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同接10万人いかないと顔の皮を剥がされる底辺配信者の俺、絶対に「ヤラセ」だと言い張ってデスゲームを生き抜く  作者: 今井 幻


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第7話「沼田」

 八月十五日、午前零時二十二分。


 デッドラインまで、一時間八分。


 バッテリー三十八パーセント。モバイルバッテリー一本目の残量表示が半分を切っている。給電ケーブルの接続が甘いのか、スマホの充電インジケータが点滅を繰り返していた。接触不良だ。ポケットの中でケーブルの根元が曲がっている。走って揺れて、端子に負荷がかかっている。


 同接、二万六千八百。


 俺は観察室の床に片膝をついたまま、顔のない俺の指が右頬に触れた状態で、十一分間を過ごしていた。


 あの「ダイゴ」という呼びかけが聞こえてからの十一分間、何もしなかったわけじゃない。もがいた。身体をねじって顔を引き剥がそうとした。首を振った。両手で顔のない俺の手首を掴もうとした。指がすり抜けた。椅子と同じだ。こちらから触ろうとすると、こいつの身体は実体を失う。なのに、こいつの指先だけが俺の頬に張りつき続けている。一方通行だ。向こうからは触れる。こちらからは触れない。


 もがいている間に見えたものがある。こいつの足元だ。マジックミラーの破片が散らばった床の上に、顔のない俺は浮いている。二センチの隙間を空けて、ガラスの上に。だがこいつが一歩動くたびに、足元のガラスの破片が白い粉になった。触れていないのに。浮いた足の下で、三センチ角のガラスの塊がさらさらと崩れ、砂糖のような粉末に変わっていく。粉は床の上に薄い膜を作り、こいつが通った跡だけが白い道のように残っていた。ガラスの硬度が、こいつの存在の圧力だけで崩壊している。触れてすらいないのに。


 結合組織が、ぷつ、ぷつ、と一本ずつ切れていく。右頬の浮きは三ミリから動いていない。同接が二万六千を維持している限り、剥離の速度は這うように遅い。だが止まってはいない。一分に一本ずつ、顔の裏側で糸が切れていく。


「このままじゃ持たない」


 声に出した。十一分間黙っていた。配信者が十一分間黙ったら、普通なら視聴者は離れる。だが同接は下がっていなかった。むしろ増えている。六百人増えた。俺の沈黙すら、コンテンツになっている。顔の皮膚が剥がれかけた男が無言でもがいている映像を、二万六千人が見ている。


「やることは一つだ。ここから出る。このドアを壊す」


 背後の鋼鉄のドアを振り返った。ハンドルはさっき押しても引いても蹴っても動かなかった。だが鋼鉄のドアにも物理的な限界がある。蝶番が三つ。上と中と下。蝶番を壊せばドアは枠から外れる。


 問題は、道具だ。


 床に転がっている回転椅子に目をやった。鋳鉄のフレーム。投げたとき、顔のない俺をすり抜けてファイルキャビネットにぶつかった。物理が通用しないのは顔のない俺に対してだけで、ドアやキャビネットには普通にぶつかった。つまり、椅子はまだ物理的な道具として使える。


 こいつの指が俺の頬に触れている。俺がこいつを掴もうとすると手がすり抜ける。だが、椅子を投げたとき、投げた椅子がこいつの身体を通過した。通過はした。しかし、こいつの指は俺の顔に触れている。一方通行。触れてくるのは止められないが、こちらからは干渉できない。


 待て。


 椅子はこいつの胴体を通過した。投げたときは。だが、投げる前に俺はこの椅子でマジックミラーを二回殴った。ガラスを砕いた。椅子は物理的な力でガラスを壊した。


 こいつの腕に、椅子の脚をぶつけたらどうなる。通過するのか。それとも、マジックミラーと同じように力が伝わるのか。


 投げたときはすり抜けた。殴ったときは割れた。投げると殴るで何が違う。接触時間か。投げた椅子は一瞬で通過した。殴ったときは振りかぶった勢いでガラスに押し当てた。接触が長い。


 いや、そんな理屈が成り立つかわからない。わからないが、やらなければ何も変わらない。


 俺は左手で床の回転椅子に手を伸ばした。右頬は顔のない俺の指に触れられたまま。身体を倒して左手を最大限に伸ばし、椅子の脚の先端に指がかかった。引き寄せる。鋳鉄の脚が床を擦る金属音がコンクリートの壁に反響した。


 椅子を左手で持ち上げた。片手では重い。だが脚の一本だけを振り下ろすなら、てこの原理で重さは足りる。


「退け」


 椅子の脚を、顔のない俺の右手首に向かって叩きつけた。投げるんじゃない。振り下ろす。


 鋳鉄の脚が、顔のない俺の手首に当たった。


 どちゃり、と嫌な音がした。


 ゴム質の、弾力のある抵抗感。肉でも骨でもない。鋳鉄の脚が当たった瞬間、手応えはあった。だが反発が来ない。椅子の脚がこいつの腕の中にめり込んでいく。沼に棒を突っ込んだときのように、表面が変形し、脚を吸い込み始めた。


 引き抜こうとした。抜けない。椅子を握った左手に、見えない無数の口が吸いついているような圧力がかかった。手首が引っ張られる。椅子ごと腕ごと、こいつの身体に取り込まれかけている。


「っ……!」


 腕の関節が外れる寸前まで引っ張られた状態で、脚を蹴り上げた。スニーカーの踵が椅子のフレームに当たり、てこの原理で鋳鉄の脚がこいつの腕から引き抜かれた。その反動で顔のない俺の右手が弾かれ、指先が俺の頬から離れた。


 接触が切れた瞬間、頬の皮膚が筋肉に貼り戻った。めり、という音の逆再生。浮いていた三ミリが一気にゼロに戻り、指で触れると隙間がない。


 だが安堵はなかった。左手を見た。椅子を握っていた掌の皮膚が、真っ白に変色していた。凍傷に似ている。こいつの身体に触れかけた掌が、体温を根こそぎ奪われている。十秒で感覚が戻ったが、指先の震えは止まらなかった。


 触れてはいけない。干渉すれば、向こうに取り込まれる。離すことはできた。だが次はもっと深く沈む。


 顔のない俺は、弾かれた右手をゆっくりと元の位置に戻し始めていた。速度は遅い。二万六千人の観察圧力が動作を鈍らせている。右手が俺の頬の高さに戻るまで、五秒。


 設計図に載っていない構造は、もう地下一階の奥で見つけていた。あのとき床が傾斜していたのに、俺は気づかなかった。


 金属が金属を殴る音が響いた。蝶番のネジが一本飛んだ。


 二撃目。蝶番の上段が歪む。もう一本ネジが飛ぶ。


 背後で、スン、と引きずり音がした。振り返る余裕はない。


 三撃目。上段の蝶番が枠から外れ、ドアの上部が三センチ手前に傾いた。


 中段の蝶番に狙いを変える。叩く。鋳鉄の衝撃が腕から肩に伝わり、肩甲骨の裏側まで痺れた。


 指先が、項を撫でた。


 首の後ろを、冷たい指が横切った。あの温度。概念の底を突き抜けた冷たさ。首筋の皮膚が収縮して、全身の毛穴が一斉に開いた。顔のない俺が、背後に立っている。右頬を狙っていた指が、俺が向きを変えたことで首の後ろに回った。


 悲鳴を噛み殺して、もう一撃。中段の蝶番が飛んだ。ドアの上半分が枠から外れ、三十度の角度で手前に倒れかかった。


 体当たりした。ドアの下段の蝶番が軋み、金属が捻れる悲鳴を上げ、ドアが枠から完全に外れて標本室側に倒れた。重い鉄板がコンクリートの床に叩きつけられる衝撃が、足の裏から頭蓋骨まで震わせた。


 俺はドアの上を飛び越えて標本室に転がり出た。


 振り返った。観察室の中に、顔のない俺が立っている。マジックミラーのガラス枠の手前。俺が叩き壊したドアの向こう側。瞼のない茶色の眼球が、倒れたドアの隙間からこちらを見つめていた。


 動かない。


 一歩も追ってこない。ドアが倒れた開口部が目の前にあるのに、そこを越えようとしていない。


「出てこない……?」


 壊れたドアの隙間から、瞼のない茶色の目がこちらを見つめている。動かない。一歩も追わない。


 安堵が込み上げかけた。その一秒後に、足元が動いた。


 ホルマリンの水たまりの中で、俺の顔の皮膚片が蠢いていた。乾いて動かなくなったはずの口の部分が、痙攣するように開閉している。声は出ていない。


 ずるり、と。


 皮膚片の裏側に残った薄い筋肉の繊維が動いた。無数の虫の足のように床の表面を掻き、自らの肉体を牽引し始めた。俺から離れる方向へ。壊れたドアの開口部に向かって。あいつの足元に向かって。数センチずつ、ホルマリンの水たまりの中を滑りながら。


 這っているのではなかった。俺の細胞が、本来の主を見捨てて、あいつの顔面の一部になるために帰還しようとしているのだ。


 追う必要がないのだ。


 俺がどこに逃げても、この頬の皮膚は剥がれ続ける。剥がれた分は、あいつのもとに自動的に集まっていく。距離は関係ない。俺が走れば走るほど、身体から落ちた破片がこいつに吸い寄せられていく。逃げたのではない。処刑の時間を数分引き延ばしただけだ。


 標本室の瓶が光った。二百本の瓶の中のホルマリンが、リングライトの光を受けて同時にきらめいた。四百の眼窩が、まだ俺を向いている。


 膝が笑っている。椅子を叩きつけた左手が痙攣していた。凍傷のように白くなった掌を握り締めた。項に触れた冷たさの残像が、首の後ろにまだへばりついている。


 同接、二万七千四百。


 標本室を通り抜け、坑道を走り、地下一階の廊下に出た。


 廊下が、狭くなっていた。


 最初に降りたとき、幅は二メートルほどだった。両手を広げれば壁に届くが、肩がぶつかるほどではなかった。今、右手を伸ばすと壁に指先が触れ、左手を伸ばすと反対側の壁にも届いた。幅が一メートル半に縮んでいる。


 天井も低い。さっきは腕を上げれば指先が届くくらいだった。今は、手を挙げると掌がコンクリートの天井に当たる。手を挙げる前に頭のてっぺんに圧迫感がある。あと十センチ低ければ、歩くときに首を曲げなければならない。


「病院が……縮んでる?」


 壁のコンクリートに手を当てた。乾いている。ひび割れていない。壁そのものが動いた痕跡はない。だが幅が狭い。天井が低い。設計図の寸法とは明らかに違う。


 設計図に載っていない構造が、すでに第三話の時点で存在していた。床が傾斜していたのに気づかなかった。この病院は、設計図通りの建物ではない。最初からそうだったのか、俺が入ってから変わったのか。どちらにしても、今この瞬間、廊下は確実に狭くなっている。


 階段を駆け上がった。十七段。一階のロビーに出る。


 ロビーも変わっていた。受付カウンターの位置が、入ったときより壁に近い。カウンターの奥に延びていた二本の廊下のうち、右の廊下の突き当たりが見えていた。さっきは暗くて見えなかったのではない。廊下そのものが短くなっている。十メートル以上あったはずの廊下が、五メートルほどで壁に突き当たっている。


 左の廊下は、もっと異常だった。三メートルで行き止まりになっていた。突き当たりの壁に、上への階段があった。


 設計図にはない階段だ。内ポケットの設計図を引っ張り出す必要もなかった。一階の左廊下に上り階段は存在しない。この病院は三階建てだが、一階から二階への階段は建物の右翼にある。左翼にはない。ないはずの場所に、コンクリートの打ちっぱなしの階段が口を開けていた。


「みんな、見てるか。設計図にない階段がある。建物が勝手に変わってる。廊下も短くなってる。この病院は生きてるのかもしれない」


 同接、二万七千八百。


『生きてるって何だよ』『構造変わるのか?』『ダイゴ上行くな! 地下に戻れ!』『いや地下は顔なしがいるだろ』『上に何があるか見てこい』


 階段を上るか、一階に留まるか。地下には顔のない俺がいる。一階の出口は全部封鎖されている。消去法で、上しかない。


「上に行く。地下は顔なしがいる。一階は出口がない。上に行くしか選択肢がない。情報がなくて突っ込むのは怖いが、一階に座って待っていてもデッドラインが来るだけだ」


 階段を上った。十二段。地下への十七段より短い。踊り場はなく、直線の階段が一本だけ。上がりきると、短い廊下が一本延びていた。ドアが三つ。左に一つ、右に二つ。壁は一階の白い塗装ではなく、木目のパネルが貼られていた。病院の病棟ではなく、事務フロアの造りだ。


 一番奥のドアに、ネームプレートがあった。


「沼田」。


 同接、二万八千三百。


 足が止まった。論文の著者名「沼田」。カルテのラベルを三十七年間書き続けた万年筆の筆跡。観察者数を赤いボールペンで記録していた人間。この実験の設計者の名前が、ドアのプレートに刻まれている。


 ドアノブに手をかけた。回る。鍵はかかっていない。


 押し開けた。


 匂いが違った。ホルマリンでも消毒液でも腐敗でもない。古い革と、乾いた紙と、インクが酸化した匂い。書斎の匂いだ。長年使い込まれた万年筆のインクが壁紙に染み込んだような、時間の堆積した匂い。


 部屋は六畳ほどの個室だった。窓が一つ。窓の外は暗い。月明かりも街灯もない。一階のロビーからは駐車場が見えたが、ここからは何も見えない。窓ガラスの向こうに、光を吸い込む黒がぴったりと貼りついている。


 正面に執務机。木製の、天板に傷の多い、使い込まれた机。その上にスタンドランプ。こちらは電球が入っていた。俺が部屋に入った瞬間、スタンドランプが点いた。触っていない。スイッチを入れていない。暖色の光が机の上を円形に照らした。


 机の後ろに、キャスター付きの事務椅子があった。


 椅子に、人間が座っていた。


 白衣。灰色に変色した白衣。座った姿勢のまま、背もたれに寄りかかっている。両手は肘掛けの上に置かれ、足は床についている。影がある。足が浮いていない。


 顔のない俺とは違う。影がある。地面を踏んでいる。地下でリョウキの録画を見たときに立てた仮説では、「本物」に分類される。


 頭が前に傾いでいて、顔が見えない。俺は一歩近づき、リングライトの光を当てた。


 皮膚は革だった。人間の皮膚が生きているうちに持つ水分と弾力をすべて失い、ハンドバッグの革のように硬く、乾燥して褐色に変わっていた。手の甲に浮いた血管は干からびた蔓のように浮き上がり、指の関節は曲がったまま固着していた。首の皮膚に縦の皺が何本も走り、筋肉の上で皮膚がぴったりと張りついている。水分がゼロだ。ミイラだ。白衣の下の身体も同じ状態だろう。死後何年経っている。十年か。二十年か。


 だが、顔だけが違った。


 俺は声を失った。二度目だ。今夜、声が出なくなるのは二度目だ。


 ミイラの顔面だけが、完璧に保存されていた。


 額の皮膚は張りがあり、頬には血色があった。唇はわずかにピンク色で、乾燥のひび割れ一つない。五十代の男の顔。短い白髪交じりの髪。そして目。


 目が、開いていた。


 瞼があった。瞼があって、その瞼が三分の二ほど開いた状態で固まっている。虹彩は薄い灰色で、眼球の表面には瑞々しい光沢があった。涙に濡れているように見えた。乾いていない。二十五年前に死んだ人間の目が、乾いていない。


 俺が部屋に入ったとき、この目は前を向いていた。今、俺がリングライトで照らしている。薄い灰色の目が、光を受けて微かに収縮した。


 瞳孔が動いた。


 死んでいるのか生きているのか。ミイラの身体に、生きている顔が載っている。


「沼田……」


 呟いた。ネームプレートの名前。論文の著者。三十七年間の実験者。こいつが、すべてを設計した人間か。


 ミイラの膝の上にスマホが載っていた。


 黒いケースに入った、最新のモデル。ミイラが持っているにはあまりに不釣り合いだ。この部屋の他のものはすべて古い。机も椅子も白衣もスタンドランプも、最低でも二十年は経っている。スマホだけが、今年のモデルだ。


 画面に触れた。ロック画面が表示された。顔認証。


 俺はスマホのカメラをミイラの顔に向けた。瑞々しい顔面。灰色の眼球が、カメラのレンズを見返した。


 ロックが解除された。


「顔認証が通った。死体の顔で。死んでるのに、顔だけ生きてるから認証が通る……」


 同接、二万八千九百。


 ホーム画面が表示された。アプリが並んでいる。メール。ブラウザ。配信アプリ。


 配信アプリを開いた。アカウント名を確認する。


「明日のダイゴ」。


 フォロワーゼロ。フォローゼロ。アイコンは初期設定のグレーの人型。あの十万円スパチャを送ったアカウント。被験者登録を通知したアカウント。地下に降りるなと警告し、正面を閉じたと告げ、「ようこそ」と歓迎したアカウントは、ここにいるミイラのスマホに入っていた。


 スパチャの送信履歴を開いた。七件の送信記録が時刻とともに並んでいる。


 一件目。¥100,000。送信時刻、午後十時三分。


 俺が配信を開始したのは午後十時ちょうどだ。開始三分後に十万円のスパチャが届いた。


 二件目以降の送信時刻を見た。全部、今夜の時刻だ。俺の配信中に、このスマホからスパチャが送られている。


 だが、一件目だけが引っかかった。


 送信時刻、午後十時三分。この部屋にいるミイラが、少なくとも二十年以上前に死んでいるとすれば、今夜スパチャを送ることは物理的に不可能だ。死体の指ではスマホの静電容量式タッチパネルは反応しない。革のように乾いたミイラの指では、なおさら。


 誰がこのスマホを操作した。


 沼田は死んでいる。身体はミイラだ。だが顔だけは生きている。顔だけが。


 顔認証が通った。眼球の瞳孔が動いた。顔面だけが、二十五年の腐敗を免れている。この病院で「顔」は特別な意味を持つ。瓶に保存され、剥がされ、収集される。沼田の顔が保存されているのは、沼田自身が実験の一部になっているからか。


 だとすれば、このスパチャを送ったのは沼田ではなく、沼田の顔を使って沼田のスマホを操作した「何か」だ。


 実験そのものだ。病院が正面玄関を閉じたように。廊下を短くしたように。蛍光灯を割ったように。この建物の中のすべてが実験の一部であり、沼田のミイラの顔も、そのスマホも、「明日のダイゴ」というアカウントも、実験を運営するための器官として機能している。


 スパチャの一件目の時刻をもう一度見た。午後十時三分。配信開始三分後。


 だが沼田の死亡推定時刻は一九九九年だ。閉院の年。二十五年前。二十五年前の死者のスマホから、今夜スパチャが送られている。送った主体は沼田ではない。では誰だ。


 ログイン履歴を確認した。「明日のダイゴ」のアカウントに、最後にログインした日時が表示されている。


 二〇二四年八月十四日、午後九時五十八分。


 俺が配信を開始する二分前。


 この端末から、ログインした誰か――あるいは何かが、二分後に始まる配信を待ち構えていた。


 コメントを読む。


『沼田って誰だよ』『スマホ新しすぎね?』『ミイラが配信見てんの?』『明日のダイゴの正体かよ!』


『ニュースサイトに来てるぞ 「茨城の廃病院で配信者が閉じ込められる 県警が確認中」』


 同接、二万九千百。


 三万に迫っている。ニュースサイトが記事にした。県警が動いている。外の世界が、この配信に気づき始めている。


 俺はミイラのスマホを握ったまま、沼田の灰色の目を見下ろした。瞳孔がわずかに拡大していた。さっきより開いている。部屋に入ったときは三分の二だった瞼が、今は四分の三まで開いている。見開こうとしている。


 ミイラの口元が動いた。


 動いていない。唇は閉じたままだ。だが唇の下で、舌が動いた気がした。乾いた皮膚の下で、何かが蠕動する微かな隆起。見間違いかもしれない。スタンドランプの暖色の光が陰影を作っているだけかもしれない。


 俺は一歩後ずさり、ドアの枠に背中を当てた。


 デッドラインまで、五十九分。


 同接は二万九千百。十万人まであと七万九百人。一時間で七万人。不可能に近い。だが、ニュースサイトが動いた。県警が動いた。トレンドの順位が上がっている。深夜のこの時間帯から朝にかけて、SNSの拡散が加速する可能性がある。


 だがデッドラインは午前一時半だ。朝まで持つ必要がある。一時間で七万人を集めなければ、俺の顔は瓶に収められる。


 沼田の灰色の目を見下ろした。こいつは死んでいる。二十五年前に。


 なら、誰が今夜、俺にスパチャを送った。誰がこの病院を運営している。誰が正面玄関を閉じ、廊下を縮め、蛍光灯を割り、被験者を登録した。


 背筋を冷たい水が這い上がるような感覚とともに、一つの事実が組み上がった。沼田は設計者だ。だが、もはや管理者ではない。こいつが作り上げた仕組みは、主が死んだ後も全自動で動き続けている。二十五年間。新しい犠牲者を呼び込み、瓶を用意し、顔を剥いで収納する。スマホを操作してスパチャを送る。建物の構造を変える。すべて自動で。


「……十万人集めたところで、終わらないのか」


 乾いた声が漏れた。逃げ切れば助かると思っていた。デッドラインまで耐えれば朝が来ると思っていた。だが違う。このシステムの心臓を止めない限り、次の配信者が来る。次のリョウキが。次の俺が。


 カメラを握る手に力を込めた。沼田のスマホに、心臓部へのアクセス権があるはずだ。止め方を見つける。十万人を集めるのと並行して、この仕組みの急所を探す。


 同接、二万九千百。動いていない。二百人が入って二百人が出て、数字が横ばいになっていた。三万の壁。深夜零時半の壁。ここから先は、ニュースが朝のワイドショーに届くまでの時間帯だ。SNSの拡散だけでは限界がある。


 その時、画面の端にコメントが一つ流れた。他のコメントとは違う色のフォントだった。配信アプリの運営からの通知。


『本配信はコミュニティガイドラインの審査対象です。内容を確認中です。』


 審査。


 審査対象。つまり、この配信がBAN――強制停止される可能性がある。


 配信が止まれば同接はゼロになる。ゼロになった瞬間、二万九千人で割られていた呪いが全量で俺に返る。顔が一瞬で剥ぎ取られる。


 午前一時三十分の物理的リミットに加えて、いつ執行されるかわからない運営の刃が首の後ろに当たった。


「ふざけるな」


 だが、怒鳴った直後に頭の中で何かが切り替わった。四年間の底辺配信で培った、視聴者の感情を読む回路。怒りで叫んでも運営は動かない。動かすには、BANのコストを上げるしかない。


 スマホのカメラを掴み直し、充血した目でレンズを睨みつけた。口角が引き攣った。恐怖が限界を超えると、人間の脳は生存のために狂気を分泌する。今がそれだった。


「おい。運営。審査してるなら聞け。大いに結構だ。だがBANするなら覚悟しろ。画面が暗転した瞬間、俺の顔面は筋肉から剥がれ落ちる。そのグロテスクな死体映像は二万九千人のスマホに刻まれる。ただの規約違反じゃない。お前らが停止ボタンを押して一人の人間を殺した、デジタルのスナッフビデオだ」


 一度言葉を切った。


「二万九千人が証人だ。視聴者。頼むから画面録画しておいてくれ。俺が消されたとき、消した奴に突きつける証拠になる」


 コメント欄が激流になった。


『録画してる』『録画した』『運営マジでやめろ!』『BANしたらお前らが殺したのと同じだぞ』『いや規約違反は規約違反だろ』『証拠って言い方がガチすぎて怖い』


 デッドラインが、二つになった。


 沼田の灰色の目が、スタンドランプの光の中で俺を見上げていた。瞼が、五分の四まで開いていた。笑っているように見えた。

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