第10話「搬入口」
八月十五日、午前三時三十二分。
配信開始から、五時間二十分。
リングライトが死んだ。
前兆はあった。十分前からLEDの光量が落ち始め、白色光がオレンジに転び、最後は蝋燭のように細く揺れてから消えた。バッテリー内蔵式のリングライトは一晩持つ設計のはずだったが、最大光量で五時間も連続運転すれば限界が来る。当然だ。配信機材に三千円しか出さなかった二十七歳の判断が、今になって首を絞めている。
沼田のオフィスの蛍光灯が、残された唯一の光源になった。天井に埋め込まれた四十ワットの直管蛍光灯。二十五年以上前の安定器が劣化して、三秒から五秒おきにちらつく。ちらつくたびに部屋が〇・二秒ほど闇に落ち、蛍光管が再点灯するまでの暗転の中で、すべてが静止画になる。
配信画面の画質が目に見えて落ちた。リングライトの均一な白色光がなくなり、蛍光灯の青白い光が上から降りてくるだけになった。俺の顔に影が落ちている。頬骨の下、鼻の脇、顎の裏。陰影が深くなって、右頬の五センチの剥離部位がさらにはっきり見えるようになった。露出した筋肉の表面が、蛍光灯のちらつきに合わせて明滅している。
同接、四万四千八百。
一時三十分のピーク、五万九千四百から一万四千六百人減った。二時間で二十五パーセントの離脱。深夜三時半の日本時間帯では当然の数字だ。驚くことではない。驚くことではないが、一万四千六百人分の視線が失われたことで、右頬の皮膚弁の端が〇・三ミリほど広がった気がする。気がするだけかもしれない。五センチの剥離は不可逆だと、午前一時三十分の剥離で思い知らされた。結合組織が全断裂した部位は、同接がいくら増えても戻らない。だが減れば、断裂していない周辺部位にまで剥離が広がる可能性がある。
口の中が乾いている。
舌が上顎に貼りついた。唾液が出ない。最後に水分を摂ったのは、配信前の車の中だ。コンビニで買った五百ミリの水のペットボトルを半分飲んで、残りを助手席のドリンクホルダーに置いた。あれから七時間以上。コンビニおにぎりを一個食べたきり、固形物も入れていない。胃は空だ。空の胃が胃酸を分泌し、食道を焼いている。喉の奥に酸味が常駐している。
舌を動かそうとすると、粘膜同士が剥がれる音がした。ぐちゅ、と湿った不快な音。口腔内の水分が底をつきかけている。脱水の初期症状だ。頭痛はまだない。だが頭の中が遅い。思考が粘る。三秒前に考えたことを思い出すのに、〇・五秒余計にかかる。
右頬の五センチの傷口から、じわりと滲み出る体液がある。漿液。透明から薄い黄色の液体が、筋肉の表面を伝って顎のラインを流れ、パーカーの襟元に吸い込まれている。体が水分を失っているのに、傷口は液体を垂れ流し続けている。出口のない循環だ。飲めない水が顔から出ていく。
歯を食いしばった。意識してやったのではない。一時三十分の剥離から二時間、ずっと奥歯を噛み締めていた。顎関節の両側、耳の手前にある咬筋が痙攣している。痙攣が小さな拍動になって側頭部に響いている。右頬の傷の鈍痛より、顎の筋肉痛のほうが今は強い。痛みの種類が違う。傷口は五万人に割られた遠い痛みだが、顎の痛みは俺だけのものだ。誰にも分散されない、純粋な筋肉の疲労。
スマホの画面を見た。自撮りモードのプレビューに、自分の顔が映っている。
見覚えがなかった。
目の下に黒い隈が沈んでいる。寝不足の隈ではない。毛細血管が破れて皮下出血したような、紫がかった黒。唇がひび割れている。唇の表面に白い薄皮ができて、その皮が乾燥で反り返り、裂け目から赤い肉が覗いている。そして右頬。五センチ四方の生肉。蛍光灯の青白い光の下で、ピンク色の筋繊維が湿って光っている。筋肉の表面に薄い膜が張り始めていた。乾燥だ。露出した組織が外気に触れ続けた結果、表面のタンパク質が変性し始めている。変性した層の下に、まだ生きている筋肉がある。だがこの膜が厚くなれば、皮膚を戻しても定着しない。
自分の顔を画面越しに見ている。四万四千人も同じ顔を見ている。俺が見覚えのない顔を、四万四千人が見ている。
コメント欄が、遅い。
ピーク時には一秒に三十件以上流れていたコメントが、今は三秒に一件のペースに落ちている。深夜三時半。日本の視聴者は眠い。北米西海岸は午前十一時半で、通勤時間帯だったユーザーは出社してスマホを閉じた。ヨーロッパは夕方の終わりで、アジアの夜を追いかけていた物好きも食事に行った。
『ダイゴ大丈夫か』『顔乾いてきてない?』『画質落ちた?』
「リングライトのバッテリーが切れた。蛍光灯だけで配信してる」
声が掠れた。喉が乾いて声帯が振動するたびに引っかかる。この声があと何時間持つかわからない。
コメント欄に、一つだけ目を引く書き込みがあった。
『顔の筋肉の色変わってない? さっきよりピンク薄くなってる気がする』
看護系のアカウント名だった。アイコンは犬の写真。コメントの内容は正しい。露出した頬骨筋の表面は、二時間前より色が薄い。ピンクから肌色に近い何かに変わりつつある。表面の乾燥壊死が進んでいる証拠だ。筋肉が生きている間はピンク色を保つ。血流があるからだ。乾燥が進めば血流が途絶え、色が褪せる。
「わかってる。乾燥してる。止める方法がない」
ガーゼがあれば、生理食塩水で湿らせて筋肉の表面を覆うことができる。看護学の基礎知識だ。だが俺はガーゼを持っていない。消毒液も持っていない。水すら持っていない。右頬の筋肉が外気に晒されたまま、少しずつ死んでいくのを待つしかない。
スマホの画面右上。バッテリー残量、十五パーセント。赤い数字。二十パーセントを切ったときに画面が赤に変わる警告表示。モバイルバッテリー二本目が繋がっているが、二本目も容量が半分を割ったらしく、給電速度が消費速度に追いつかなくなっている。バッテリーが消費を上回れなければ、残量は時間の問題で減っていく。十五パーセント。一パーセント二分。三十分。
三十分後にスマホが死ぬ。
スマホが死ねば配信が途切れ、同接がゼロになり、俺の顔は全部剥がれる。
これが今の一番近いデッドラインだ。午前一時三十分十三秒は通過した。配信BANはまだ来ていない。だがバッテリーは確実に減っている。呪いではない。物理法則だ。リチウムイオン電池の放電曲線という、どうしようもなく現実的な死因。
四万三千九百。
九百人減った。画質低下と配信の単調さで離脱が続いている。俺は沼田のオフィスの壁際に座ったまま動けない。動くと頬の皮膚弁が揺れて痛みが走る。カメラの前で座っているだけの男を見続ける理由が、四万四千人のうち九百人にはなかった。
蛍光灯がちらついた。
〇・二秒の暗転。その暗転の前後で、視界の端に何かが動いた。
沼田のオフィスのドア。この部屋に入ったとき、内側から閉めた木製のドア。その向こう側の廊下に、グレーのパーカーが見えた。蛍光灯が再点灯した瞬間には、ドアの隙間から見える廊下には何もなかった。
三秒後。蛍光灯がまたちらついた。暗転。再点灯。
グレーのパーカーが、三センチほど左にずれていた。
顔のない俺だ。
午前一時三十分十三秒に現れなかった、顔のない俺。あのとき観察室にいたはずのそれが、沼田のオフィスの前の廊下まで来ている。四万四千人の同接では、停止が不完全になっている。五万人のときは動かなかった。だが四万四千人では、蛍光灯のちらつきの暗転の一瞬で三センチ動ける。
三センチ。蛍光灯がちらつくたびに三センチ。ドアの隙間から見えるグレーのパーカーの位置が、少しずつ左に——ドアに向かって——ずれている。
ドアを閉めている。鍵はない。押せば開く。
蛍光灯が三秒から五秒おきにちらつく。一分間に十二回から二十回の暗転。一回の暗転で三センチ動くなら、一分で三十六センチから六十センチ。廊下の幅が一・八メートル。ドアまであと何回のちらつきで届く?
「廊下に来てる」
声を絞った。
『何が?』『え????』『偽ダイゴ!?』
「蛍光灯が消える瞬間に動いてる。三センチずつ。四万四千人じゃ止められてない」
コメント欄が加速した。離脱が鈍化する。恐怖はコンテンツだ。恐怖がコンテンツになるループが、また回り始めた。
四万四千六百。七百人増えた。
だがそれでは足りない。五万でも止まらなかった。蛍光灯のちらつきの〇・二秒は、四万四千の視線が途切れる瞬間ではない。視線は途切れていない。配信は続いている。画面は映っている。だが暗転の一瞬、カメラが廊下を映していない。映せていない。蛍光灯が消えれば、暗闇の中の廊下はカメラの向こう側になる。見えない。見えないから動ける。
観察は光に依存する。
ルールは守られている。見ていない場所で動く。見えなくなった場所で動く。光がなくなった瞬間、その空間は「見ていない場所」に転落する。
「蛍光灯が消えるたびに近づいてくる。このドアに。鍵はない。あいつがドアに触れたら終わりだ」
声が乾いた音を立てた。喉の粘膜が張りついて剥がれる音だ。
『逃げろ!』『窓から出られないの?』『蛍光灯壊すな!!消すな!!』
逃げる場所がない。このオフィスには出入口が一つしかない。廊下側のドアだけだ。窓はある。だが二階の窓は外に面していて、飛び降りれば骨折する。骨折した状態で配信を続けるのは——いや、骨折程度なら死にはしない。だがスマホを落としたら配信が途切れる。
蛍光灯がちらついた。
暗転。再点灯。ドアの隙間の向こう。グレーのパーカーが、ドアの正面に来ていた。さっきより確実に近い。パーカーのフードの位置が変わっている。のっぺらぼうの顔があるはずの位置に、ドアの木目越しに何もない空間が透けて見える。
そのとき、ドアの向こうで音がした。
湿った音。ぐちゅ、という粘着質の音。地下の観察室で初めて聞いた、顔のない俺の足音だ。靴音ではない。浮いている体が床に近づくときに、皮膚のない顔面の粘膜が空気に触れる音。あの湿った引きずり音が、ドアの向こうで鳴っている。
三秒後。蛍光灯がちらつく前に、音だけが近づいている。
——待て。
暗転していないのに、音が動いた。
四万四千人が見ているのに。配信が続いているのに。蛍光灯が点いているのに。音だけが、ドアに向かって近づいた。
見ているのに、動いた?
違う。
音は動いた。だが「体」は動いていない。蛍光灯の光の下で確認する。ドアの隙間から見えるグレーのパーカーの位置は変わっていない。体は止まっている。四万四千人の視線で固定されている。だが音だけが先行した。音が体から分離して、先にドアに到達しようとしている。
「音だけ来てる。体は止まってるけど、音が先に来てる」
配信に向かって報告した。段取りを言語化する。恐怖を情報に変換する。何度目だ。もう数えていない。
『意味わかんない』『音が体から離れるってどういうこと??』『物理法則どうなってんの』
四万五千三百。
恐怖がまた人を集めた。七百人増えた。増えれば増えるほど、体は止まる。だが音は止まらない。体を止められるだけの視線が、音を止められない。音は物理的な実体がない。音は空気の振動だ。空気の振動は見えない。見えないから止められない。
これが新しいルールだ。
観察は「見える」ものしか止められない。音は見えないから、観察圧の影響を受けない。同接が百万になっても、音は近づき続ける。
ぐちゅ。
ドアの表面から、音が染み出してきた。木製のドアの繊維の間を通って、室内に浸透してきている。湿った粘膜の音が、部屋の空気に溶け込んでいく。右耳の近くで鳴っている。壁際に座っている俺の、右耳のすぐ横の壁から。壁の向こう側の廊下から、音だけが壁を透過して部屋に入ってきている。
右頬の傷口が反応した。露出した筋肉の表面が、音の振動に共鳴するようにぴくりと収縮した。傷口が音を聞いている。皮膚がないから、筋肉が直接空気の振動を拾っている。自分の顔が、あいつの接近を受信している。
「助けてって言ったけど、誰も来ないよな」
つぶやいた。配信に向けてではなかった。独り言だ。独り言を四万五千人が聞いている。
バッテリー、十三パーセント。
沼田のミイラが、笑っている。ずっと笑っている。口角が上がったまま固定された灰色の顔が、蛍光灯の青白い光の下でより一層不気味に見える。瞼が完全に見開かれた瑞々しい眼球が、俺のスマホの画面を追っている。角膜の表面に映り込む数字。四万五千三百。こいつは俺が死ぬまでの残り時間を、同接という数字で計測している。
蛍光灯がちらついた。暗転。〇・二秒。再点灯。
ドアの向こうのグレーのパーカーが、また三センチ近づいた。
ドアまで、あと推定六十センチ。ちらつきが三秒間隔なら、二十回。六十秒。一分。
一分後にあいつがドアに触れる。
「一分以内にこの部屋のドアに来る。どうすればいい。教えてくれ。何でもいい」
コメント欄に訊いた。配信者が視聴者に頼るのは二度目だ。「助けてください」に続いて、今度は具体的な指示を求めた。
コメントが弾けた。
『窓から飛べ!!!』『ドアに物置け!!』『別の部屋行け!!』『机動かせ!!』
沼田のオフィスの机。沼田のミイラが座っている椅子がある机。あの机をドアの前に押せば、一時的にドアを塞げる。だが机の上にはミイラがある。ミイラの椅子を動かすには、ミイラに触れなければならない。
さっき身をもって確認した。顔のない俺に干渉するとき、取り込みのリスクがある。ミイラも「見ていない場所で動く」ルールに従っている。沼田のミイラに触れたとき、何が起きるかわからない。
だが一分後にはドアの向こうから顔のない俺が入ってくる。
二択だ。ミイラに触れるか。顔のない俺に触れられるか。
蛍光灯がちらついた。
暗転。再点灯。ドアの隙間。パーカーがまた三センチ。
残り五十四センチ。十八回のちらつき。五十四秒。
立ち上がろうとした。膝が鳴った。二時間座り続けた脚の筋肉が硬直していて、膝を伸ばすと関節が軋む音がした。左手で壁を掴んで体を引き上げる。右手にスマホ。画面が揺れる。カメラの映像が天井を映し、壁を映し、床を映した。
『カメラ酔うからやめて』
カメラ酔い程度で離脱する奴は、俺の顔が剥がれる映像を二時間見ていた奴ではない。構わない。
立ち上がった。足元がふらつく。脱水と空腹で平衡感覚が鈍っている。沼田の机まで三歩。机の端に手をかけた。木製の天板。書類と本が積まれている。机は古いが重い。床に接する面にゴム脚がついていて、引きずれば動くが持ち上げるのは無理だ。
沼田のミイラの膝が、俺の腰の高さにあった。椅子に座ったミイラの、革のように干からびた膝。白衣は灰色に変色し、生地の繊維が劣化して部分的にほつれている。ミイラの手は膝の上に置かれている。指は黒く干涸びて、関節の部分だけが白い。だが顔だけは——顔だけは違う。瑞々しい皮膚。完璧に保存された顔面。血色すらある。瞼を全開にした眼球が、俺を見ている。
ミイラの膝の横を通って、机を押す。椅子のキャスターが床で回転した。ミイラの体が椅子ごと横に流れた。机と一緒に動いた。ミイラには触れていない。机を押して、机が椅子にぶつかって、椅子がミイラごと動いた。間接的な接触。触れてはいない。
机がドアの前まで移動した。ドアの取っ手に机の端がぶつかり、ドアが数ミリ内側に開いた。
廊下が見えた。
グレーのパーカー。ドアの正面。距離、四十センチ。蛍光灯の光がドアの隙間から廊下に漏れている。その光の中に、フードの下の——何もない空間が浮かんでいた。顔があるべき場所に、灰色の影があるだけ。頬骨の輪郭。眼窩の窪み。だが皮膚がない。筋肉の上に、何もない。瞼のない眼球だけが、濡れた光を湛えて——
ドアの隙間が塞がった。机の天板がドアに密着した。廊下から押してくる力はない。顔のない俺は、見えている間は動けない。ドアの隙間が塞がれたことで、互いに見えなくなった。見えなくなったから、次のちらつきで——
——この思考には意味がない。ドアの向こうが見えないのだから、何が起きているかわからない。わかることは一つだけ。机がドアを塞いでいる。机の重さは推定三十キロ。人間の力で押せば動くが、顔のない俺が物理的な力を使えるかどうかは確認していない。観察室で椅子をぶつけたとき、椅子はすり抜けた。物理的な干渉は成立しない可能性がある。だがドアを開ける動作は物理的だ。取っ手を回して、引く。あるいは押す。物理的な力がなければドアは開かない。
蛍光灯がちらついた。暗転。再点灯。
机は動いていない。ドアは閉まったままだ。
三十秒待った。ちらつきが六回。机は動かない。ドアの向こうから音もしない。あの湿った粘膜の音が消えている。
物理的なドアを開けられないのか。それとも、別の場所に移動したのか。
コメント欄が表示を更新した。
『なんか来た』
そのコメントの直後に、別の音がした。
ドアの向こう側ではなかった。部屋の中でもなかった。このフロアの、廊下の反対側——事務フロアの奥のほうから、複数の足音が聞こえた。
靴音だ。運動靴がリノリウムの床を踏む、きゅっという音。規則正しい歩調。走っていない。歩いている。躊躇のない歩幅。この建物の構造を知っている人間の歩き方だ。
足音の質が違った。顔のない俺の湿った粘膜音ではない。固形の靴底が、固形の床を踏んでいる。物理的な重量が床に伝わっている。人間の足音だ。
足音が近づいてくる。沼田のオフィスに向かって。
「誰か来る」
カメラに向かってつぶやいた。
『えっ???』『誰???』『顔なしじゃないの??』『足音が違くない?』
足音が止まった。ドアの外。机で塞いだドアの向こう側。靴底がリノリウムの上で止まる、きゅ、という短い摩擦音。
三秒の沈黙。
ノックが鳴った。
こん、こん。木製のドアを拳で叩く音。二回。人間の手の関節が木の表面に当たる、硬くて短い音。
顔のない俺はノックしない。顔のない俺は足音を立てない。ノックをするのは人間だ。人間がこの廃病院の二階の事務フロアまで来て、沼田のオフィスのドアをノックしている。午前三時半に。
「……誰だ」
声が掠れた。喉の乾燥で声量が出ない。
ドアの向こう側から、声がした。
「あの、配信見てます。差し入れ持ってきました」
女の声だった。若い。二十代前半か、もう少し下。落ち着いた声だが、息が上がっている。階段を上がってきた直後の呼吸だ。
配信を見ている人間が、差し入れを持って廃病院の二階まで来た。午前三時半に。
コメント欄が爆発した。
『は?????』『誰だよ』『凸かよ』『嘘だろ』『危ないから帰れ!!』『ダイゴ開けるな!!罠だ!!』
「待ってくれ」
俺はドアを開けなかった。机を押しのけなかった。
「名前は」
「椎名です。椎名美咲」
椎名。聞き覚えのない名前だ。常連リスナーにもいない。スパチャ送信者にもいない。
「どうやって入った」
「裏の搬入口から。シャッターが半分開いてたんで、そこから」
裏手の搬入口。配信開始前に確認した場所だ。正面玄関のガラス扉が封鎖されていたとき、裏手に回って搬入口を探したが、シャッターは完全に閉まっていた。それが今、半分開いていたという。
「配信見てて、バッテリーとかやばそうだったから。水とおにぎりとモバイルバッテリーあります。あと、ガーゼと消毒液も」
水。おにぎり。モバイルバッテリー。ガーゼと消毒液。
俺が今、最も必要としているもののリストだ。
バッテリーは三十分で死ぬ。水は七時間飲んでいない。ガーゼと消毒液があれば、右頬の露出筋肉の乾燥壊死を遅らせられる。全部持っている。全部を一人の人間が持って、午前三時半の廃病院の二階まで上がってきた。
『出来すぎじゃない?』『タイミング良すぎ』『怪しすぎんだろ』
リスナーの反応は、俺と同じだった。出来すぎている。都合が良すぎる。
だが出来すぎていようが何だろうが、バッテリーが十三パーセントだという事実は変わらない。十二パーセントに変わった。画面右上の赤い数字が一つ減った。二十四分。あと二十四分でスマホが死ぬ。スマホが死ねば配信が止まり、俺は死ぬ。
出来すぎた好意を受け入れるか。バッテリーの放電曲線に殺されるか。
「中に何がいるか知ってて来たのか」
ドアの向こうの椎名に訊いた。
「配信見てました。途中からですけど、日付が変わる前くらいからずっと」
日付が変わる前。配信開始直後からではない。途中から入ってきたリスナーだ。だがそれでも、顔のない俺と沼田のミイラと、五センチ剥がれた顔面は見ているはずだ。それを見た上で、夜中の三時半に一人で廃病院に来た。
「看護学生です。顔の傷、ちゃんと処置しないと壊死します。配信で見てて、あのままじゃまずいと思って」
看護学生。それでガーゼと消毒液か。筋肉の乾燥壊死を知っている人間が来た。知識を持って、道具を持って、タイミングよく来た。
『嘘くせえ』『看護学生がなんで真夜中の廃病院に一人で来るんだよ』『俺だったら絶対行かない』
コメント欄は疑っている。俺も疑っている。だがバッテリーは十一パーセントになった。二十二分。
「机をどけるから、待ってくれ」
判断した。疑いは消えていない。だが二十二分後に確実に死ぬか、今ドアを開けて不確定の危険を取るか。確実な死より不確定の危険を選ぶ。底辺配信者の四年間で学んだことがある。「やらない後悔よりやる後悔」は嘘だ。だがバッテリーが切れたら後悔する暇すらない。
机をドアから引き剥がした。天板の端がドアの取っ手に引っかかって、一瞬ドアが開いた。廊下の蛍光灯の光がドアの隙間から射し込んだ。
廊下に、グレーのパーカーはなかった。
いなくなっている。顔のない俺が消えている。五分前にはドアの正面四十センチにいたのに。机でドアを塞いでいた間に、見えなくなっていた。見えなくなったのだから動けたはずだ。だがどこへ行った?
ドアを開けた。
廊下に立っていたのは、ダウンジャケットを着た女だった。
八月にダウンジャケット。場違いな服装だ。だが廃病院の内部の温度を知っている人間なら、おかしくはない。配信を見ていたと言った。地下の手術室で吐く息が白くなっていたのを見ていたなら、防寒を考えるのは理性的な判断だ。ただし、理性的すぎる。真夜中に一人で廃病院に来る人間の判断としては、冷静すぎる。
椎名美咲は、俺の顔を見た。
五センチの剥離。露出した筋肉。乾燥し始めた組織の表面。パーカーの襟元に染みた体液の痕。目の下の紫色の隈。ひび割れた唇。
動じなかった。
視線が右頬の傷口に向かったのは一瞬で、すぐに俺の目に戻った。看護学生なら、傷口を見て動揺しないことはあり得る。臨床実習で開放創を見慣れていれば、五センチの剥離は驚くほどの光景ではないのかもしれない。かもしれない。だが画面越しに見るのと、蛍光灯の下で生身の人間の露出した筋肉を至近距離で見るのは違う。匂いがある。傷口から漂う、生きた組織が外気に触れたときの甘く湿った匂い。あの匂いを嗅いで動じないのは、匂いに慣れているからか、匂いを嗅いでいないからか。
「入って」
椎名を部屋に通した。彼女はダウンジャケットのポケットから透明のビニール袋を出した。中にコンビニのおにぎり二個、五百ミリの水のペットボトル一本、モバイルバッテリー一個、ガーゼの個包装パック三つ、消毒液の小瓶一本が入っていた。
コンビニのレジ袋ではなくビニール袋。事前に準備してきている。コンビニで買ったものをコンビニの袋から出して、ビニール袋に詰め替えた。なぜ詰め替えた? コンビニの袋のほうが丈夫だ。わざわざビニール袋に移す理由がない。ただし、コンビニの袋にはコンビニの名前が印字されている。どのコンビニで買ったかがわかる。ビニール袋には何も印字されていない。
「モバイルバッテリー先に繋いでください。配信のバッテリー、もう十パーセント切ってるでしょ」
画面を見ていないのに、バッテリー残量を知っている。配信画面にはバッテリー残量は表示されない。俺が口頭で報告したのは十五パーセントのときだ。そこから五パーセント減ったことを、彼女はどうやって知った。
配信画面には映らない。俺は言っていない。だが椎名は十パーセントを切っていることを知っている。
スマホの画面右上。九パーセント。赤い数字。彼女の言う通りだ。十パーセントを切っている。配信者がバッテリー十パーセント台で配信していれば、そろそろ切れる頃だと推測するのは不自然ではない。十五パーセントからの経過時間を計算すれば、今のバッテリー残量は推定できる。合理的な推測だ。
合理的すぎる。
モバイルバッテリーを受け取った。白い筐体。新品ではない。充電インジケータは四つのうち三つが点灯している。七十五パーセント。俺のスマホの充電口に端子を差し込んだ。充電マークが画面に戻った。
死刑の執行が延期された。
九パーセントのバッテリーに七十五パーセントのモバイルバッテリーが繋がった。計算上、あと三時間半は配信を続けられる。三時間半。午前七時。日の出だ。日の出がどんな意味を持つかは知らない。だが暗闇よりは日光のほうがましだ。
水のペットボトルのキャップを開けた。手が震えていて、キャップを回すのに三秒かかった。口をつけた瞬間、水が喉を通る感覚が全身を貫いた。冷たくはない。ぬるい水だ。コンビニの冷蔵棚から出してから時間が経っている。だが水だ。七時間ぶりの水が食道を下りて胃に落ちた。胃が収縮した。空の胃が突然液体を受け入れて、痙攣のような動きをした。二口目。三口目。四口目で、自分が水を飲みすぎていることに気づいて止めた。一度に大量の水を摂ると、脱水状態の胃が拒絶して嘔吐する。少量ずつ、時間をかけて。看護学生なら知っているはずの知識だ。
椎名は何も言わなかった。飲みすぎるな、とも、ゆっくり飲め、とも言わなかった。看護学生が、脱水状態の人間が水をがぶ飲みしているのを黙って見ているのは——知識があるなら止めるはずだ。止めなかったのは、知識がないからか、俺のことに関心がないからか。
「ガーゼ、貼っていいですか」
椎名が個包装のガーゼを開封しながら言った。
「自分でやる」
手を出そうとした。
「鏡なしじゃ無理です。角度的に、自分で右頬にガーゼ当てても位置がずれます。やらせてください」
正しい。自撮りカメラを鏡代わりにすればできなくはないが、左右反転した画面を見ながらガーゼを貼るのは難しい。特に剥離部位の端まで正確にカバーするには、第三者の目と手が必要だ。
「……頼む」
椎名が消毒液の小瓶のキャップを開けた。イソジンではない。透明な液体。クロルヘキシジン系の消毒液だ。病院で使う種類。ドラッグストアでも買えるが、看護学生が選ぶ消毒液としては適切だ。
ガーゼに消毒液を染み込ませ、椎名が俺の右頬に触れた。
冷たかった。
椎名の指先が冷たい。八月の夜にダウンジャケットを着ていても、指先まで冷えることはない。冷え性なのかもしれない。だが指先だけが冷たいのは——廃病院の地下の温度だ。吐く息が白くなるあの温度。あの空気に長時間触れていた手の温度。
「ちょっとしみます」
消毒液が露出した筋肉の表面に触れた。しみるどころではなかった。膝が跳ねた。五万人に割られない、純粋な物理的刺激。消毒液のアルコール成分が変性した筋肉表面の下の生きた組織に浸透し、化学的な灼熱感が頬骨の内側を駆け抜けた。奥歯を噛んだ。顎の痙攣が激しくなった。
「すみません。でも消毒しないと感染します」
椎名がガーゼを右頬に当てた。湿ったガーゼが筋肉の表面を覆った。外気が遮断された。二時間以上外気に晒されていた筋肉に、ガーゼの湿り気が沁みた。温度が変わった。外気より温かい。ガーゼに含まれた消毒液が体温で温まり、筋肉表面の乾燥をゆっくりと緩和し始めている。
乾燥壊死の時計が、少し遅くなった。
「ありがとう」
言った。四年間の配信で最も簡素な礼だった。
椎名はガーゼの端を医療用テープで固定した。テープも持ってきていた。ビニール袋の中には入っていなかった。ダウンジャケットのポケットから直接出した。ビニール袋に入れていなかった。なぜテープだけ分けていたのか。
コメント欄は二つに割れていた。
『神かよ』『天使降臨』『ダイゴ助かったじゃん!』
『怪しすぎる』『なんで動じないの』『普通もっとびっくりしない?』『足音の音おかしくない?』
足音。
コメントの一つが、俺が気づいていないことを指摘していた。
足音の音がおかしい。
椎名が廊下を歩いてきたとき、靴音はきゅっというリノリウムの上の音だった。だが廊下の床には——粘りがあるはずだ。標本室のホルマリンが、あの部屋を出てから廊下にまで滲出している。二階の事務フロアでも、沼田のオフィスに逃げ込む前から廊下の床に薄い膜ができていた。その膜の上を歩けば、靴底が粘る。ぐち、という粘着音が靴音に混ざる。俺が廊下を歩くときは、必ずその粘りが靴底に絡んだ。
椎名の足音には粘りがなかった。リノリウムの上をそのまま歩いている音だった。粘膜の層が、椎名の靴底には作用していない。
配信に向かっていたカメラを、椎名のほうに向けた。初めてカメラに映る椎名美咲。ダウンジャケット、ジーンズ、白い運動靴。髪はポニーテール。化粧はしていないか、極めて薄い。年齢は二十歳前後に見える。表情は落ち着いている。落ち着きすぎている。
「椎名さん。一つ聞いていいか」
「はい」
「ここまで来るとき、足元べたべたしなかったか。廊下の床」
椎名の表情が、一瞬だけ動いた。目が泳いだのではない。動いたのは口元だった。唇の端が、〇・五ミリほど内側に引き込まれた。何かを飲み込む動作。言葉を飲み込んだのか、唾液を飲み込んだのか。
「べたべた? いえ、特に気にならなかったですけど」
嘘か本当かわからない。気にならなかっただけかもしれない。暗い廊下を歩いているとき、足元の感触に注意を払わないことはあり得る。だが看護学生がこの建物の異常性を配信で見て来たなら、足元の質感には敏感であるはずだ。
「もう一つ。搬入口、まだ開いてたか。帰るときに使えるか」
椎名の動きが止まった。
「それが——」
言いかけて、口を閉じた。二秒。
「階段上がる前に振り返ったんですけど、なかったです。さっき入ったところ」
「なかった?」
「シャッターが閉まったとかじゃなくて。壁でした。最初からコンクリートの壁しかなかったみたいに、ただの壁が続いてて」
搬入口が消えた。入った直後に、入口が壁になった。
この建物はそういうことをする。階段の位置が変わり、廊下が伸び、部屋が増減する。入口を塞ぐのも、この建物にとっては日常的な動作だ。だが椎名を入れてから塞いだのなら、建物は椎名を入れる意思があった。入れて、出さない。
俺と同じだ。俺も正面玄関から入って、二度と出られなくなった。
だが俺のときは、入口が封鎖される前に異変があった。空間変容が段階的に進んだ。椎名の場合は、入った直後に即座に壁になった。一度だけ開いて、一人だけ通して、閉じた。まるで——椎名を招き入れるために、一度だけ口を開けたかのように。
「もう一つ。廊下で何か見なかったか。来るとき」
「いえ、暗かったんで。でもあの——先生の部屋ってここですよね。配信で映ってた」
先生。
椎名は「先生」と言った。沼田のことを「先生」と呼んだ。
配信では一度も沼田を「先生」とは呼んでいない。「沼田」か「この医者」か「こいつ」だ。俺はずっとそう呼んできた。敬称をつけたことは一度もない。配信を見ていただけの人間が沼田を「先生」と呼ぶ理由がない。ただし看護学生ならどうか。看護学生は医師を「先生」と呼ぶ習慣がある。それだけかもしれない。卒論で調べた対象の医師を「先生」と呼ぶのは、職業的な習慣だ。
だが「先生」という言葉には距離の近さがある。「沼田」と呼び捨てにするのと、「先生」と敬称をつけるのでは、対象との心理的距離が違う。椎名は沼田を「先生」と呼べるほど近い距離にいる。卒論の対象として、か。それとも。
コメント欄が反応していた。
『今「先生」って言った?』『ダイゴ一回も先生って呼んでないのに』『看護学生だから癖じゃね?』『いやそれにしても自然すぎない?』
コメント欄に、新しい指摘があった。
『あのさ、この人がどうやって二階まで迷わず来れたの? ダイゴでさえ構造把握するのに何時間もかかったのに』
正しい。この建物は空間が変容する。廊下が伸び、部屋が増減し、階段が位置を変える。俺はここに入ってからずっと、建物の構造を把握するためにフロアを歩き回り、設計図と照合し、何度も迷った。椎名は裏手の搬入口から入って、真っ直ぐ二階の事務フロアにある沼田のオフィスまで来た。迷わずに。暗い廊下で、空間が変容する建物の中を、一度も迷わずに。
「椎名さん。ここに来るまで迷わなかったか」
「搬入口から入って、階段があったんで上がったら、この階に出ました。廊下の突き当たりにドアがあったんでノックしました」
「階段は一つしかなかったか」
「はい。搬入口の横に一つ」
配信前に確認した搬入口付近の構造を思い出す。裏手の搬入口の横には、業務用のエレベーターと階段がある。設計図上は。だがこの建物の階段は、地下で設計図にない扉を見つけてから位置が変わっている。一階から二階への階段は正面玄関側に移動し、裏手側は塞がれていた。椎名が裏手の階段を使えたのなら、建物が椎名のために階段を用意したことになる。
あるいは、椎名だけは通れる道があるのか。
「配信、そのまま続けてもらっていいですか。私はちょっと調べたいものがあるんで」
椎名がダウンジャケットの内ポケットから、スマホを取り出した。そしてもう一つ、折り畳まれた紙を取り出した。A4サイズのプリントアウト。新聞記事のスキャンだ。
紙を開いた。
一九九八年の日付。地方紙の社会面。見出しが目に飛び込んできた。
「入院患者の皮膚を無断採取、緑ヶ丘病院の医師に告発」
記事の内容を、蛍光灯のちらつく光の下で読んだ。
緑ヶ丘病院の皮膚科医師が、入院患者の皮膚を治療とは無関係に採取し、独自の移植実験を行っていたことが遺族の告発で発覚した。対象は一九九四年から一九九八年にかけて同病院に入院していた皮膚科の患者十二名以上。医師は採取した皮膚を別の患者に移植する実験を繰り返しており、遺族は「母の身体に説明できない傷跡があった」と訴えている。病院側は一九九九年に内部調査を実施したが、当該医師は調査開始前に行方不明となり——
記事はそこで切れていた。スキャンの範囲外だ。
「この医師が沼田です」
椎名が言った。
さっき沼田のことを「先生」と呼んだ椎名が、今度は「沼田」と呼び捨てにした。俺に合わせたのか。それとも「先生」と呼んだのが本音で、今は取り繕っているのか。
「知ってたのか」
「配信見てました。沼田先生のオフィスの中でずっと配信してたじゃないですか。壁に掛かってた写真とか、論文とか、全部映ってました」
また「先生」と言った。無意識だ。看護学生の習慣にしては、舌に馴染みすぎている。
「それと、もう一つ」
椎名がスマホの画面を見せた。検索結果のスクリーンショット。
「緑ヶ丘病院は一九九九年に閉院してます。でも二〇〇三年以降、この周辺で行方不明者が十二人以上出てます。遺体は一人も見つかってません」
十二人以上。二〇〇三年以降。
標本室の瓶の数を思い出した。二百本以上。一九八七年から二〇二四年までの三十七年間。二〇〇三年以降の十二人は、そのうちの一部だ。行方不明になった人間は、あの標本室の瓶の中にいる。
「この記事、いつ見つけたんだ」
「前から持ってました」
前から。
配信を見てから調べたのではなく、前から持っていた。一九九八年の地方紙の記事のスキャンを、椎名美咲は前から持っていた。この記事を事前に持っている人間は、偶然配信を見つけたリスナーではない。緑ヶ丘病院に関心を持つ理由がある人間だ。
「なんでこの記事持ってるんだ」
「卒論の資料です。看護学の倫理で、過去の医療不祥事を調べてて」
卒論。看護学の倫理。医療不祥事。二十五年前の地方病院のスキャンダルを卒論のために調べていた看護学生が、配信でその病院を見て、差し入れを持って来た。
話の筋は通る。筋は通るが、筋が通りすぎている。
『この人本当に看護学生なのか?』『俺看護学生だけど卒論でこんな古い記事使わないぞ』『なんかごまかしてる感じがする』
コメント欄は俺より先に疑っている。だが今は情報が欲しい。椎名が何者であろうと、彼女が持っている情報は俺にはない。この記事は沼田の背景を裏付けている。入院患者の皮膚を無断採取し、移植実験をしていた。N-projectの実体だ。
「この記事の続きは」
「ありません。この記事が最後です。調査が入って、沼田が行方不明になって、病院が閉まった。それ以降は報道されてません」
閉院後、報道がなくなった。行方不明者が出続けているのに、報道されていない。二〇〇三年以降の十二人。地方の山中の廃病院の周辺で人が消えても、全国ニュースにはならない。登山者の遭難か、自殺か。一人ずつ、数年おきに消えれば、パターンは見えにくい。
椎名が持ってきた情報は二つだ。沼田の不正の裏付けと、閉院後も犠牲者が出続けているという事実。どちらも俺の推測と一致する。だが一致しすぎている。
カメラを椎名に預けたかった。自撮りを続けるよりも、第三者にカメラを持ってもらったほうが画角が広がる。俺の全身と部屋全体を同時に映せる。沼田のミイラも映せる。情報量が増えれば、視聴者が増える。視聴者が増えれば、俺は死なない。
「カメラ、持ってくれないか。俺が自撮りしてるより、引きの画のほうがいい」
椎名が頷いて、スマホを受け取った。自撮り用のグリップごと渡した。椎名がスマホを構えた。カメラが俺の全身を映した。壁際に座った男。グレーのパーカーの襟元が体液で黒く染まっている。右頬にガーゼが貼られている。その向こうに、沼田のミイラが椅子に座っている。机が部屋の中央に移動していて、椅子とミイラだけが壁際に取り残されている。
同接、四万六千八百。
椎名が来てから二千人増えた。新キャラクターの登場だ。配信に人が増えれば視聴者も増える。コンテンツとしての構造は変わっていない。
椎名がカメラを持ったまま、部屋の中を映した。沼田のミイラ、机の上の書類、壁の書棚、窓。カメラが窓に向いた瞬間、俺は画面を見た。
窓ガラスに、部屋の中が反射していた。
蛍光灯の青白い光。壁際の俺。机と椅子。沼田のミイラ。そして——カメラを持った椎名美咲。
ガラスの反射の中の椎名は、ダウンジャケットを着ていなかった。
白い服を着ていた。
白い手術着。手術室で着る、あの白い服。膝下まである薄い生地の術衣。左胸にポケットがあり、背中は紐で結ぶタイプの、病院の手術室で見た——いや、見ていない。俺はこの病院で手術着を見ていない。だが知っている。知っている形だ。
反射は一瞬だった。
カメラが窓から離れた。椎名が体の向きを変えたからだ。反射が消えた。
スマホの画面を見た。カメラのプレビュー画面に映る椎名は、ダウンジャケットを着ている。現実の椎名はダウンジャケットだ。だがガラスの反射では白い手術着だった。
コメント欄が数件、立て続けに流れた。
『今窓に映ったやつ白い服じゃなかった?』
『え、手術着みたいなの見えた……』
『ダウンジャケットじゃなかった気がするんだけど俺だけ?』
『スクショ撮ったけどブレてて映ってない……』
リスナーも見ていた。窓の反射を。だが証拠は残っていない。スクリーンショットには映っていない。動画のアーカイブを見返しても、窓ガラスの反射は暗くてほとんど確認できないだろう。蛍光灯のちらつきのタイミングで光量が足りていた一瞬だけ、反射に映った。
椎名は何も言わなかった。コメント欄を見ていないのか、見ていて無視しているのか。カメラを持ったまま、俺のほうにレンズを向けている。
「椎名さん」
「はい」
「この病院に来た理由、卒論だけか」
沈黙。一秒。二秒。三秒。
「……卒論だけです」
三秒の沈黙は長い。質問を聞いて答えを考えて発話するまで、嘘をつかない人間は一秒かからない。三秒かかったのは、答えを選んでいたからだ。本当のことを言うか、嘘をつくか。三秒の選択の結果、椎名は卒論だと答えた。
この女は嘘をついている。
何についての嘘かはわからない。卒論が嘘なのか、来た理由が他にあるのか、看護学生という肩書が嘘なのか。
だが今、この女がいないと俺は三十分以内に死んでいた。モバイルバッテリーがなければ配信が途切れ、ガーゼがなければ筋肉が壊死し、水がなければ脱水で判断力が消えていた。椎名美咲が何者であろうと、彼女は今この瞬間、俺を生かしている。
生かしている存在を疑うことの代償を、俺はまだ知らない。
同接、四万七千二百。
蛍光灯がちらついた。〇・二秒の暗転。再点灯。
ドアの向こうの廊下に、音が戻っていた。ぐちゅ、と湿った粘膜の音。顔のない俺が、再び近くにいる。
椎名がカメラを持ったまま、ドアのほうを見た。
「あれがずっと来てるんですか」
「ああ。蛍光灯が消えるたびに動く」
「止める方法は」
「見てればいい。四万七千人が見てれば体は動けない。だが音だけは来る。音は止められない」
椎名がカメラをドアに向けた。廊下に、グレーのパーカーの裾が見えた。ドアの隙間から覗く、布地の端。その布地の裏側に、顔のない体が立っている。
カメラが廊下を映した瞬間、コメント欄に海外のコメントが走った。
『it moved!!! did you see that!!!!!』
蛍光灯がちらつく前に、映像はカメラに記録されたはずだ。だが暗転の一瞬で、グレーのパーカーは位置を変えていなかった。カメラが直接映しているから。椎名がカメラを廊下に向けたことで、顔のない俺は四万七千人の視線に釘付けにされた。体は動けない。
だが音は——
ぐちゅ。
音だけが、室内に染み込んでくる。壁を透過して、空気を揺らして、俺の右頬のガーゼの下の露出した筋肉を、ぴくりと痙攣させる。
椎名がカメラをドアから外した。俺のほうに戻した。
その瞬間——蛍光灯がちらついた——暗転——再点灯——
コメント欄。
『動いた!!!!!!!!!今絶対動いた!!!!!』
カメラが廊下から外れた〇・二秒の暗転。その一瞬で、ドアの隙間から見えるグレーのパーカーが、五センチ動いた。三センチではなく五センチ。椎名がカメラを外したことで、直接映されていない瞬間が生まれた。直接映されていない暗転は、より広い「見ていない空間」を作る。五センチ動けた。
この建物の中で、カメラを持つ人間は観察の道具だ。椎名がカメラを持っている。カメラの向きが、顔のない俺の行動範囲を決める。カメラの向きを変えるたびに、見えない空間が生まれ、顔のない俺はそこに滑り込む。
椎名がカメラをどこに向けるかで、俺の生死が変わる。
椎名美咲。看護学生。卒論の資料を持った女。動じない目。冷たい指先。粘らない足音。窓ガラスの反射で白い手術着を着ていた女。
俺は、この女を信じていいのか。
蛍光灯がちらついた。沼田のミイラの瞼が全開のまま、俺と椎名を交互に見ている。角膜の表面に、二つの人影が映り込んでいた。
同接、四万七千二百。
午前三時五十八分。夜が、まだ長い。




