第11話「回収済み」
八月十五日、午前四時〇三分。
配信開始から、五時間五十一分。
瞬きの長さが変わっていた。
三時間前は〇・三秒で開いた瞼が、今は〇・七秒かかる。閉じている時間が倍になっている。脳が眠ろうとしている。眠ろうとする脳を、右頬のガーゼの下の鈍痛が引き戻す。痛みが目覚まし時計になっている。痛みがなくなったら眠る。眠ったら配信が止まる。配信が止まったら死ぬ。痛みが俺を生かしている。
視界の端が暗い。中心は見えるが、周辺部が影に沈んでいる。蛍光灯のちらつきのせいではない。俺の視覚野が処理能力を落としている。覚醒から推定二十一時間。前日の朝七時に起きて、配信の準備と移動で日中を使い、午後十時に配信を開始した。そこから六時間。人間の脳は覚醒二十時間を超えると、血中アルコール濃度〇・〇五パーセント相当の判断力低下が起きる。酒を飲んでいないのに酔っている。
椎名がカメラを持って、俺の隣に立っている。カメラは俺の顔を正面から映している。蛍光灯の青白い光の下で、ガーゼを貼られた右頬と、紫色の隈と、ひび割れた唇が画面に映っている。
同接、四万七千五百。
椎名をオフィスに入れてから、同接は三百人増えた。椎名の登場が新しいコンテンツとして機能している。「配信者と一緒に廃病院に来た看護学生」という構図は、深夜四時の視聴者を引き留めるだけの新鮮味がある。だがこの女が何者なのか、俺はまだ知らない。
「事務フロアの残りの部屋、見に行きませんか」
椎名が言った。沼田のオフィスを出て、廊下を探索する提案だ。
「残り二部屋。この階に上がったときに見た」
このフロアには沼田のオフィスのほかに、ドアが二つある。最初にこのフロアへ上がったとき、沼田のオフィス以外のドアは閉まっていて、中を確認していなかった。そのとき確認した二つのドアのうち、一つは「記録保管室」と書かれたプレートが付いていた。もう一つは無名のドア。
「記録保管室。カルテとかあるかもしれない」
椎名の声が、わずかに上ずった。声の高さが一段上がった。半音にも満たない変化だったが、それまで一定の低い声で話していた椎名の声が揺れた。記録保管室という言葉に反応した。カルテという言葉に。
「行こう」
立ち上がった。三度目。一度目は机を動かしたとき。二度目は椎名をドアから迎え入れたとき。三度目の立ち上がりで、膝が曲がったまま伸びなかった。〇・五秒の遅延。筋肉に信号が届いてから、筋繊維が収縮するまでの時間が長くなっている。壁に手をついて体を支えた。
椎名が俺の腕に手を添えた。支えようとしたのだろう。だが俺の方が先に椎名の前腕を掴んだ。掴んだ——つもりだった。指が閉じない。握力が落ちている。椎名の前腕のダウンジャケットの布地を指で挟んだが、力が入らず滑った。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない。だが動ける」
動ける。歩ける。走れない。しゃがめない。腕を上げられる。握れない。利き手の右手が特に弱い。右頬の五センチの剥離が右半身全体の筋出力に影響しているのか、あるいは単純に脱水と疲労で末梢の筋肉から機能が落ちているのか。
オフィスのドアを押し開けた。机は先ほどドアの前から横にずらしてあった。ドアが開き、廊下の暗がりが目の前に広がった。
蛍光灯は廊下にも点いていた。だがオフィスの蛍光灯とは別系統らしく、ちらつきのタイミングが違う。廊下の蛍光灯は七秒から八秒おきにちらつく。オフィスの蛍光灯とは同期していない。非同期のちらつき。片方が点いているとき、もう片方が消えることがある。
一歩、廊下に出た。
靴底が、粘った。
右足を持ち上げたとき、床と靴底の間に糸を引く感触があった。粘液。ホルマリンと何かの混合物が廊下の床に薄く広がっている。最初にこの廊下を通ったときより粘度が上がっている。一歩ごとに、ぐちゅ、と湿った音がする。靴底が床から剥がれるたびに、ゴムと粘液の引力がちぎれる音。
俺の後ろを歩く椎名の足音を聞いた。
きゅ。きゅ。
きれいな靴音だった。粘りのない、リノリウムの上の靴音。椎名がオフィスに入ってきたときに覚えた違和感が、ここでも再現されている。俺の靴底には粘液がまとわりつく。椎名の靴底にはまとわりつかない。同じ廊下を、同じ方向に歩いている。だが床が二人を区別している。
被験者の足にだけ、まとわりつく。
この床は俺を被験者として認識している。椎名を認識していない。
蛍光灯がちらついた。〇・二秒の暗転。
再点灯したとき、廊下の奥——オフィスから見て右手の突き当たりに、グレーのパーカーが立っていた。
顔のない俺。
距離は約十五メートル。廊下の端で、フードを下ろしたまま、こちらを向いている。皮膚のない顔面。暗い眼窩の中で、瞼のない眼球が蛍光灯の光を反射している。
椎名がカメラを廊下の奥に向けた。四万七千人の視線が、グレーのパーカーに注がれる。体は動かない。動けない。観察されている。
だが——顔のない俺の眼球が動いた。
観察圧で体は止まっている。しかし眼球だけが自由に動く。瞼がないから、眼球の動きが丸見えだ。濡れた球体が、ゆっくりと右に回転した。左に回転した。
俺を見ている。カメラを持った椎名ではなく、俺を。
椎名の体を、視線がすり抜けた。
顔のない俺の眼球は、椎名を認識していない。二人の人間が廊下に立っているのに、一人しか見ていない。被験者は俺だ。俺だけが追跡対象だ。椎名はこの怪異にとって透明人間だ。
「俺だけ見てる」
声に出した。
「椎名さん。あいつの目、見えるか。お前を見てない。俺だけ追ってる」
椎名がカメラを構えたまま、顔のない俺の方向を映し続けている。
「……はい。私のほうは見てないみたいです」
冷静すぎる回答だった。十五メートル先に顔のない怪物が立っていて、自分を無視しているという事実を、「みたいです」で済ませた。恐怖の反応が欠落している。
『こいつ椎名のこと完全スルーしてるwww』『被験者だけ追跡するってことか』『椎名は被験者じゃないんだ?』『まだね……』
コメント欄の最後のコメントが引っかかった。「まだね」。まだ被験者ではない。まだ。
蛍光灯がちらついた。暗転。再点灯。顔のない俺は動いていなかった。椎名がカメラを向け続けているからだ。四万七千人の目が廊下の奥を見ている。
カメラを向け続けたまま、廊下を記録保管室のドアに向かって歩いた。沼田のオフィスから左に三部屋目。プラスチックのプレートに「記録保管室」と書かれたドア。ノブを回した。鍵はかかっていなかった。ドアが開いた。
室内に蛍光灯はなかった。暗い。だが廊下からの光が斜めに差し込んで、部屋の輪郭が浮かんだ。
六畳ほどの部屋だった。三方の壁にスチール製の棚が並び、棚にはファイルボックスと紙の束が詰め込まれている。ファイルの背表紙にラベルが貼られている。年度ごとに分けられたカルテの束。一九八九年。一九九〇年。一九九一年。順番に並んでいる。最も古いラベルは一九八七年。最も新しいラベルは一九九九年。閉院の年だ。
椎名がカメラを部屋の中に向けた。廊下の奥から目を離した。
瞬間、背後で音がした。
ぐちゅ。
粘膜の音。壁越しではない。廊下にいた顔のない俺の音が、物理的に近づいた。カメラが廊下から外れた瞬間、体が動いた。暗転なしで。蛍光灯が点いたままで。
「椎名さん、カメラ廊下に——」
「わかってます」
椎名がカメラを廊下側に戻した。ドアの向こうに、グレーのパーカーが見えた。
七メートル。
十五メートルだったのが七メートルになっていた。カメラが廊下から外れていた時間は三秒もなかったはずだ。三秒で八メートル。暗転なしで八メートル。
四万七千人が見ている。カメラが向いている。蛍光灯が点いている。それでも八メートル動いた。
「動いた。蛍光灯消えてないのに動いた」
『えっ???』『まじ???蛍光灯ついてたよな???』『カメラ外した瞬間だけど点灯してたぞ!!』
さっきオフィスで掴んだはずのルール——「観察は光に依存する。暗転の瞬間に動ける」——が崩れた。蛍光灯が点いていても、カメラが直接映していない空間では動けるようになった。閾値が変わっている。四万四千人では蛍光灯の暗転でしか動けなかったのが、四万七千人でも明所で動けるようになっている。同接が増えているのに、対策が機能しなくなりつつある。
数ではない。数以外の何かが変数に加わった。
椎名が来たからだ。
椎名が建物に入ったことで、何かのパラメータが変わった。建物が椎名を招き入れた。搬入口を開けて、階段を用意して、廊下を整えて。椎名の登場は実験の手順の一部だ。手順が進んだから、ルールが更新された。
「カメラ、廊下に固定してくれ」
椎名がカメラを廊下に向けたまま、ドアの枠に寄りかかった。カメラの画角に廊下が収まっている。顔のない俺が七メートル先に映っている。四万七千人が見ている間は——今のところ——動いていない。
「俺は中を調べる。カメラは絶対に廊下から外すな」
「はい」
記録保管室に踏み込んだ。光源は廊下からの漏れ光だけだ。棚に手を伸ばした。指先がファイルボックスの角に触れた。冷たい。スチールの棚もファイルボックスも、この部屋の空気ごと冷えている。沼田のオフィスより体感で三度は低い。
一九九四年のファイルボックスを引き抜いた。重い。中にカルテが三十枚以上入っている。棚から引き出すとき、ファイルボックスの底から埃が落ちた。二十五年間、誰も触っていない。
ボックスの蓋を開けた。紙のカルテが束になって入っている。一枚目。患者番号。氏名。生年月日。入院日。診療科。担当医。
担当医の欄に、沼田の名前が記されていた。
紙を捲った。二枚目、三枚目。入院時の所見、治療経過、投薬記録。普通のカルテだ。皮膚科の入院患者の、普通の治療記録。
四枚目。
表紙に赤いスタンプが押されていた。
「N-project 対象」
丸い枠の中に、赤いインクで押された文字。N-project。沼田の実験。このカルテの患者は、N-projectの対象として選ばれていた。
最終ページを開いた。余白に、手書きの文字があった。万年筆の青いインク。几帳面な筆跡。
「回収済み」
二文字。回収済み。この患者の顔は「回収」された。標本室の瓶の中に「回収」された。人間の顔を部品のように「回収」する語彙感覚。研究者の言葉遣いだ。
五枚目以降のカルテにも、同じスタンプがあった。「N-project 対象」。最終ページに「回収済み」。全部だ。このファイルボックスに入っている三十枚以上のカルテ、その全部に赤いスタンプと青い手書きが記されている。
一九九四年だけで三十人以上。
標本室の二百本の瓶。一九八七年からの三十七年間。年間平均六人。一九九四年は突出して多い。沼田の実験が本格化した年だ。
別のファイルボックスを引いた。一九九五年。こちらにも「N-project 対象」のスタンプ。一九九六年。同じ。一九九七年。同じ。
この部屋全体が、N-projectの記録だった。
椎名がドアの枠に寄りかかったまま、俺の背中を見ている。カメラは廊下に向いたまま。椎名の目だけが、俺がカルテを読む手元を追っている。
「何かあった?」
椎名の声が聞こえた。
「N-projectのカルテだ。全部ある。一九八七年から一九九九年まで。全員に回収済みって書いてある」
沈黙。二秒。
「他のカルテは」
他のカルテ。椎名は「他の」と言った。特定のカルテを探しているように聞こえた。
一九九四年のファイルボックスに戻った。カルテを一枚ずつ確認する。患者番号、氏名、生年月日、入院日、診療科、担当医——
手が止まった。
氏名の欄。
椎名幸子。
六十八歳。一九九四年九月十五日入院。皮膚科。担当:沼田。
椎名。
椎名美咲と同じ姓。六十八歳。一九九四年。三十年前の六十八歳なら、今は九十八歳。三十年前に入院した六十八歳の女性のカルテが、椎名美咲と同じ姓を持っている。
「椎名さん」
呼んだ。振り返った。ドアの枠に立つ椎名美咲の顔が、廊下からの蛍光灯の光を逆光で受けていた。表情が見えない。影の中に、目だけが光っている。
「これ、知ってる人か」
カルテの表紙を椎名に見せた。暗い部屋の中で、蛍光灯の漏れ光がかろうじて文字を照らしている。椎名幸子。六十八歳。皮膚科。
椎名の呼吸が変わった。
それまで一定のリズムだった呼吸が、一拍止まった。吸って、止まって、細く長く吐いた。感情が呼吸を乱すとき、人間はこういう呼吸をする。嘘をつくとき、ではなく、隠していたものが見つかったとき。
「……祖母です」
声が小さかった。ドアの枠に寄りかかったまま、椎名美咲は三文字を絞り出した。
「祖母。椎名幸子は、私の祖母です」
コメント欄が爆発した。
『おばあちゃん!?!?!?!?』『うそだろ!!!!!』『だから新聞記事持ってたのかよ!!!!』『卒論じゃないじゃん!!!!!!!嘘ついてたじゃん!!!!』『最初から探しに来たんだ……』
四万八千二百。千人近く跳ねた。
「卒論じゃなかったんだな」
俺は聞いた。
椎名は答えなかった。三秒。五秒。七秒。
「……半分は本当です。看護学生なのは本当です。卒論で緑ヶ丘病院を調べていたのも本当です。でも——」
「でも、おばあさんが被験者だった」
「はい」
「配信で標本室を見た」
「はい。瓶のラベルに『S.S.』って書いてあったのが映ってました。椎名幸子のイニシャルです。あの瓶に、おばあちゃんの——」
声が途切れた。
椎名の目が光っていた。逆光の影の中で、目の表面に液体が溜まっている。泣いているのか。泣いているとしたら、初めて見る椎名の感情だ。動じなかった女が、祖母の名前の前で泣いている。
「三十年探してました」
椎名の声が震えた。さっきまでの冷静な声とは別人だった。
「おばあちゃんは私が生まれる前に入院して、そのまま行方不明になったって母から聞いてました。退院した記録もない。死亡届も出てない。警察にも届けたけど見つからなかった。三十年間」
三十年。一九九四年から二〇二四年。生まれる前から消えていた祖母を、三十年探し続けた家族。その孫が、配信の画面に映った瓶のイニシャルを見て、ここまで来た。
話の筋が通った。不審点の半分が解消された。
卒論は嘘ではなかった。卒論のために緑ヶ丘病院を調べていたのは本当だ。だがその動機は学問ではなく、祖母だった。新聞記事を「前から持っていた」のは、祖母の失踪と病院を結びつけて調べていたからだ。配信を見て来たのも、祖母のイニシャルが映ったからだ。
だが——もう半分の不審点は解消されていない。
足音に粘りがないこと。顔の傷に動じなかったこと。沼田を「先生」と呼んだこと。窓ガラスの反射で白い手術着を着ていたこと。搬入口が一度だけ開いて椎名を通し、壁になったこと。建物が階段を用意したこと。
祖母を探しに来た孫。それは椎名美咲の一面だ。だが一面だけでは、全部の不審点は説明できない。
カルテの最終ページを開いた。
「N-project 対象」の赤いスタンプ。そして余白の手書き。
「回収済み」
椎名幸子の顔は、回収された。
その手書きの下に、もう一行あった。他のカルテにはなかった一行。万年筆の青いインクで、やや小さい字で書き添えられていた。
「血縁1=非血縁≒30。直系は効率最大」
血縁一人は非血縁約三十人に相当する。直系は効率最大。
カルテの余白に、沼田がメモを残していた。血縁者の観察効率。一人の血縁者が三十人分の観察圧を生む。椎名美咲は椎名幸子の直系の孫だ。直系は効率最大。つまり椎名美咲が配信を見ていれば、一人で三十人分の観察効果がある。
ここにいれば。この病院の中で、大悟の隣にいれば。三十人分。
そして沼田のメモの横に、さらに小さな文字があった。万年筆ではなくボールペン。別の時期に書き足されたものだ。
「婚約者・親友・長年の介護者——対象を"本物"として受容する者も≒30の可能性」
血縁だけではない。強い情緒的つながりを持つ者——対象を「本物」として受け入れる者も、同等の効率を持つ可能性がある。
この二行が意味することは——
「椎名さん。お前がここにいると、俺の同接が三十人分増えるのと同じ効果がある」
椎名がドアの枠から身を起こした。
「どういう意味ですか」
「沼田のメモがある。血縁者一人は非血縁の観察者約三十人分の分散効率を持つ。お前は椎名幸子の直系の孫だ。お前が俺を見ているだけで、同接が三十人増えたのと同じだけ呪いが薄まる」
椎名の顔が動いた。唇が半開きになった。知らなかった——という表情に見えた。だが知っていて驚いたふりをしている可能性もある。
「それは……私がここにいたほうがいいってことですか」
「呪いの計算上はそうだ」
「でも私はおばあちゃんの血縁で——大悟さんの血縁じゃない。大悟さんに対して三十人分の効率が出るんですか」
正しい指摘だった。沼田のメモは「血縁1=非血縁≒30」と書いてある。だが誰の血縁かは明記されていない。椎名幸子の血縁者が椎名幸子の呪いに対して三十人分の効率を持つのか。それとも、血縁者という属性そのものが呪いの分散効率を高めるのか。
答えはわからない。だが椎名がここにいる限り、検証はできる。同接が変わらないまま、剥離の圧力が変わるかどうか。
ガーゼの下の右頬を意識した。鈍い痛みは変わらない。だがここ数分、痛みのピークが来ていない。ピーク周期が延びた気がする。椎名が部屋に来てから三十分。三十人分の観察圧が加わったとすれば、四万七千は実質四万七千三十。誤差にもならない。だが三十人分の「質」が違うのだとしたら——
「おばあちゃんのカルテ、見せてもらえますか」
椎名が手を伸ばした。
渡すべきかどうか、〇・五秒迷った。このカルテは証拠だ。椎名幸子がN-projectの対象であったことの証拠。椎名美咲が嘘をついていた理由の証拠。そして沼田のメモ——血縁者の効率——が書かれた物的資料。
渡した。
証拠を独占しても意味がない。四万八千人がこの会話を聞いている。カルテの内容は俺が口頭で読み上げた。椎名に渡しても、情報は既に配信に乗っている。
椎名がカルテを受け取った。右手でカルテを持ち、左手でカメラを廊下に向け続けている。器用だ。だが器用すぎる。一般的な反応なら、祖母のカルテを見た瞬間にカメラのことなど忘れるはずだ。カメラを下ろして、カルテに集中するはずだ。それを左手だけでカメラ位置を維持したまま、右手だけでカルテを読んでいる。
感情と理性が分離している。祖母のカルテに感情を動かされながら、カメラの位置という理性的な判断を並行処理している。看護学生の冷静さで説明できる範囲を超えている。この女は、カメラの向きが生死を分けることを——俺が教えるまでもなく——体で理解している。
『ダイゴ気づいてる? この人カメラ一回も下ろしてないよ』『プロのカメラマンかよ』『看護学生にしては手慣れすぎ』
コメント欄が俺と同じことに気づいている。
椎名がカルテのページを捲った。入院時の所見。治療経過。皮膚科の処置記録。普通の治療の合間に、「N-project」の記号が散見される。普通の治療と実験が並行して行われていた。患者に知らせずに。
最終ページ。「回収済み」。
椎名の指がカルテの上で止まった。回収済み。祖母の顔が回収された。三十年前に。
「回収済み、って」
椎名の声が低かった。怒りではない。理解しようとしている声だ。理解したくないことを、理解しなければならないと覚悟している声。
「顔を、剥がされたってことですか。おばあちゃんの」
「そうだ。標本室の瓶の中に保存されてる。S.S.のイニシャルの瓶。お前が配信で見たやつ」
椎名がカルテを閉じた。丁寧に、端を揃えて。閉じた手が震えていた。指先が白くなるほどカルテの縁を握っている。
「知ってて来たんだよな。おばあさんの顔がこの病院にあるかもしれないって」
「……はい」
「じゃあ聞く。おばあさんの顔を、どうするつもりで来た」
椎名は答えなかった。
答えなかったのは、答えを持っていないからか。それとも、答えを言えないからか。
コメント欄に、一つのコメントが流れた。
『ねえ、椎名さんが嘘ついてたのはわかったけど、それより問題ある。搬入口が消えた。椎名さんも出られないんだよ。この人もダイゴと同じ状況に閉じ込められてるってことだよ??????』
正しい。椎名もまた、この建物から出られない。搬入口は壁になった。正面玄関は封鎖されている。窓は飛び降りれば骨折するし、そもそも窓の外に出られるかどうかも不明だ。
椎名は祖母を探しに来た。祖母を見つけた。カルテの中に。瓶の中に。だが出口は消えた。椎名もまた、この建物に飲み込まれた。
同接、四万八千八百。
また増えている。椎名の祖母の話が視聴者を引きつけている。
俺は他のファイルボックスを調べ続けた。一九九四年のカルテの束を戻し、棚の別の段に目を移した。年度ごとのカルテの他に、一つだけ異質なファイルボックスがあった。ラベルが違う。年度ではなく、アルファベットで「N-pj 追記」と書かれている。
開けた。中にルーズリーフが十数枚入っていた。沼田の筆跡。万年筆の青いインク。
一枚目。表題。
「被験者と観察者の関係に関する追加考察」
沼田の研究ノートだ。論文ではなく、私的な考察メモ。N-projectの追記。
読んだ。走り書きだが判読できた。
——観察の効率は均質ではない。赤の他人の視線は1として、血縁者の視線は概ね30倍の分散効率を示す。特に直系血族(子、孫)は効率が最大化する傾向がある。
——仮説:血縁者の視線が高効率である理由は、生物学的な遺伝子共有率ではなく、「その人間を本物として受容する強度」に依存する。血縁者は無条件に対象を本物として認識するため、認識の強度が高い。
——追加データ:血縁関係にない場合でも、対象との強い情緒的結合を持つ者——婚約者、親友、長年の介護者など——は血縁者と同等の効率を示す可能性がある。N=3で統計的有意差なし。追加検証が必要。
ルーズリーフを椎名に見せた。椎名はカメラを左手で保持したまま、右手でルーズリーフを読んだ。
「お前がここにいることの意味がわかった」
「……私が三十人分」
「そうだ。お前が俺の隣にいるだけで、同接が実質三十人増える。ただし、おばあさんに対する三十人分なのか、俺に対する三十人分なのかはまだ確認できてない」
椎名がルーズリーフを俺に返した。返すとき、指先が触れた。やはり冷たい。氷水に浸していたような冷たさ。八月の深夜。建物の中は涼しいが、人間の指がここまで冷える温度ではない。
ルーズリーフをポケットに入れた。証拠だ。沼田の研究データ。
「戻ろう。オフィスのほうが——」
言いかけて、止まった。
椎名が持つカメラの画面が見えた。液晶画面のプレビュー映像。カメラは廊下に向いている。グレーのパーカーが映っている。
距離が変わっていた。
七メートルだったのが、五メートルになっている。記録保管室のドア越しに見える廊下の向こうで、顔のない俺が二メートル近づいた。カメラが向いているのに。四万八千人が見ているのに。蛍光灯が点いているのに。
閾値が、完全に変わった。
四万八千人ではもう止められない。
「カメラ向いてるのに動いた」
椎名が画面を確認した。
「……本当だ。さっきより近い」
『動いてる!蛍光灯ついてるのに!』
四万九千三百。恐怖で千人以上跳ねた。だがもうそれは慰めにならない。五万人いても止められなかった。同接が増えること自体は安全を保証しない。顔のない俺の移動条件が根本的に変わっている。
そのとき、椎名が声を上げた。
「——後ろ」
反射的に振り返った。記録保管室の奥。三方の壁にスチール棚が並ぶ部屋の、一番奥の棚と壁の隙間。
白い服が立っていた。
白い手術着。膝下まである薄い生地の術衣。背中の紐が蛍光灯の漏れ光でうっすら見える。
体格が小さい。椎名美咲より小柄だ。百五十センチあるかないか。肩幅が狭く、手が細い。
顔がなかった。
グレーのパーカーの顔のない俺とは違う。白い手術着の——女型の顔なし。顔があるべき場所に、暗い空間が広がっている。眼窩の奥で、瞼のない眼球が二つ、濡れた光を放っている。
女型の顔なしの眼球が動いた。
俺を見なかった。
椎名を見た。
「椎名さん——あいつの目、お前を見てる」
グレーのパーカーの顔のない俺は、椎名を無視して大悟だけを追う。白い手術着の女型の顔なしは、大悟を無視して椎名だけを見ている。
一対一。被験者一人に対して、顔なしが一体。
実験が椎名美咲を新しい被験者として認識した。
「挟まれてる」
前方の廊下にグレーのパーカー。距離五メートル。背後の記録保管室の奥に白い手術着。距離三メートル。前と後ろ。二体の顔なしに挟まれている。
出口は、記録保管室のドアしかない。ドアの先は廊下。廊下にはグレーのパーカーがいる。背後には白い手術着。
蛍光灯がちらついた。暗転。〇・二秒。
再点灯したとき——白い手術着が一メートル近づいていた。三メートルが二メートル。棚と壁の隙間から、通路に出てきている。
「走れ」
椎名の腕を掴もうとした。掴めなかった。指が閉じない。握力がない。椎名の袖の布地が指の間をすり抜けた。
椎名が俺の手首を掴んだ。冷たい指が、手首の骨の上で締まった。強い力だった。看護学生の握力ではない。もっと古い、もっと深い場所から来る力だ。
「走ります。カメラは私が持ちます。廊下の右側、オフィスの方に」
走った。廊下に出た。右足が床の粘液に取られた。靴底が床に貼りつき、引き剥がすのに〇・三秒余計にかかった。椎名の足は粘らない。きゅ、きゅ、と軽い靴音で廊下を走る。俺だけが粘液に足を取られ、椎名に手首を引かれている。
蛍光灯がちらついた。暗転。
再点灯。背後を見た。白い手術着が記録保管室のドアから出ていた。廊下に立っている。距離、六メートル。
前方。グレーのパーカーは——沼田のオフィスのドアの横にいた。さっきより後退している。俺たちがオフィスに向かって走ったことで、相対距離が縮まった。
オフィスのドアを蹴り開けた。椎名と一緒に中に飛び込んだ。ドアを閉めた。机を押し戻した。ドアの前に机がぶつかった。バリケード。
呼吸が荒い。心拍が百二十を超えている。脱水と疲労の体で走ったせいで、視界の端が白く飛んだ。白い閃光。酸素不足の視神経が出す偽信号。
椎名は息を切らしていなかった。走ったのに呼吸が乱れていない。
ドアの向こうから、二つの音がした。
ぐちゅ。
右から。グレーのパーカーの粘膜音。
そして——
きし、きし。
左から。白い手術着の音。衣擦れのような、だが布ではない何かが擦れる音。乾いた、薄い皮が重なり合うような音。
二体の顔なしが、ドアの両側にいる。
椎名がカメラを構え直した。画面には沼田のオフィスの内部が映っている。机のバリケード。壁際の沼田のミイラ。そして、ドアの向こうから染み出してくる二つの音。
沼田のミイラの瞼が全開のまま、椎名を見ていた。大悟ではなく、椎名を。角膜の表面に、椎名の顔が映り込んでいた。
同接、四万九千三百。
五万に迫っている。だが五万では止められないことを、俺たちはもう知っている。
蛍光灯がちらついた。ドアの向こうで、二つの体が同時に動く気配がした。
——実験が、二人目の被験者を迎えた。




