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同接10万人いかないと顔の皮を剥がされる底辺配信者の俺、絶対に「ヤラセ」だと言い張ってデスゲームを生き抜く  作者: 今井 幻


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第5話「観察の代償」

 八月十四日、午後十一時四十三分。


 デッドラインまで、一時間四十七分。


 バッテリー四十六パーセント。モバイルバッテリーからの給電ケーブルがポケットの中で引っ張られるのを感じながら、俺は標本室の床から立ち上がった。膝が笑っている。足元のガラスの破片を踏まないよう、半歩横にずれる。


 足元の顔の皮膚はまだ口を動かしていた。「サナダ」「サナダ」と、俺の声で。だが今は見ないことにした。見ても何も変わらない。200の瓶の400の眼窩がこちらを向いたまま、ホルマリン液の中で微かに揺れている。俺がこの部屋に留まっている限り、この視線からは逃れられない。


「ここに手がかりがある。瓶を壊しても無駄だった。なら、瓶を作った奴の情報を探す。三十七年間同じ筆跡でラベルを書き続けた人間が、この建物のどこかにいるか、いたはずだ。そいつの痕跡を辿る」


 同接、一万八千四百。


 標本室の奥の壁を改めて照らした。棚が壁一面を覆っているが、右端の棚と壁の間に二十センチほどの隙間がある。さっきは瓶に目を奪われて見落としていた。隙間の奥に、棚とは別の面が見える。


 棚を横から覗き込んだ。


 鋼鉄のドアがあった。


 標本室のどのドアとも素材が違う。木製の観音開きでも、錆びた鉄の両開きでもない。ステンレスに近い銀色の鋼鉄製で、取っ手は横長のレバーハンドル型。そしてハンドルだけが妙に光っていた。周囲の壁や棚は埃と湿気で曇っているのに、このハンドルだけが磨かれたように反射している。誰かが日常的に触れていた。最近まで。


「棚の裏に扉がある。誰かがここを出入りしてた」


 コメントが反応する。


『まだ奥あんのかよ』『やべえ』『開けろ』『開けるな』


 ハンドルを握った。冷たいが、標本室の鉄扉のような骨まで凍る冷たさではない。金属の温度が室温に近い。使われている証拠だ。


 押し下げると、錠が外れる軽い音がして、ドアが内側に開いた。


 匂いが切り替わった。


 ホルマリンの刺激臭が背後に退き、代わりに古い書類とインクと、湿ったボール紙の匂いが流れ込んできた。図書館の閉架書庫に似ている。紙と糊と、長年空気にさらされた文房具の匂い。殺意のない匂いだ。この廃病院に入ってから初めて、人間が仕事をしていた場所の気配がした。


 部屋は八畳ほどの広さだった。正面に事務机が一つ。スチール製の、天板がグレーの、どこの役所にもありそうな机。その前に黒い合皮の回転椅子。机の上にスタンドランプの台座が残っているが、電球は抜かれていた。右の壁にスチール製のファイルキャビネットが二台。


 そして左の壁。


 壁の大部分を、一枚のガラスが占めていた。幅四メートル、高さ二メートル。窓にしては大きすぎる。そしてガラスの向こう側は暗い。リングライトの光がガラスの表面で反射して、向こう側がよく見えない。


 俺は自分の顔の横にスマホを持ち上げ、リングライトの光を手で半分遮った。反射が減り、ガラスの向こう側が透けて見えた。


 部屋があった。


 六畳ほどの、白いタイル張りの部屋。中央にリクライニングチェアが一脚。その横に点滴スタンドの残骸。壁には配管が露出している。治療室、あるいは処置室。歯科医院の診察台に似た構造だ。


「マジックミラーだ」


 同接、一万八千九百。


 こちら側からは向こうが見える。向こう側からはこちらが見えない。観察する側と、観察される側を分ける一枚のガラス。この部屋は「観察室」だ。マジックミラーの向こうにいる人間を、こちら側から観察するための部屋。


 ファイルキャビネットに目を移した。引き出しを開ける。マニラ紙のフォルダが数十冊、年代順に並んでいた。背表紙に西暦が書かれている。一九八七年。一九八八年。一九八九年。標本室のラベルと同じ年から始まっている。


 最初のフォルダを引き抜いて開いた。


 中はカルテのような書式だった。A4サイズの用紙に、手書きの表と数値が並んでいる。上部に「被験者」の欄。その横に日付とイニシャル。「T.K. 1987.06.12」。標本室の最初の瓶と同じだ。


 その下に、別の欄があった。


「観察者数:4名」


 四人。最初の被験者には、四人の観察者がいた。


 次のページ。「H.M. 1988.02.03」。観察者数:六名。


 次。「S.Y. 1989.11.21」。観察者数:八名。


 フォルダを次々と開いていく。年を追うごとに観察者の数が増えている。一九九〇年代は十名前後。二〇〇〇年代に入ると二十名、三十名と跳ね上がっていく。


 二〇二三年のフォルダを開いた。「R.K. 2023.09.15」。リョウキだ。


 観察者数:九十二名。


 リョウキの配信の同接は最大三百程度だと推測していたが、カルテ上の観察者数は九十二名。同時接続数そのものではなく、何か別の基準でカウントされている。だが数字の傾向は明らかだ。年々増えている。初期の四名から、三十七年かけて九十二名まで。


 最後のフォルダ。表紙が他と違い、新しいマニラ紙だ。


「S.D. 2024.08.14」


 開いた。


 観察者数の欄に、赤いボールペンで数字が書かれていた。標本室の万年筆とは別の筆記具。急いで書いたような乱れた字。


「18,800(暫定)」


 一万八千八百。暫定。


 俺の同接数が、リアルタイムで記録されている。


「誰がこれを書いてる? 今? ここで?」


 声が裏返った。ファイルキャビネットを振り返り、部屋を見回した。誰もいない。回転椅子は空だ。机の上には埃が積もっている。だがこのフォルダだけが新しく、このボールペンの字だけが乾いていない。


 同接、一万九千四百。


 カルテの数字を並べた。四、六、八、十二、二十、三十五、九十二、一万八千八百。観察者数が増えるにつれて、被験者が生存している時間も長くなっている。初期の被験者は数分で死んでいる。リョウキは三時間十六分。俺はもう二時間近く生きている。


「観察者が多いほど、死ぬまでの時間が延びる。観察者が呪いを……分割して、引き受けてる」


 あのとき、ロビーで俺が口にした「十万分の一」。呪いの殺傷力を同接数で割る。カルテの数字はそれを裏付けていた。経験則じゃなかった。記録されたデータだった。


 そのとき、同接が動いた。


 一万九千八百。上がった。


 一万九千二百。下がった。六百人が一度に消えた。


 右頬に、何かを感じた。


 痛みではない。もっと穏やかで、もっと悪質な感覚。頬の皮膚の表面が、わずかに浮き上がっている。シールの端が剥がれかけるときのような、接着面がゆっくりと離れていく感覚。指で触れた。右頬の下端、顎の手前に、皮膚と肉の間に隙間ができていた。零コンマ数ミリ。指先がその隙間に入った。


「っ――」


 声にならない声が出た。自分の顔の皮が、自分の指で持ち上がる。


 同接を見た。一万九千。まだ下がっている。頬の隙間が広がる。一ミリ。皮膚の裏側がぬるりと湿っていて、指先に体温より少し高い液体が触れた。


「見てくれ! 見てろ! 目を逸らすな!」


 カメラに向かって叫んだ。配信者の声でも分析者の声でもない。命乞いの声だった。


「コメントに『見てる』って打ってくれ。一人でも多く。頼む」


 コメント欄が動いた。


『見てる』『見てる』『見てるぞ!』『見てる』『見てるから落ち着け』『見てる!!』


 一万九千百。一万九千三百。数字が戻り始めた。


 頬の浮きが止まった。皮膚が肉に貼り直されていく。隙間が閉じる。指先にあったぬるりとした感触が消え、頬は元の状態に戻った。


 一万九千五百。完全に収まった。


「ありがとう。収まった。同接が減ると顔が剥がれかける。増えると戻る。体で確認した」


 息が荒い。心臓が肋骨の内側を殴り続けている。指先がまだ震えていて、頬に触れた右手の人差し指と中指に、微量の透明な液体が残っていた。自分の皮膚の裏側の液体。


 カルテの数字は正しかった。観察者が呪いを分割する。同接が増えれば一人あたりの負荷が減り、俺の顔は剥がれない。減れば負荷が集中し、剥がれが始まる。


 だが、分割された呪いはどこに行く?


 一万九千二百。また微減した。だが今度は頬に変化がない。五百人程度の変動では閾値を超えないのかもしれない。


 コメント欄に、異質な投稿が混じり始めた。


『なんかホルマリン臭い…自分の家なのに』


『嘘だろ…うちの洗面台から水滴の音がしてる。さっきまでしなかったのに』


『ドアをノックされてる。外に出たけど誰もいない』


 俺はコメント欄を読み、最初は無視した。心霊配信にはつきものの便乗コメントだ。怖がっている配信者に合わせて「俺の部屋でも何か起きてる」と書く奴は毎回いる。煽りか、同調か、構ってほしいだけだ。


 だが、投稿者のアカウント名に見覚えがあった。


「ホルマリン臭い」と書いたのは、俺の配信を一年以上見ている常連だった。煽りや嘘を書くタイプじゃない。水滴の音を報告したのも、古参のリスナーだった。


 呪いが分割されて観察者に配られるなら――観察者の手元に、呪いの断片が届いているのか。


 嫌な汗が背中を伝った。


 一万九千六百。増えている。俺の頬は安全だ。だが、一万九千六百人のそれぞれの部屋で、ホルマリンの匂いが漂い始めているとしたら。


 コメントが続く。別のアカウント。見覚えのある名前。俺の配信の最初期から見てくれている、いつもハートの絵文字を付けてコメントする女の子のアカウントだ。


『ダイゴ、なんかへんなおとがする』


『ドアのそとに だれかいる』


 二行のコメントの間に、四秒の間隔があった。


 三行目。


『ヘや、はがされ』


 それきり、コメントが止まった。


 アカウントは退室していない。入室中の表示のまま、沈黙している。


「おい。おい、待ってくれ。『はがされ』って何だ。おい」


 返事はなかった。


 同接は動いている。一万九千五百。一万九千二百。微減。彼女のアカウントは入室中のまま、コメントを打たなくなった。打てなくなったのか。


「配信を見てるから、呪いが来た? 俺を見てるから、そっちにも……?」


 声に出した瞬間、自分が何を言っているのか理解した。


 呪いは同接数で割られる。割られた分は消えるんじゃない。割られた分が、割った相手のところに行く。一万九千人で割れば、一人あたりの致死量は下がる。俺は死なない。だが一万九千人の全員が、致死量以下の呪いを少しずつ受け取っている。


 致死量以下だから死なない? 本当にそうか。あの女の子のコメントは「はがされ」で終わっている。致死量以下でも、部屋にホルマリンの匂いが満ち、水滴の音がして、ドアがノックされ、何かが入ってきて――「はがされ」た。


 俺がこの配信を続ける限り、視聴者が呪いを受け取る。


 俺がこの配信を止めれば、分割がゼロになり、俺の顔が剥がれる。


 同接、一万九千六百。


 あと一時間三十五分。


「見てくれ」と叫んだのは、俺だ。「コメントに『見てる』と打ってくれ」と頼んだのも、俺だ。あの女の子は、俺の頼みを聞いて、画面を見続けてくれた。見続けた結果、呪いが彼女の部屋に届いた。


 俺が殺したのと同じだ。


 コメント欄が揺れていた。彼女のアカウントに気づいた古参のリスナーたちが動揺し始めている。


『おい、◯◯ちゃん返事しろ』『嘘だろ』『配信止めたほうがよくないか?』『止めたらダイゴが死ぬんだろ!』『でもリスナーも死んでるじゃん!』


 コメント欄が割れた。「止めろ」派と「続けろ」派。そして何も言わず黙って見ている大多数。


 一万九千二百。減り始めた。恐怖で離脱する者がいる。当然だ。見ているだけで呪いが来ると知れば、画面を閉じるのが正常な判断だ。


 頬が疼いた。右頬の下端。さっきと同じ場所。皮膚が浮き始める予兆。まだ隙間は開いていないが、筋肉の上で皮膚がわずかに滑る感覚がある。


 止めれば俺が死ぬ。続ければ視聴者が死ぬ。


 一万九千六百。また戻った。離脱した者がいる一方で、新規が流入している。話題が拡散されているんだろう。「リスナーの部屋にも呪いが来る配信」。ホラーコンテンツとしてはこれ以上ない煽り文句だ。怖いもの見たさで入ってくる人間がいる。その人間もまた、呪いの分割先になる。


 俺は何も言えなかった。


 止めろとも続けろとも言えなかった。止めれば一時間半後に確実に死ぬ。続ければ、あの女の子のように沈黙するアカウントが増えていく。どちらを選んでも、誰かの顔が剥がされる。


 マジックミラーの向こうの治療室が、暗闇の中でぼんやりと浮かんでいた。リクライニングチェアの上に、かつて被験者が座っていた。観察室のこちら側から、観察者が見ていた。見ることで呪いを分割し、見ることで被験者を生かし、見ることで自分にも呪いの断片を引き受けていた。


 俺は今、被験者と観察者の両方を兼ねている。配信者として観察される側に立ち、同時にカメラを通じて視聴者を観察の座に引きずり込んでいる。


 同接、一万九千二百。


 また下がった。頬が疼く。皮膚の下の筋肉が、皮膚の重さを感じている。ほんの数グラムの顔の皮が、剥がれ落ちるか留まるかの境界線上で揺れている。


 この数字が、俺の命綱であり、同時に一万九千人の首に巻かれた縄でもある。

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