第3話「設計図にない廊下」
八月十四日、午後十一時二十三分。
デッドラインまで、三時間二十四分。
二度目の地下降下の前に、バッテリーを確認した。メインのスマホ、残量五十八パーセント。予備のスマホ、七十二パーセント。ポケットの中にモバイルバッテリーが二本。午前二時四十七分まで持たせるだけなら足りるはずだが、サブカメラの映像を配信に載せ続ければ消耗は倍になる。
「やることを整理する。一、予備のスマホを手術室1に設置してリョウキの死体を常時撮影する。見られていれば動けないなら、一万人の視線で釘付けにできる。二、設置が完了したら、残りの部屋を探す。地下一階のドアはあと五つある。三、全部の映像を同接に変える」
声に出すたびに、計画が輪郭を持つ。底辺配信者が四年で身につけた唯一の技術は、恐怖を段取りに変換する習性だった。
階段を降りる。十七段。二度目でも数えた。九段目で吐く息が白くなる温度帯も、十五段目で舌の根元に貼りつくホルマリンの酸味も、三十分前と同じだった。慣れるかと思ったが、身体は正直だ。唾を飲むたびに薬品の味が食道を降りていく。
踊り場に降り立つ。廊下に目を向けた瞬間、足が止まった。
蛍光灯。
さっき逃げたとき、廊下の奥から順に破裂していった蛍光灯は、六本中四本が死んでいた。残り二本が生きていたはずだ。だが今、目の前で点いているのは一本だけだった。踊り場の直上、俺の頭から三十センチ上にある一本。それが不規則に明滅している。点く。消える。点く。点く。消える。法則はない。電圧が安定しないのか、それとも蛍光灯そのものが壊れかけているのか。明滅のたびに廊下の奥が闇と光の間で明滅し、残像が網膜に灼きつく。
そしてもう一つ。
廊下の床に、筋がある。
ピンク色の、幅十センチほどの湿った跡が、手術室1のドアから廊下の中ほどまで伸びていた。線は一本ではない。断続的に途切れながら三メートルほど続いて、途中で止まっている。跡の表面はてらてらと光を反射していて、指先で触れようとして――やめた。触れなくても、何か想像がつく。血液とリンパ液が混じった粘度の高い液体。腐敗が始まった人体から滲み出る、あの甘酸っぱい匂いと同じ成分が、コンクリートの上に薄いフィルムを作っている。
リョウキの死体が這った跡だ。
俺が一階に逃げた後、目を離されたリョウキは動いた。手術台から降り、廊下に這い出し、三メートル進んだところで止まった。止まった理由はわからない。俺が一階で配信を続けていたから――画面の向こうの一万人が、間接的にでもこの廊下の「方向」を意識していたから、そこで動けなくなったのか。
仮説でしかない。だが、確認する手段はある。今から確認する。
「手術室1に入る。リョウキがいるはずだ」
同接、一万一千八百。
手術室1のドアを開けた。腐敗臭がまた鼻腔を殴る。だが一度経験した匂いには、身体が構えを作れる分だけ反応が遅れた。目だけが先に動いて室内を走査する。
手術台の上は空だった。
リョウキは床にいた。手術台と壁の間に仰向けに横たわり、首をドアの方向に向けている。白濁した目が開いたまま、入り口に立つ俺を見上げていた。さっきより五十センチずれた首の角度がそのまま保存されている。扉が開いた瞬間の俺の位置にぴたりと照準が合っている。
「まだこっち見てんのかよ……」
声が震えた。だが動いていない。今、俺がこいつを見ている。こいつも俺を見ている。この相互の視線が成立している間は、動かない。
予備のスマホを取り出した。カメラは起動済みだ。配信アプリを開き、サブアカウントで配信を開始する。メインの配信画面にサブカメラのURLを貼った。画面内画面。リョウキの死体が一万二千人の目に晒される。
「サブカメラ、設置する。ここから先は俺が手術室を出ても、お前らがこいつを見張っていてくれ」
ワゴンの上にスマホを立てかけた。角度を調整して、リョウキの全身がフレームに収まるようにする。念のためワゴンの端にスマホを斜めに寄りかからせ、ステンレスの縁で固定した。画角を確認する。リョウキの顔面――皮膚のない、ピンク色の筋肉と白い脂肪が露出した顔面が、サブカメラのど真ん中に映っている。
「映ってるか?」
コメント欄が反応する。
『映ってる』『グロすぎ』『でも動いてない』『マジで止まってんじゃん』
俺はリョウキから目を逸らした。意図的に。五秒間、天井を見上げた。サブカメラの映像を確認する。リョウキは動いていない。首の角度も、手の位置も、白濁した目の方向も、五秒前と完全に同じだ。
十秒。目を逸らしたまま待つ。動かない。
三十秒。廊下に出てドアの外から画面だけを確認する。リョウキは微動だにしていない。一万二千人がサブカメラ越しに見つめている限り、この死体は凍りついたまま動けない。
「効いてる。見られていれば動けない。仮説、確認」
同接、一万二千三百。コメント欄が沸いた。
『すげえ』『マジで止まってる』『ダイゴの仮説合ってたじゃん』『科学者かよ』
安心したかった。だが、さっきも安心しかけたところで痛い目を見た。影の仮説が正しいと思った三秒後に、死体が首を動かした。正しいと思った瞬間が一番危ない。今は仮説を保留したまま、次に進む。
「残りの部屋を調べる。手術室2から順番にいく」
廊下の左手、二番目のドア。プレートに「手術室2」。
ドアを引いた。
匂いが違った。手術室1の腐敗臭が甘酸っぱい有機物の腐りだとすれば、こちらは乾いている。古い紙と埃と、その下に微かに残る消毒液。生きた腐敗のガスではなく、とうの昔に乾燥しきった死の残滓。
手術台はなかった。代わりに、床に四体の死体が横たわっていた。
全員、仰向けだ。全員、顔面の皮膚がない。全員、左手に自分の顔の皮を握っている。リョウキと同じ死に方。だが服装はばらばらで、性別も年齢も異なる。腐敗の度合いも違う。一体はほぼ白骨化しかけていて、別の一体はまだ肉の色が残っている。
配置に規則性があった。
四体が扇形に並んでいる。頭の位置が扇の中心側で、足が外側に開いている。全員の足先が、同じ方向を指していた。
俺は廊下に目をやった。四体の足先が示す方向は、廊下の突き当たり――さっきリングライトで照らしたとき、壁しかなかった行き止まりの方向だった。
「これ……向き、揃ってないか?」
コメントが反応する。
『全員同じ方向向いてる』『足が奥を指してる』『なんか意味あんのか?』
ここで思い出した。車の中に置いてきたと思っていたが、パーカーの内ポケットに四つ折りのA4用紙が一枚入っている。配信前にネットで拾ってプリントした、建築指導課に提出されたこの病院の設計図だ。廃墟配信の下調べとして持ってきていた。
紙を広げた。
「設計図。地下一階。確認する」
図面には地下一階の見取り図が描かれている。階段。廊下。左右三部屋ずつ、計六部屋。廊下の突き当たりは壁。その先には何もない。設計図上は、この廊下はここで終わっている。
四体の死体の足先は、設計図の上では「存在しない方向」を指している。
同接、一万三千百。
俺は手術室2を出て、廊下の突き当たりに向かった。リングライトで壁を照らす。さっき来た時と同じ、コンクリートの壁のはずだった。
壁の中央に、両開きの扉があった。
三十分前にはなかったものだ。コンクリートの壁と同じ灰色の、塗装の剥げた鉄製の両開き扉。蝶番は錆びている。ドアの表面に結露が浮いていて、指で触れると冷たい水滴が指先に伝った。扉の向こうから、湿った土の匂いが隙間を通って流れてくる。ホルマリンでも腐敗でもない。もっと原始的な、掘り返されたばかりの地面の匂い。
「設計図にない扉がある」
コメント欄が爆発する。
『は?』『さっきなかったよな?!』『壁だったじゃん!』『設計図に載ってないとかやばすぎ』
そのとき、足元に違和感があった。
立っている床面が、水平ではなかった。
背後の階段のほうが高い。目の前の扉のほうが低い。角度にして一度か二度。歩いていたら気づかない程度の、ほとんど知覚できない傾斜。だが確実に、廊下は階段側から扉側に向かって下っている。
つまり俺は、階段を降りてからもずっと降り続けていた。
地下一階ではなく、もっと深い場所にいる。
スマホに通知が光った。
**『明日のダイゴ ¥1,000』**
メッセージを開く。
『まだ降りていない。』
「まだ、降りていない……?」
声がかすれた。ここまで降りてきて、まだ足りないのか。この扉の先に、さらに深い階層があるのか。
コメント欄が凍りついた。
『えっ』『ここで地下一階じゃないの?』『もっと下があんのかよ』
そのとき、メインスマホの画面の隅で、サブカメラの映像が揺れた。
ノイズが走る。灰色の帯が画面を横切る。配信開始直前に見たのと同じ砂嵐だ。画像が歪み、ピクセルが崩壊し――消えた。
サブカメラの映像が、真っ黒になった。
「嘘だろ。回線が切れた」
手術室1の予備スマホとメインスマホの接続が途絶えた。電波か、距離か、それとも別の何かが、二台のスマホの間の通信を遮断した。
サブカメラが映していない。
一万三千人の視線が、リョウキの死体から剥がれた。
リョウキは今、誰にも見られていない。
背後で、音がした。
廊下の中ほど。手術室2のドア。俺がさっき開けたまま出てきた、四体の死体がある部屋のドア。それが、ゆっくりと閉まる金属の軋み音を立てている。バタン。鉄と鉄が噛み合う鈍い衝撃が、コンクリートの壁を伝って踊り場のほうまで震わせた。
閉じた。四体の死体がいる部屋が、俺を締め出すように閉じた。
俺が見ていない場所で。
振り返る余裕の半分もないうちに、今度は目の前で音がした。両開きの扉の向こうから。
ポタ、と水滴が落ちる音。
配管が死んでいるはずの場所で、水が落ちている。一滴。二滴。三滴目と四滴目の間隔が不規則に短い。機械的な結露や漏水なら一定のリズムになるはずだ。これは不規則で、まるで呼吸のように間隔が揺れている。
スマホに最後の通知が光った。
**『明日のダイゴ ¥1』**
一円。また底値だ。
『地下二階は無い。』
地下二階は、無い。
設計図にもない。スパチャの送り主もないと言っている。なのに俺は今、地下一階より深い場所に立っている。存在しない場所にいる。
同接、一万三千五百。数字だけが増え続けている。俺の恐怖が数字を養い、数字が俺を生かす。だが数字は、この扉の先に何があるかを教えてくれない。
リョウキの死体は今頃動いている。サブカメラが死んだ以上、あの手術室の中を見ている目はない。背後の廊下で何が起きているか、振り返らなければわからない。振り返れば目の前の扉から目を離すことになる。目を離した場所で、何かが動く。
前も後ろも、見ていない場所だらけだ。
両開きの扉の隙間から、湿った土の匂いが濃くなっていく。水滴の音が続いている。ポタ。ポタ、ポタ。不規則な呼吸のリズムで、何かが、扉の向こう側で俺を待っている。
俺は設計図をポケットに戻した。配信画面を確認した。サブカメラは死んだまま復帰していない。背後の廊下は暗い。蛍光灯は頭上の一本だけが明滅を繰り返している。
「行くしかない」
両開きの扉に手をかけた。
鉄の表面が、手術室のドアノブよりもさらに冷たかった。八月の地下で触れた金属のどれよりも深い冷たさだ。指の感覚が三秒で消えた。骨の芯から体温を抜かれていく。掌の中心だけが最後まで温かさを保っていたが、それも五秒で消えた。
扉を押した。
重い手応えとともに、両開きの扉が内側に開いた。
湿った風が顔を打った。土と水と、その下にもう一つ、嗅いだことのない匂いが混じっている。ホルマリンでも腐敗でもない。もっと古い。建物が建つ前からここにあったもののような、地層の奥の匂い。
リングライトの光が闇の中に差し込んだ。照らされた範囲に映ったのは、また廊下だった。
だが、幅が違う。天井が違う。壁が違う。
コンクリートではなかった。
壁は剥き出しの土で、天井は木の板で支えられていた。床は湿った土そのもので、スニーカーの底がわずかに沈む感触がある。病院の地下ではない。これは坑道だ。あるいは、トンネルだ。人間が掘った穴が、病院の下に口を開けている。
設計図にない場所が、設計図にない方法で、この廃病院の下に広がっている。
水滴の音が、奥から聞こえていた。




