第4話「標本室」
八月十四日、午後十一時三十一分。
デッドラインまで、三時間十六分。
バッテリーが五十パーセントを切った。四十九。配信を開始して一時間半。リングライトとカメラの常時稼働で、満充電からここまで減った。午前二時四十七分まで持つかどうか。持たないなら、すべてが終わる。
ポケットからモバイルバッテリーを一本取り出して接続した。これで時間は稼げる。だがもう一本しか予備はない。電力はあと二回分。朝まで持つ計算は、とうに崩れていた。
「状況を整理する。背後の手術室にはサブカメラが死んだリョウキの死体と、ドアが閉まった四体の死体がある。全部、今は誰にも見られていない。あいつらが動いているかどうかはわからないが、俺に追いつく前にここで何かを見つけるしかない」
坑道は五メートルほどで終わった。
土壁がタイルに変わったのは、三メートル目だった。最初の一メートルは剥き出しの土と木の支柱。次の一メートルで、土の壁に白いタイルが点々と嵌め込まれ始めた。だが白ではなかった。リングライトの光を近づけると、タイルの表面は淡い緑色をしていた。ひび割れが蜘蛛の巣のように走り、目地のセメントが黄ばんでいる。一階の外来フロアで見たタイルとは別物だ。あちらは白い、現代的な大判のタイル。こちらは小ぶりで、色も形も古い。昭和の公衆浴場で見かけるような、六十年代か七十年代の規格だ。
時間が、戻っている。
上の階が一九九九年の閉院時のままだとすれば、ここはそれよりもっと古い時代の建物だ。増築や改築で上に新しい層が被さり、元の構造が地下に埋まったまま残っている。
五メートルの坑道の先に、観音開きの木製ドアがあった。ドアの表面は膨らんで波打ち、下半分に黒い染みが浮いている。ノブは真鍮で、酸化して暗い緑色に変色していた。
ドアの隙間から、ホルマリンの匂いが滲み出ていた。
これまで嗅いだどの場所よりも濃い。鼻腔の粘膜がひりつき、目の奥に圧力がかかる。反射的に涙が浮いた。まばたきすると涙が頬を伝ったが、拭く余裕がなかった。指先で涙の跡を掬うと、指の腹がわずかに痺れた。空気中に揮発したホルマリンが、涙に溶けて皮膚を刺激している。
同接、一万四千。
「開ける」
ドアを引いた。真鍮のノブが手の中で軋んだ。蝶番が錆びた声を上げ、湿った空気が正面から押し寄せてきた。
部屋は広かった。
六畳ほどの手術室とは規模が違う。横幅が十メートル近くあり、奥行きは五メートル。天井は低いが、三方の壁が天井まで棚で覆われていた。木製のフレームにガラスの扉がついた飾り棚。図書館の書架のような造りだが、並んでいるのは本ではなかった。
ガラスの瓶だ。
透明な円筒形のガラス瓶が、棚の一段目から最上段まで隙間なく並んでいる。高さ三十センチ、直径十五センチほど。すべて蓋がされ、中に透明な液体が満たされている。ホルマリンだ。匂いの出所はここだった。数百本の瓶から微量ずつ揮発するホルマリンが、この部屋の空気を飽和させている。
そして、瓶の中に浮いているもの。
人間の顔の皮だ。
額から顎までの、一枚の皮膚。リョウキの手術台で見たあの死に方と同じ形で剥がされた顔が、薄黄色のホルマリン液の中に浮かんでいた。目の穴と口の穴が三つの暗い楕円を作り、鼻の隆起がゆるやかに波打っている。海月のような半透明の膜が液体の中でゆっくりと揺れていた。
一本や二本ではない。
棚の端から端まで。三方の壁、すべて。数えられない。百本は確実に超えている。二百本以上あるかもしれない。
「なんだよ、これ……」
声が震えた。配信者の声でも分析者の声でもなく、ただ怯えた人間の声だった。
コメント欄が凍りついていた。罵倒も分析も励ましも、すべてが止まっている。数秒後、一斉に動き出した。
『は????』『顔?? 全部顔??』『二百以上あるだろこれ』『やばいやばいやばい』『通報した 警察に通報した』『これ事件だろ』
同接、一万五千二百。通報の話題でまた跳ねている。
瓶にはラベルが貼ってあった。
棚の左端から順に見ていく。最初の瓶のラベルは手書きだ。万年筆の、几帳面な文字。
「T.K. 1987.06.12」
一九八七年。三十七年前。次の瓶。
「H.M. 1988.02.03」
その次。
「S.Y. 1989.11.21」
年代順に並んでいた。一年に数本ずつ、規則正しく増えていく。一九九〇年代、二〇〇〇年代、二〇一〇年代。字体は途中から変わらず、同じ万年筆、同じ筆跡。三十七年間、同じ人間がラベルを書き続けている。
「一九八七年から……毎年何人か、ここに」
棚の中ほどを過ぎたあたりで、コメント欄が動いた。
『M.A.って書いてあるの見えた』『2023.09.16って……リョウキと同じ日付じゃん』『リョウキの彼女じゃねえか? 一緒に行方不明になったって記事あったぞ』
M.A.。二〇二三年九月十六日。リョウキが死んだのと同じ日。リョウキには彼女がいて、一緒に来て、一緒に消えた。リョウキは手術室の手術台で死体になり、彼女はここで瓶の中の顔になった。
「リョウキの彼女……」
それだけ言って、声が詰まった。この瓶の一本一本に、かつて名前と顔があった人間が入っている。一九八七年から三十七年分の人間が、ホルマリンの中で永遠に表情のない皮膚だけを残している。
別のコメントが流れた。
『待って。1994年のラベルに「S.S.」ってあるんだけど。うちのおばあちゃん、椎名幸子って名前で94年から行方不明なんだけど……イニシャル一致するんだけど……』
一瞬、コメント欄が静まり返った。フィクションと現実の境目が揺らぐ類のコメントだ。本当なのか嘘なのか、配信の中からは判別できない。
同接、一万五千八百。
俺は棚の右端に向かった。年代が新しくなるにつれて、ラベルの日付が現在に近づいていく。二〇二〇年代。二〇二二年。二〇二三年。リョウキの彼女のM.A.が最後の一本。
その隣。
棚の最後の一段。
空の瓶が一本、立っていた。
ホルマリンは入っている。中身がない。顔の皮膚が入っていない、透明な液体だけの瓶。ラベルには、同じ万年筆の、同じ筆跡で、こう書かれていた。
「S.D. 2024.08.14」
S.D.。真田大悟。
二〇二四年八月十四日。今日。
俺の瓶が、すでに用意されていた。
「……俺の」
同接、一万六千五百。コメント欄が爆発していたが、目に入らなかった。
ラベルの筆跡は他の瓶と同じだ。三十七年間変わらない万年筆の文字。今日の日付で、俺のイニシャルで、空の瓶が棚に並んでいる。俺の顔が剥がされて、この瓶に収められる。それが「決まっている」。
仮説が浮かんだ。
瓶が器なら、器を壊せばいい。
瓶がなければ顔を保存する場所がない。保存する場所がなければ、剥がす意味がない。ロジックとしては通っている。鍵を壊せば錠は開かない、と同じ構造だ。
俺は棚から自分の瓶を取り出した。ホルマリンの液体が揺れ、ガラスの表面がぬるりと滑った。重さは水と同じくらいだが、指先が薬品で痺れるのを感じた。
「これを壊す」
コメント欄が割れた。
『やれ!』『壊せ!』『いやまずいだろ!』『やめとけ!』『壊したほうがいい!』
迷わなかった。
瓶を、床に叩きつけた。
ガラスが砕ける音が標本室に反響した。鋭い破片が放射状に飛び散り、ホルマリンがタイルの上に広がっていく。刺激臭が一瞬で顔の高さまで立ち昇り、目が焼けるように熱くなった。涙が止まらない。
「壊した。壊れた」
叩きつけた地点を見下ろした。
ガラスの破片とホルマリンの水たまりの上に、何かがあった。
薄い、肌色の膜。
掌より少し大きいサイズの、半透明の皮膚片が、砕けたガラスの上に広がっていた。瓶の中には入っていなかったものだ。割れた瞬間にどこからか現れた。
温かかった。
膝をついてガラスの破片を避けながら指先を近づけると、皮膚片から微かな体温が放射されていた。死体の皮膚ではない。これは生きている。つい数秒前まで生きた人間の顔に貼りついていた皮膚の温度だ。
形を見た。額のカーブ。眉骨の隆起。鼻筋の幅。右頬にある小さな黒子。
俺の顔だ。
鏡を見ているのと同じ輪郭が、ガラスの破片の上に横たわっている。
「嘘だろ……」
瓶は器にすぎなかった。瓶を壊しても顔は消えない。顔のほうが瓶を選んでいる。器がなくなれば、顔は器の外に現れる。壊した意味がない。壊したことで、むしろ封じ込められていたものが解放された。
同接、一万七千百。
仮説が砕けた。また砕けた。何度目だ。影で見分けられると思った。サブカメラで監視できると思った。瓶を壊せば逃れられると思った。全部、間違いだった。
その瞬間、棚が鳴った。
ガラスの共鳴。数百本の瓶の中で、ホルマリンが同時に波打った。液面がさざなみのように揺れ、瓶の内壁に当たってカチカチと連続音を立てる。地震ではない。揺れているのは棚ではなく、液体だけだ。瓶そのものは微動だにしていないのに、中のホルマリンだけが一斉に揺れている。
そして、顔が動いた。
二百枚を超える顔の皮膚が、瓶の中で同時に向きを変えた。
目の穴――眼窩の位置に開いた二つの暗い楕円が、すべて同じ方向を向いた。俺の方を。棚の左端から右端まで、三方の壁に並んだ二百以上の瓶の中で、二百以上の顔が、目のない目で俺を見ていた。液体に浸かった皮膚の表面がリングライトの光を受けて鈍く光り、その光がすべて同じ角度で反射している。四百以上の眼窩が、一人の人間を見据えている。
コメント欄は読めなかった。画面が流れるのが視界の端に映ったが、文字を認識する回路が脳の中で切断されていた。
同接、一万七千六百。
足元で、音がした。
ガラスの破片の上に落ちた俺の顔の皮膚が、口の部分を動かしていた。声帯がない。肺がない。空気を押し出す筋肉がない。なのに、口の穴が開閉していた。ぺちゃ、ぺちゃ、と湿った唇のない口が、ホルマリンの水たまりの中で音を立てている。
声が聞こえた。
「サナダ」
俺の声だった。
俺の声が、俺の顔の皮から、俺の苗字を呼んでいた。
足が動かなかった。動こうとした。膝が震えて、力が入らなかった。配信開始から二時間、ここまで一度も膝から崩れなかった俺が、初めて立っていられなくなった。
空の瓶があった棚の、その奥の壁に、小さなプレートが嵌め込まれていた。ラベルではない。金属製の、ネジで固定されたプレート。数字が刻まれている。
「01:30:13」
時刻だ。
リョウキの写真のメタデータは午前二時四十七分だった。デッドラインは三時間十六分後だと思っていた。
だがこのプレートの数字は、それよりも一時間十七分早い。
スマホの時刻を確認した。二十三時四十三分。
午前一時三十分まで、残り一時間四十七分。
「デッドライン……短くなってる」
声が裂けた。
三時間の猶予があると思っていた。一時間四十七分しかなかった。リョウキの死亡時刻は結果でしかなく、その前に別の段階がある。この標本室のプレートが示しているのは、顔が瓶に「収められる」時刻だ。剥がされて、浸されて、ラベルを貼られる時刻。死ぬよりも先に、顔を失う。
同接、一万八千百。
足元の顔の皮が、まだ口を動かしていた。
「サナダ」
「サナダ」
「サナダ」
二百の瓶の中の四百の目が、俺を見ている。俺の顔が、俺の名前を呼んでいる。壊した瓶の破片が足元で光を反射している。ホルマリンの水たまりが、涙と混じって床に広がっている。
一時間四十七分。
たったそれだけの時間で、俺は自分の顔を失う。
棚の右端の空いた場所が、俺を待っている。




