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同接10万人いかないと顔の皮を剥がされる底辺配信者の俺、絶対に「ヤラセ」だと言い張ってデスゲームを生き抜く  作者: 今井 幻


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第6話「境界の崩壊」

 八月十五日、午前零時一分。


 日付が変わった。スマホの時計が十四日から十五日に切り替わる瞬間を、俺は観察室の回転椅子に座ったまま見ていた。標本室の壁に嵌め込まれたプレートの数字――01:30:13。あと一時間二十九分で、俺の顔は瓶に収められる。


 バッテリー四十一パーセント。モバイルバッテリー一本目の残量表示は六十三パーセント。二本目が最後の予備。充電が切れた瞬間に配信が死んで、同接がゼロになって、俺の顔が剥がれる。電力と命が直結している状態で、日付だけが静かに変わった。


 同接、二万百。


 二万を超えていた。観察室に逃げ込んでから、千人近く増えている。時刻が変わったことでSNSのアルゴリズムが働いたのか、深夜帯の視聴者が流入してきたのか。理由はどうでもいい。数字が増えれば俺の頬は剥がれない。数字が増えれば視聴者の家にホルマリンの匂いが届く。


 コメント欄は荒れていた。


『人殺し』


 その言葉が、画面の上部に固定表示されていた。スパチャではない。通常コメントだ。だが同じ文面が、三十秒に一回の頻度で異なるアカウントから投稿されている。コピペか、あるいは同じ人間が複数アカウントで連投しているのか。


『見てるだけで呪いが来るんだろ? リスナー殺してる自覚あんのか?』


『◯◯ちゃんまだ入室中なのに返事ない。お前のせいだろ』


『通報した。県警に電話した。茨城県警に緑ヶ丘廃病院って伝えた』


『#ダイゴ配信 トレンド入りしてるぞ』


『配信止めろよ殺人犯』


『止めたらダイゴが死ぬんだよ それでいいのかよ』


『いいだろ 一人死ぬのと二万人巻き込むのどっちがマシだよ』


 コメント欄が裂けている。常連の女の子が沈黙してから生まれた亀裂が、この三十分で地割れに変わっていた。「止めろ」派は俺を殺人犯と呼び、「続けろ」派は生存の権利を主張している。そのどちらにも属さない大多数は、沈黙したまま画面を見つめている。沈黙している人間が一番多い。二万人のうち、コメントを打っているのは百人にも満たない。残りの一万九千九百人は、ただ見ている。


 消えた常連の女の子のアカウントが、まだ入室中のまま残っている。アイコンの横に緑色の丸い印。オンラインを示すインジケータ。「ヘや、はがされ」と打ったきり沈黙して、もう二十分以上が経っている。退室していない。退室していないということは、配信アプリ上では「視聴者」としてカウントされ続けている。


 生きているのか死んでいるのか。死んでいるなら、死んだ人間のスマホが画面を開いたまま床に落ちて、アプリが起動し続けている。死体が俺を見ている。


「……動け」


 自分の頬を、両手で叩いた。乾いた音が観察室に反響する。痛い。痛みがあるということは、まだ顔がある。ここに皮膚がある。剥がれていない。


「動け。止まったら死ぬぞ」


 配信は止められない。同接が落ちれば俺の顔が剥がれる。リスナーが死ぬ? 知るか。今は俺の命が先だ。俺が死んだら配信が終わって、どのみち分割もゼロになる。俺が生きてる限り呪いは二万で割れてる。死んだら割る母数がなくなって全部が視聴者に返る。だから俺が生きることが全員の――いや、違う。そんな綺麗な理屈じゃない。ただ死にたくない。四年間底辺を這いずって、やっと二万人が見てくれてるこの夜に、顔を握りしめて死にたくない。


 何かあるはずだ。この実験をひっくり返す何かが。まだ開けていない二台目のキャビネットを睨みつけた。


 二台目のファイルキャビネットに手をかけた。一台目がカルテだった。二台目は何だ。引き出しを引く。金属のレールが錆びた音を立てて滑った。


 中にはカルテのフォルダではなく、黄ばんだA4用紙の束がクリアファイルに挟まれていた。上部に「N-project」のヘッダーと「Draft」の透かし。論文の下書きらしい。著者名の欄に手書きで「沼田」の二文字。


 十二ページある。全文を読む時間はない。一時間半もない。紙をめくった。活字の隙間に、万年筆の殴り書きがびっしりと詰め込まれている。カルテのラベルと同じ筆跡だ。数式があり、グラフの走り描きがあり、何度も書いては消した痕がある。


 その中で、一箇所だけ赤い万年筆で囲まれた図があった。


 紙の右下。手描きの簡易図。左に四角い箱、右に四角い箱。左の箱には「観察室」、右の箱には「被験者」と書かれ、二つの箱の間を仕切るように太い線が引かれている。線の上に一語。「境界」。


 左の箱の上に走り書き――「100,000↑で致死量の無効化」。


 右の箱の下に別の走り書き――「境界保持が絶対条件。欠損時→崩壊」。


 十万人。境界。崩壊。


 同接、二万千五百。「人殺し」のコメントと「#ダイゴ配信」のトレンド通知が交互に流れていく。読んでいる暇はない。


 走り書きはさらに続いていた。図の脇に小さな字で「瞬間到達のみでは閉鎖不完全の可能性あり」「保持時間:未確定」。だが赤い万年筆で最も強く囲まれているのは「境界」の二文字と「欠損時→崩壊」の矢印だった。


「十万人なんか集められるわけないだろ。今二万だぞ」


 震える声で吐き捨てた。十万人。今の五倍。深夜の一時間半で五倍に増やすなんて、物理的に不可能だ。


 だが――「欠損時→崩壊」。


 この実験には構造がある。構造には弱点がある。十万人を集めて正面から突破するのが無理なら、構造そのものを壊せばいい。


 ――境界。観察者と被験者を分けるもの。


 俺は顔を上げた。この部屋に入ってから、俺に何が起きたかを思い返した。ファイルキャビネットを開け、カルテを読み、走り書きの図を見つけた。その間、頬の皮膚は浮かなかった。同接は二万を超えていた。標本室の床で顔の皮膚に名前を呼ばれたときよりも、ここにいる間のほうが安全だった。


 なぜだ。同接数はほとんど変わっていない。変わったのは俺の位置だ。標本室から、この観察室に移動した。この部屋は観察する側の部屋だ。マジックミラーのこちら側。向こうに被験者がいて、こちらから一方的に見る。見られる側からは見えない。


 この非対称性が俺を守っていた。俺が「観察する側」に座っている限り、「観察される側」のルールが適用されない。


 左の壁。部屋の半分を占める、幅四メートルのマジックミラー。こちらからは向こうが見え、向こうからはこちらが見えない。三十七年間、この一枚のガラスが観察者と被験者を分けてきた。


 これが境界だ。こいつを壊せば、「欠損」する。欠損すれば実験が崩壊する。沼田が赤い万年筆で二重に囲むほど重要な条件なら、それを壊せば全部終わる。


 影で見分けられると思った。壊れた。サブカメラで監視できると思った。壊れた。瓶を割れば逃れられると思った。壊れた。三回壊れた仮説の四回目。だが今回は実験者自身の手書きだ。こいつの設計図の急所を突く。


「マジックミラーを壊す」


 声に出した。理屈が正しい自信があるんじゃない。他に手がないだけだ。


 コメント欄が反応した。


『壊すな!罠だ!』『やれ!実験ぶっ壊せ!』『また失敗するだろ』『でもやるしかないだろ今の状況』


 同接、二万二千。


 賛否は半々。だが、賛成か反対かは関係ない。俺が決める。ここにいるのは俺一人で、殴れるのも俺だけだ。


 回転椅子から立ち上がった。椅子を持ち上げる。鋳鉄のフレームにクッション座面が載った構造で、重い。五キロか六キロはある。両手で掴んで腰の高さまで持ち上げると、腕に筋肉痛の予兆が走った。コンビニのおにぎり一個で二時間以上動き回った身体に、鋳鉄の椅子は重すぎる。


 マジックミラーの前に立った。


 ガラスの表面に、リングライトに照らされた俺の顔が映っている。グレーのパーカー。目の下の隈。乾いた唇。配信開始時のサムネ用の大袈裟な表情とは似ても似つかない、疲弊した二十七歳の顔。


 ガラスの向こうに、暗い治療室がぼんやりと透けている。リクライニングチェア。点滴スタンド。


「壊す」


 椅子を振りかぶった。鋳鉄のフレームの角をガラスの中央に叩き込む。


 衝撃が両腕を突き抜けた。手首から肘、肘から肩へ。歯の根元がかちりと鳴るほどの振動が頭蓋骨を揺らした。ガラスの表面にヒビが走る。蜘蛛の巣状の亀裂が中心から放射状に広がり、反射していた俺の顔が十数個の断片に分裂した。


 二撃目。ガラスが砕けた。


 破片が治療室の床に降り注ぐ音は、標本室で瓶を割ったときとは質が違った。厚い。重い。マジックミラーのガラスは通常のガラスの三倍近い厚みがあり、落下する破片の一つ一つが鈍い衝撃音を立ててタイルに当たった。


 風が変わった。


 治療室の空気が観察室に流れ込んできた。消毒液の匂いだ。一階のロビーで最初に嗅いだあの匂い。だが濃度が段違いだった。瓶詰めの消毒液を鼻の穴の入口で開けたような、粘膜を焼く鋭さ。涙が反射的に溢れて、まばたきが三回続いた。


 まばたきの三回目を開けたとき。


 治療室のリクライニングチェアに、誰かが座っていた。


 さっきまで空だった。マジックミラー越しに何度も確認した。リクライニングチェアの上には何もなかった。ガラスを割るまでの数秒間、俺はガラスを見ていた。ガラスの向こうの治療室を見ていた。それでも、ガラスが砕けた瞬間――破片が降り注ぐ数秒間、視界が破片と粉塵で塞がれていた、その隙に、座った。


 グレーのパーカー。黒いジーンズ。白いスニーカー。


 俺と同じ服を着た人間が、リクライニングチェアの上で背もたれに寄りかかっていた。両手は膝の上に置かれ、足は床から二センチほど浮いている。スニーカーのソールとタイルの間に、はっきりと隙間が見えた。リョウキの動画で見たのと同じだ。影がない。足が浮いている。


 顔が、なかった。


 額から顎まで、皮膚が一枚もない。リョウキの死体と同じピンク色の筋肉が露出し、頬骨の上で白い脂肪の層がリングライトの光を受けて湿っている。鼻の軟骨が剥き出しで、鼻腔の暗い穴が二つ並んでいる。唇がないから歯茎と歯が剥き出しで、上下の歯列が微かに開いている。


 そして目。


 瞼がなかった。瞼がないから、眼球が常にむき出しのまま露出している。リョウキの死体の眼球は白濁して曇りガラスのようだった。だが、こいつの眼球は違う。透明で、瑞々しくて、虹彩の色がはっきりと見えた。


 俺と同じ色の虹彩だった。


 茶色。日本人に多い、濃い茶色。光を受けて縮瞳している。生きている目だ。死んだ目じゃない。


 こいつは俺だ。


 俺の服を着て、俺の目を持ち、俺の顔だけがない。


 声が出なかった。息を吸おうとしたが、肺が動かなかった。横隔膜が痙攣して、ヒュッという擦れた音だけが喉から漏れた。


 マジックミラーを壊した。境界を壊した。観察者と被験者を分けるガラスを砕いた。


 砕いた結果がこれだ。


 あの走り書きの図が脳裏に焼きついた。左の箱「観察室」、右の箱「被験者」、その間を仕切る太い線「境界」。「欠損時→崩壊」。崩壊するのは実験だと思った。違った。崩壊したのは境界だけだ。実験は壊れていない。境界がなくなった場所に、観察室にいた俺が放り込まれた。観察する側と観察される側の区別が消えて、区別がない以上、俺は「被験者」の箱に入る。


 仮説は四度目の崩壊だった。


 顔のない俺が、リクライニングチェアからゆっくりと立ち上がった。


 靴音がしなかった。白いスニーカーがタイルの上に降りる瞬間、接地の音がなかった。ガラスの破片を踏んでいるはずなのに、パキリともジャリとも鳴らない。重さがない。物理的にそこに立っているのに、床に力を伝えていない。


 代わりに、別の音がした。


 スン。


 湿った何かをコンクリートの上で引きずる音。階段の下で聞いた、あの音。廊下の奥から迫ってきた、あの音。こいつだった。こいつがあの音の正体だった。


 スン、スン。


 一歩ずつ、近づいてくる。ガラスの破片が散らばった治療室の床を、音もなく踏みながら。引きずり音だけが響いている。何を引きずっているのかわからない。足は見えている。手も見えている。何も引きずっていない。なのに、あの湿った摩擦音だけが、一歩ごとにこちらに近づいてくる。


 距離が縮まるたびに、消毒液の匂いが濃くなった。さっきガラスが割れた瞬間に流れ込んできたあの匂いが、こいつの身体から直接滲み出ている。一歩近づくごとに粘膜の奥が焼け、咳き込みたいのに喉が硬直して息が吐けなかった。


 俺は後ずさった。観察室の中に。ガラスの枠を挟んで、三メートル。


 背中が当たった。


 観察室のドア。標本室に戻るための鋼鉄のドア。ハンドルを掴んで押し下げた。


 動かない。


 さっき開いたドアだ。ハンドルが磨かれていたドアだ。それが今、コンクリートの壁と一体化したかのように動かない。体重をかけても、蹴っても、ドアは鉄の塊としてそこに在り続けた。


 閉じ込められた。


 一階の正面玄関と同じだ。入ることはできる。出ることはできない。


 顔のない俺が、ガラスの枠をまたいで観察室に入ってきた。治療室と観察室の境界を、何の抵抗もなく越えた。もう境界がないからだ。俺が壊したからだ。


 距離、二メートル。


 瞼のない目が、俺を見ている。虹彩が縮瞳したまま固定されている。顔の筋肉がないのに、表情筋の代わりに剥き出しの筋繊維が微かに動いた。口を開こうとしているのか。歯列の間から、透明な唾液に似た液体が一筋、顎の下に垂れた。


 一メートル半。


 スマホの画面が視界の端で光った。同接、二万二千八百。コメント欄が濁流のように流れている。読めない。読む余裕がない。


「見てる! お前ら見てるだろ! なんで止まらないんだ!」


 叫んだ。二万二千八百人が見ている。見られていれば動けないはずだ。リョウキの死体はサブカメラの前で静止した。一万人の視線で釘付けにできたはずだ。


 こいつは、止まらない。


 二万人以上が見ている配信画面の中で、顔のない俺は一歩ずつ距離を詰めてくる。視線が通用しない。リョウキの死体とは違う。リョウキは「死体」だった。影があり、重さがあり、地面を踏んでいた。こいつは影がなく、重さがなく、浮いている。死体じゃない。「見られていれば止まる」が適用されるカテゴリの外にいる。


 一メートル。


 顔のない俺の右手が持ち上がった。五本の指が広がっていく。指先が俺の顔に向かって伸びてくる。爪の形が見えた。俺と同じ爪だ。深爪の癖まで同じだ。


「来るな!」


 回転椅子を投げた。さっきマジックミラーを壊したのと同じ鋳鉄のフレームを、両手で持ち上げて顔のない俺に向かって叩きつけた。


 椅子はすり抜けた。


 鋳鉄のフレームが顔のない俺の胴体を通過して、背後のファイルキャビネットに激突した。金属と金属がぶつかる轟音が観察室に反響した。顔のない俺はそこに立ったまま、椅子が通過した事実を認識すらしていないように、一歩を踏み出した。


 物理が通じない。


 境界を壊した代償だ。境界があった間は、観察者と被験者の間にガラスがあり、ルールがあり、距離があった。全部壊した。壊した結果、こいつは物理法則すら超越して、俺の目の前に立っている。


 七十センチ。


 スマホのフラッシュライトを起動した。最大光量。リングライトの何倍も強い白色LEDの光を、顔のない俺のむき出しの眼球に叩きつけた。暗順応した目にこの光量を浴びれば、人間なら反射的に手で遮る。縮瞳する。目を閉じる。


 透明な眼球は、光を受けても生き物の反応を返さなかった。光がそのまま虹彩を透過していく。瞳孔が縮まりもしない。カメラのセンサーに光を当てても画像が白飛びするだけで、レンズが痛がったりしないのと同じだ。こいつの目は人間の目じゃない。人間の目の形をした、別の何かだ。


 指先が顔の前に迫っている。五本の指が俺の右頬に向かって伸びている。あの場所だ。さっき皮膚が浮き上がった場所。右頬の下端、顎の手前。


 俺はスマホを掴み直した。


「拡散してくれ」


 最初に地下へ降りる前、ロビーで口にしたのと同じ言葉だった。


「人数がいる。もっと要る。十万人。さっきの走り書きに書いてあった。十万人いれば致死量を無効化できる。今二万ちょっとしかいない。全然足りない。SNSに貼れ。友達に送れ。ニュースサイトにタレ込め。なんでもいい。ここに人を集めてくれ」


 顔のない俺の指先が、右頬に触れた。


 冷たかった。氷よりも冷たい。金属よりも冷たい。温度という概念の底を突き抜けたような冷たさが、指先の一点から頬骨を貫いて頭蓋骨の中心まで到達した。歯がガチガチと鳴った。全身の筋肉が一斉に硬直して、膝が折れた。床に片膝をついた体勢で、見上げる形になった。顔のない俺が見下ろしている。瞼のない茶色の目が、俺の目を覗き込んでいる。


 右頬の皮膚が、めり、と湿った音を立てて浮いた。


 同接の数字は見えなかった。だが頬の感覚ではわかった。さっきの一時的な浮きとは比較にならない。皮膚と筋肉の間に明確な隙間ができている。三ミリ。指一本が入る幅。皮膚の裏側で癒着していた脂肪の薄い層が引き剥がされる感触が、じわりと顎のほうへ広がっていく。空気に触れた生肉の表面が粟立つような悪寒。皮膚の裏から生温い液体が溢れて、顎を伝い、首筋に垂れた。Tシャツの襟が濡れるのがわかった。


 痛みはなかった。まったく、なかった。皮膚が顔面から三ミリ浮き上がって、脂肪組織がべりべりと引き剥がされているのに、痛覚だけが完全に消えている。二万二千人で割った痛みは、もう痛みとして知覚できないレベルまで薄まっている。痛みの代わりにあるのは、顔の表面で何かが確実にずれていく、微かな圧力だけだ。痛みがないまま、顔が剥がれていく。感覚としては麻酔に近い。だが麻酔は医者がかけるもので、これは二万人の視線がかけている。


 スマホの通知が震えた。


 **『明日のダイゴ ¥10,000』**


 金額が戻っている。一円まで落ちていた金額が、一万円に跳ね上がった。


 メッセージを開く。


 片膝をついたまま、顔のない俺の指が頬に触れたまま、スマホの画面を読んだ。


『被験者登録が完了しました。実験番号S.D.-2024-0814。臨界観察数に達するまで保持されます。』


 被験者。登録。


 境界を壊したことで、俺は「被験者」になった。あの図の右の箱。境界の内側に。登録された。


 コメント欄が炎上していた。


『なんか触られてる!』『顔やばい!!』『皮膚浮いてるの見える!』『逃げろ!逃げ場ないのか!』『十万人集めるって言ってたぞ!拡散しろ!』『俺もう5人に送った』


『#ダイゴ配信 Twitterトレンド3位』


 同接、二万四千百。


 頬の浮きが、わずかに縮んだ。三ミリが二ミリになった。二万四千人の視線が、剥離の速度を遅くしている。止められてはいない。遅くしているだけだ。


 顔のない俺の指は頬に触れたままだ。動かない。こいつもまた、二万四千人の観察圧力の中にいる。動けないわけではない。速度が落ちているだけだ。


「聞こえるか」


 膝立ちのまま、カメラに向かって喋った。声が掠れて、自分でも聞き取りにくかった。


「俺は今、実験の被験者になった。顔を剥がされる側に登録された。止める方法は一つしかない。十万人。同時接続十万人で致死量を無効化する。今の五倍だ」


 顔のない俺の瞼のない目が、スマホの画面を――配信のカメラを通して二万四千人を見つめている方向を、じっと見ていた。


「時間がない。あと一時間二十分で俺の顔はこいつと同じになる。十万人を一時間二十分で集めなきゃ、俺は自分の顔を自分の手で握ったまま死ぬ」


 同接、二万五千六百。


 増えている。拡散が効いている。県警への通報の話題がニュースサイトに拾われ始めたのかもしれない。理由は何でもいい。数が要る。圧倒的な数が。


 顔のない俺の指先が、頬の皮膚の端を一ミリだけ引き上げた。痛みはない。あるのは、皮膚と脂肪の間で何かが糸を引くように伸びて、ぷつ、と一本ずつ切れていく微かな振動だけだ。結合組織だ。顔を顔として保っている接着剤が、一本ずつ剥がされていく。


 同接、二万六千二百。


 残り七万三千八百人。


 あと一時間十九分。


 顔のない俺の口元で、歯列の間から音が漏れた。声帯のない喉が空気を押し出している。唇がないから子音が作れず、母音だけの、くぐもった響き。


 あ。


 い。


 ご。


 ダイゴ。


 俺の声で、俺の名前を呼んでいた。

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