが目立ち始めた。日本は午前一時過ぎでも、北米西海岸では朝だ。通勤中の誰かが、スマホを開いて、トレンドに上がった日本の廃病院配信を覗いている。言語の壁を超えて、画面越しに俺の右頬を見つめている。
午前一時二十五分。
五万四千二百。
床の振動が速くなった。一秒に一回だったリズムが、一秒に二回になっている。心拍が上がっている。建物の心拍が。
壁が軋んだ。
木目のパネルが嵌め込まれた壁の、パネルとパネルの隙間から、白い粉が落ちた。石膏。壁の裏側のモルタルが崩れている。部屋が縮んでいる。
一階の廊下が短くなっていたときと同じだ。病院の空間変容が、このオフィスにまで及び始めた。左右の壁が三センチずつ内側に迫っている。六畳の部屋が五畳半になった。
沼田のミイラの椅子が壁際に押されていた。さっきより五センチほど俺に近い。机と椅子の間の空間が圧縮されている。ミイラの革のような膝が、俺の右肩から四十センチの距離にある。
匂いが濃くなった。ここまでは「古い革と紙」が支配的だった沼田のオフィスの空気に、床下から昇ってくる生臭さが混入している。部屋が縮むことで、壁の隙間から地下の空気が押し出されてきている。ホルマリンと腐敗と、生きた組織の甘さ。三つの匂いが層を成して、薄い空気の中に重なっている。
午前一時二十八分。
デッドラインまで、二分。
五万四千九百。
何かが来る。頬でわかる。〇・五ミリの隙間から、冷たい空気が流れ込んでいる。八月なのに冷たい。地下の手術室の温度。九段目で吐く息が白くなったあの温度が、顔の裏側を這っている。皮膚が内側から冷やされている。右頬の表面に指で触れた。温かい。指先の体温が頬の表面に伝わる。だが皮膚の裏側は冷たい。表が温かくて裏が冷たい。温度差が境界面を形成している。生きている組織と、死んだ空気が、顔の皮膚一枚を挟んで接している。
午前一時二十九分。
床の振動が止まった。
沈黙が、降りた。蛙の声も虫の声も聞こえない建物の中で、リングライトのモーター音と自分の呼吸と心臓の音だけで構成されていた世界から、モーター音と心臓の音が消えた。リングライトは点いている。心臓も動いている。だが音が消えた。鼓膜が機能しなくなったのではない。鼓膜は正常だ。空気が音を伝えなくなった。この部屋の空気が、音を通す媒質であることをやめた。
唇を動かして自分の名前を呼んだ。真田大悟。声帯が振動する感覚はある。喉仏が動く筋肉の収縮を内側から感じている。だが音になっていない。声が、空気に拒否されている。
コメント欄を見た。
『音が消えた』『無音になった』『ダイゴの口動いてるけど何も聞こえない』
視聴者にも聞こえていない。配信の音声が死んだ。画像だけが流れている。
五万五千百。
無音になったことで逆に増えた。異常な事態が好奇心を呼んでいる。
午前一時三十分。
スマホの時計の秒表示が、13に向かって進んでいく。〇秒。一秒。二秒。
〇・五ミリの隙間が、震えた。
皮膚の裏側で、結合組織の断端が一斉に動いた。修復しようとしていたのではなかった。あれは準備だった。再接着ではなく、最後の固定を解除するための予備動作だった。繊維の一本一本が、肉から皮膚への最後の綱を手放す準備を、十分前から進めていた。
五秒。六秒。七秒。
顎の下端から、何かが這い上がってきた。
触覚だった。指ではない。何かが物理的に顔に触れているのではない。顔の裏側から、皮膚そのものの内部を、根っこが伸びるように何かが侵入してきている。温度を持っている。三十六・五度。俺の平熱と同じ温度。自分の体温と寸分違わぬ熱が、頬の筋肉と皮膚の間を這っている。
右手首の内側で脈が打っている。一分間に百十二回。恐怖で加速した心拍。その脈拍と完全に同期したリズムで、頬の裏側の何かが脈打った。自分の鼓動が、自分を殺す道具の拍動と一致している。区別がつかない。自分の心臓が打っているのか、顔を奪おうとしているものが打っているのか。
十秒。十一秒。十二秒。
十三秒。
右頬が、裂けた。
音はなかった。音のない世界で、顔の皮膚が筋肉から剥離した。〇・五ミリだった隙間が、一瞬で五センチに開いた。額の生え際のすぐ下、右の眉骨の横から始まって、右頬を縦断し、顎の手前まで。五センチ幅の皮膚が筋肉から浮き上がった。結合組織が束になって千切れた。十本。二十本。数えられない。歯医者の麻酔が半分だけ効いている状態で、奥歯を三本同時に抜かれたような鈍い遠い痛みが、頬骨の内側で爆発した。
五万人で割られた痛みだ。五万分の一の激痛が、それでも膝を崩壊させた。床にへたり込んだ。額が床に触れそうになるのを腕で支えた。右頬から液体が垂れた。透明と赤が混じった粘度の高い液体が、顎を伝って床に落ちた。ぽた、と落ちたはずの音は聞こえない。音のない世界で、自分の体液が床に模様を作っていく。
五センチ。顎の手前から眉骨の横まで。右頬の皮膚が、ハンカチの端をめくるように持ち上がっている。皮膚の裏側が外気に晒されている。白い結合組織の断端が、ぶよぶよとした脂肪層の上で糸を引いていた。空気に触れた脂肪の表面が体温で微かに光っている。その下に、ピンク色の表情筋が見えた。頬骨筋。口角を引き上げるための筋肉の繊維が、リングライトの白い光の下で濡れている。
痛みが波のように引いた。引いたのではない。五万人が吸収したのだ。五万人の頬に、〇・〇〇一センチずつ、痛みの断片が配られた。俺に残ったのは全体の〇・〇〇二パーセント。膝が崩れる程度の衝撃。死なない程度の損傷。
同接、五万七千二百。
跳ねていた。午前一時三十分十三秒の映像が、すべての視聴者の画面に映った。顔が裂ける瞬間を五万人が見ていた。見ていた人間がSNSに投稿し、投稿を見た人間が配信に飛んでくる。恐怖がコンテンツに変換され、コンテンツが人を集め、人が集まることで恐怖が薄まる。
自分の顔が五センチ剥がれた映像で、同接が二千人増えた。
笑えなかった。笑おうとしたら、右頬の表情筋が露出しているせいで、筋肉が空気の中で直接収縮する感触があった。唇は動くが頬が追従しない。顔の右半分の表情が死んでいる。皮膚がないから、筋肉の動きが皮膚を通さずに直接見える。カメラの向こうの五万七千人が、俺の顔の筋肉の一本一本を肉眼で見ている。
コメント欄は読めなかった。流れが速すぎる。だが画面の端に、同接の数字だけが見えた。
五万八千百。まだ増えている。
そして、音が戻った。
唐突に。鼓膜が空気を拾い始めた。リングライトのモーター音。自分の荒い呼吸。心臓の拍動。全部が一度に耳に流れ込んできた。配信の音声も復帰している。
「……生きてる」
最初に出た声は、掠れた、生存確認みたいな一言だった。
「生きてます」
五万八千七百。まだ伸びている。
右手で右頬に触れた。皮膚がめくれている。五センチ幅の皮膚弁が、筋肉の上で浮いている。だが、それ以上は剥がれていない。額も、鼻も、左頬も、顎の先端も、全部ある。五センチだけだ。五万人の視線が、顔面全体の剥離を五センチに抑え込んだ。
そして俺は、気づいた。
顔のない俺が、来なかった。
午前一時三十分十三秒。標本室のプレートに刻まれた時刻。顔が瓶に「収められる」はずの時刻。システムは実行した。顔を五センチ剥がした。だが、収めきれなかった。五万人の観察圧が、システムの回収力を上回った。上回ったから、五センチで止まった。完全な回収は失敗した。
沼田の論文の図が頭に浮かんだ。「100,000↑で致死量の無効化」。十万人でゼロにできる。ならば五万人は半分だ。致死量の半分の力が午前一時三十分十三秒に実行され、俺の顔の半分近くが標的になり、そのうち五センチが剥がれた。死には至らない。だが完全に元にも戻らない。
これが膠着だ。
五万人では、殺せないが、救えもしない。
コメント欄が凝集していた。罵倒も賞賛も消えて、ただ一つの感情だけが画面を覆っている。衝撃。人間の顔が五センチ裂ける映像をリアルタイムで見た五万八千人の、言語化できない衝撃。
五万九千四百。六万に迫っている。
だが、デッドラインが更新された。
午前一時三十分十三秒は過ぎた。俺は死ななかった。では次のデッドラインはいつだ。あのプレートに刻まれた時刻は一つしかなかった。次の時刻はない。だが顔は五センチ剥がれたまま、元に戻らない。同接が増えても、二ミリのときのように縮まない。五センチが固定されている。
固定。
この五センチは、もう俺のものではない。結合組織が全部千切れた五センチの皮膚弁は、筋肉に再接着する力を失っている。めくれたまま、頬の表面にぶら下がっている。風が吹けばひらひらと揺れるだろう。触れれば体温がある。だが繋がっていない。
沼田のスマホの画面を見た。メモアプリが開いたままだ。今夜のメモ。文字化けした後半部分。「シュンカンデハフソ■■■■■■■■■■■」。瞬間では不十分。十万人に瞬間的に達するだけでは不完全。だから「持続」が必要。
持続。五万人で膠着した今、俺は持続の意味を体で理解した。十万人に達したとしても、一瞬で落ちればまた剥がれる。十万人を「一定時間」維持し続けなければ、系は閉じない。
つまり、配信を止められない。
この五センチが治る条件は、十万人以上を未確定の時間維持し続けること。配信を止めた瞬間、同接はゼロになり、俺の顔は全部剥がれて、標本室の棚の空いた場所に収められる。
終わりがない。
午前一時三十分のデッドラインは通過した。だが代わりに、終わりのないデッドラインが始まった。配信を止められない。眠れない。スマホを落とせない。バッテリーを切らせない。十万人を集めて、何分かわからない時間維持し続けるまで、俺はこのカメラの前から一歩も退けない。
「……なあ」
五万九千四百人に向かって、俺は声を絞り出した。右頬の筋肉がそのまま空気の中で動く感触が、喋るたびに走る。唇は動く。声は出る。だが頬が風に触れている。頬を覆っていた皮膚がめくれて、その下の湿った肉が呼吸のたびに乾いていく。乾燥が始まれば筋肉の表面が壊死する。壊死すれば、皮膚を戻しても定着しない。時間制限は外からだけではない。俺の身体そのものが、この状態に耐えられる時間に限界がある。
「助けてください」
四年間、一度も言ったことのない言葉だった。
配信者は頼む側じゃない。見せる側だ。「見てくれ」「拡散してくれ」は四年で百回以上言った。だが「助けてください」は言ったことがない。助けを求めるのは配信者の仮面では恥ずかしくて、底辺のプライドが邪魔をしていた。
今、そのプライドごと顔が剥がれた。
「顔が五センチ剥がれました。死にませんでした。でも治ってません。五万人で、ここで止まっただけです。十万人集めて、何分かわからない時間見続けてもらわないと、次に同接が落ちた瞬間、また剥がれます。配信が切れたら、たぶん顔ごと持っていかれます。今六万人弱です。あと四万人以上必要です。俺一人じゃ集められません」
声が震えた。配信者の声でも、分析者の声でも、底辺のヘラヘラした声でもなかった。二十七歳の、顔が裂けた男の声だった。
「助けてください」
同接が動いた。
コメント欄に、新しい言語が増えていた。タイ語。ベトナム語。アラビア語。文字の形すら読めない言語のコメントが、日本語と英語と韓国語と中国語の間に混じり始めていた。
五万九千四百。
あと四万六百人。
沼田のミイラの灰色の目が、完全に見開かれていた。瞼が限界まで開いている。瑞々しい眼球の表面に、スマホの画面の光が反射していた。同接の数字が、沼田の目の角膜に小さく映り込んでいる。
こいつの目が、俺の同接数を読んでいる。




