モリヌークス問題編
「はぁ……綺麗だなぁ。あれって東京タワーだよな」
とにかく一人になりたくて、ボクは風呂場に逃げこんだ。
冗談みたいに広い浴槽に肩までつかる。
今日の疲れが湯舟に溶けていくようだった。
ほぅ、と息をつく。
目線の先には星々の煌めきが点々と輝いている。
ビューバス、というやつだ。
宝箱をひっくり返したような東京の夜景。
オレンジ色に光って一際目立つのが東京タワーだ。
タワマン最上階からの絶景――
まさに成功者だけが見る景色というやつだ。
江中十南がつかんだ栄光。
ボクが掴むはずだった、本当の人生。
ラビタンの法則の功績さえ、盗まれなければ。
ボクは悪くない。
最初に奪ったのは十南。
それを盗み返してやっただけのこと……。
「――んっ?」
浴槽から眺める窓に曇りがさす。
「ダメですよぉ、十南ちゃん。お風呂に入るときは窓ガラスは通電して不透明モードにしておかないと、向かいのマンションから丸見えになっちゃいますっ!」
「こ……古都子ちゃん!?」
湯気の中を進んできたのは、新町古都子だった。
なるほど、あれは瞬間調光ガラスだったのか――
って、いやいや、そんなことよりもッ!
タオル一枚で胸元や下半身を隠しているものの、それ以外は一糸まとわぬ姿となっている。つまりは、は、はだかっ! これは間違いない。そうに決まっている。ボクだって、うすうすは気づいていたけど、やはりそういうことで確定……ッ!?
「えへへ。十南ちゃん、お仕事お疲れさまで~す」
軽く身体をかけ湯で洗うと、古都子は浴槽に入ってくる。
当たり前のように。日常の1ページのように。
既に……このボクが入っている湯舟にッ!
もう、状況証拠は充分だ――
頭の中で数式が組み立てられていく。
これほどに明快な方程式は無いだろう。
・可愛い年下の女の子
・互いにちゃん付け
・距離感がやたらと近い
・カードキーを共有してタワマンで同棲
・お風呂に一緒に入ってくる
ここから導かれる答えは――
江中十南と新町古都子は、付き合っている。
Q.E.D――証明終了。
「うふふ。十南ちゃん、急に窓ガラスに指で数式を書いたりして……まるで子供みたいですねぇ。本官も久々に落書きしちゃいたくなります」
「存分にするといいわ……ここには私たちしかいないもの」
「やったぁ!」
くそ、かわいい。
十南のやつ……こんなマブい彼女がいたのかっ!
ボクの中の江中十南の人物像を修正する必要がありそうだ。
在学中からモテてたのは知ってたが……
女の子もイケる口だったなんて。
ボクのことは拒絶したくせに……!
「許せん……」
何が友達だ……友達は友達でもセックスがつく方のフレンドじゃないか!
あるいは純愛?
それも友達ではないと思うが。
今日の疑問がだんだんと氷解していった。
ストーカー事件以前からの恋人なのか、あるいはストーカー事件をきっかけにして知り合って恋人になったのかは不明だが、十南と新町はそういう仲だった。
距離感が近すぎるのも納得だ――
ストーカー事件についてたびたび面会していたのも、事件捜査の報告というよりも公私混同が目的だったんじゃないだろうか?
「十南ちゃん、湯あたりしちゃいましたか? 顔が赤いです」
「ちょっとお湯を熱くしすぎちゃったみたいだわ……」
嘘である。
正直なところ、興奮してお風呂どころではない。
「さ、先に上がるわね」
「えっ、もうですか? カラスの行水になっちゃいますけど」
「いいのよっ!」
恋人どころか、友達すらいなかったボクには刺激が強すぎる。
一旦、出よう――と慌ててしまった。
「あっ」
つるり、と浴槽で足を滑らせる。
「十南ちゃん……っ!」
お湯が跳ねた。
気づくと、ボクは小柄な新町を押し倒すかのように倒れ込んでいる。
「ごめんなさい古都子ちゃ……ん……っ!?」
肌に感じた温度の実在感が脳髄を貫いた。
目の前にはあられもない姿をした新町古都子がいる。
お風呂とは異なる人肌の温もりと、お湯とは異なる汗の水気が、ぴたりぴたりとくっついて、お互いに肌と肌が押しつけあうように密着する。離れようと理性が訴えても、一向に身体は離れるつもりにはなれない。ボクは石のように硬くなっている。その一方で、対面する彼女の腕は絡めとるようにボクの背中に回された。密着は加速して、新町古都子の真っ白な肌越しに浮かび上がる骨の感触を全身で味わい尽くすことになった。人並み以上に大きいボクの乳房は、お返しとばかりに新町の顔を挟みこみ、安らぎの感触を与える。互いに静止する女体。湯気に混じって漂う色香は、どんな入浴剤よりも心地よく甘くてとろけるような女の子の匂い。縫い止めるようにボクの視界を支配するのは、湯気に当てられて瑞々しく桃色にうるんだ彼女の唇である。
「はあっ……ううっ……っ!」
目の前の女体を味わいたい。
そんなボクの欲望を見抜くように……
「いいですよ」
新町は小さな唇を突き出してくる。
ボクは貪るように吸いつき、舌先で甘い唾を舐めあった。
「んっ……んっ、十南ちゃん、愛してます……っ」
「わ、私も……っ!」
歯茎の裏にまで舌を這わせる。
粘っこい水音がいやらしく反響した。
我慢の限界に達している。
もはや、後先など知ったことか。
そのまま彼女を抱こうとして……ボクは思わず、声をあげた。
「うわあああっ!!!」
「あー。やっぱり、お風呂はまだ早そうですね」
浴槽が真っ赤に染まっている。
鼻孔をつくのは鉄臭い、血の匂いだ。
一体、何が起きている?
新町は両の手の甲を見せる。
よくよく目をこらして、初めて気づいた。
「何よ……それ……」
両手の爪は一枚残らず剥がされていた。
柔肌が露出し、一部からは血が流れている。
「うふふ。ごめんなさい。お風呂でのなかよしはまだ今度にしましょう」
ずっと茶色い手袋を着けていたから気づかなかった。
なんで、そんなことに?
混乱が頭を支配する。
気が狂いそうになっている中で「そういえば」と新町は呟く。
「十南ちゃん。背中のほくろ、なくなったんですね」
「――えっ?」
☆☆☆
たしかに変化させたのは顔と声だけだ。
研究が進めば、そのうち全身も変えられるようになるだろうが――
☆☆☆
ボクはとんでもない見落としをしていた。
エヴォル・ガスで変えられるのは、顔と声だけ。
他はそのまま。
つまり、江中十南の全身の特徴を熟知している人物には――
「うふふ。おっぱいも、記録よりおっきくなったみたいです」
十南の恋人であり肉体関係がある新町古都子なら、ボクの正体が見抜けるッ!
「――先に上がることにするわ」
「どうしたんですか、十南ちゃん?」
やはり、新町は始末するしかない。
風呂場を出た私はバスタオルを巻き、濡れた足のまま洗面所に出る。
こんなときのために、エヴォル・ガスの噴霧器はカバンに入れている。
十南の時のように、この世から新町を消し去ってやる。
そう、十南の恋人である新町を――
「……あれっ?」
違和感。
一刻も早く洗面所を出て噴霧器を取りに行かなければならないはずなのに、なにかが引っかかる。
この洗面所で、その違和感に気づいた。
洗面台だ。
歯ブラシが一本しか出ていない。
よく見れば、他の用具についてもそうだ。
いずれも一人暮らしの分だけ。
馬鹿みたいに広いタワマンであっても、そこは貧乏暮らしのボクと同じ。
でも、それはおかしい。
本当に新町古都子が江中十南と同棲しているなら、ここに2セット分あるはずだ。
そもそもの話。
彼女が本当に江中十南と同棲していたとしたら、おかしなことがある。
☆☆☆
住所は港区のタワーマンションとなっていた。
「自宅に帰るのが楽しみだわ。ふふっ、タワマンかぁ……」
☆☆☆
昨日、本物の江中十南はボクによって拉致され、殺害された。
夜通しの犯行となったため、ボクはその足で江中十南になりすまして東都科学捜査研究所に出勤することになった。
つまり、江中十南は昨日の夜は帰宅していない。
ならばどうして。
同棲しているはずの新町古都子はそのことを指摘しなかったのか?
「ふ、ふふふ。ようやくわかったよ」
ボクは背後を振り返った。
そこには白い肌に赤い血を流しながらほほ笑む新町古都子が佇んでいる。
刑事、新町古都子。
まったく、とんだ食わせ物だ。
ここに至り、ボクはすべての真実に到達した。
「君はボクが江中十南ではないことに気づいていた。だからこそ、十南の友人――いいや、恋人であると騙ってみせることで、ボクが決定的なボロを出すのを待っていたわけだね。どうりでおかしいと思ってたよ。君みたいな貧乏人が、こんなタワーマンションに住んでいるわけがない。十南に養われてたとしても、それならもっと身だしなみにお金をかけているはずだ。しかし……驚いたよ。ここまで手の込んだ芝居を打って見せるとは。一体いつからボクが本物の江中十南ではないと気づいていた?」
新町古都子は、勝ち誇るように笑みを深くする。
「一体いつからって……」
ニコニコしたまま、彼女は首をかしげた。
「たった今、ですけど……」
なるほど。
たった今、か。うん。
うん?
……えっ?
ど、どういうこと?
「たった今って、えっ!?」
「というか、十南ちゃんって本物じゃなかったんですか?」
ふ、ふざけるなッ!
「お前、気づいてなかったのかーーーッ!?」
「はい。ホクロやバストサイズについては記録とズレてたんですけど、本官がミスをして書いたものだとばかり……あ、そういうことですか。納得です」
「記録って、何の話……」
新町は脱衣所の荷物を漁り、一冊の本を取り出す。
それは、いつも彼女が手にしていた皮の手帳だった。
「これを読む方が早いと思われます」
「か、貸してくれ」
ボクは彼女から手帳を受け取ると、目を皿のようにして読んだ。
「な……なんだ、これは」
そこにあったのは、荒唐無稽な物語だった。
東都科学捜査研究所――この国の科学の最先端を研究する施設、その重鎮である天才科学者・江中十南は実は新町古都子の親友であり――公私にわたるパートナーで――同棲もしてて――イチャイチャのラブラブで――パンドラタワー赤坂は二人の愛の巣で――実は幼稚園の頃からの運命の幼馴染で――大学時代のラビタンの定理を解き明かす研究においても共同研究者として新町は重要な功績をあげていた――って。
「いや、これは嘘だろ。大学時代の十南のことはよく知ってるが、共同研究者に君みたいな子はいなかったぞ……そもそも、君とボクたちとでは世代が違うしッ!」
「そうですね。というか、そこだけじゃなくて大半が事実と異なると思われます。おぼろげな記憶ですけど、たしか本官は限界集落の出身なので、幼稚園から高校までずっとクラスメイトは一人しかいなかったはずですし」
「なっ……じゃあ、この手帳はなんなんだ」
「本官もまだ全てを理解しているわけではないのですけど……」
新町古都子は手元からカードキーを取り出した。
「おそらく、本官がストーカーなのではないかと」
は……はぁ!?
「ほら、ミステリとかでも刑事が犯人ってよくあることじゃないですか。十南ちゃんが悩まされていたストーカー事件――その犯人は、担当刑事である本官自身だった。だからこそ、ずっとストーカーが捕まらなかったんです」
「そ、そんな馬鹿な……っ」
馬鹿とは言い切れませんよ、と新町は言う。
「本官の手帳に書かれていた物語は、本官と十南ちゃんが運命の相手同士であるというガールズ・ラブ・ストーリーです。こういった身勝手な妄想はストーカーにありがちですからね……警察官、それもストーカー事件の担当刑事である本官ならば、十南ちゃんの個人情報については引き出し放題ですし。きっと、何らかの名目でカードキーを預かるか盗み出して複製することも難しくなかったのでしょう」
それはそうかもしれないけれども。
「いくら刑事でも、ホクロの数なんて調べられないだろ?」
「見ればいいんです。窓越しに、直接」
☆☆☆
「ダメですよぉ、十南ちゃん。お風呂に入るときは窓ガラスは通電して不透明モードにしておかないと、向かいのマンションから丸見えになっちゃいますっ!」
☆☆☆
あっ。そうか、ビューバスか。
「本当に筋金入りのヤバいストーカーじゃないかッ!」
「困ったものですよね」
というか、さっきから気になってたのだが。
「なんで君はずっと他人事みたいなスタンスでいるんだ?」
「それはですね、まだ実感がわかないと言いますか」
ブーッ! ブーッ!
突然、ボクのカバンからスマホの着信音が響いた。
相手は……警察庁の刑事?
「もしもし、江中です……」
「よかった、繋がった! もしもし、警察庁特命課の利根川です」
電話先の女は、利根川という刑事のようだ。
「実は私の部下である新町古都子という警部補が、本日、東都科学捜査研究所を訪れたという通報がありまして」
「は……はい。確かに私と面会していました、ストーカー事件の話で」
「実は、今の新町は記憶喪失なんです」
「き……記憶喪失ッ!?」
☆☆☆
「あっ、思い出しました!」
さっきまでとは打って変わって、新町は明るい声を出す。
「本官が友達にしか名前を呼ばせないのって、子供の頃にクラスメイトにいじめられてたからでした。とことこことこ、とことこことこ、って。変な名前だって。そうでした、そうでした。だから友達にだけ名前を呼んでもらいたかったんですねぇ。本官をいじめたりしない、本官が安心して付き合える友達にだけ、です」
なんか他人事みたいに言ってるけど。
そういうのって、忘れるようなことなのか……?
☆☆☆
「それはつまり、新町さんは……過去の出来事を覚えていないということですか?」
「はい。江中さんと面会したときにも、そういう兆候はありませんでしたか」
「言われてみれば……たしかに、変でした」
「やはり。新町は先日、ある凶悪事件に巻き込まれたんです。そこで凄惨な出来事に遭ったらしく、過去の記憶の大部分を一時的に喪失しているのです。医者の話ではしばらくすれば段階的に記憶は戻っていく、という話なのですが……本日、病院を抜け出してしまって、私どもも行方を追っている最中でして」
凄惨な出来事――
新町の両手の指の爪が、一枚残らず剥がされていたことを思い出した。
利根川との通話を切ったボクは、考えを巡らせる。
新町古都子が記憶喪失だったとすれば、一連の出来事の説明がつく。
記憶を失った彼女は所持品の手帳にあった妄想を現実の記憶だと思い込んだ。
そこで恋人――新町曰く、親友――だと信じた江中十南と面会した。
ところが既に本物の十南はボクによって殺害されていた。
事情を知らないボクは、新町の紡ぐ妄想に話を合わせてしまった。
これが、この事件の真実だったんだ。
新町古都子は意味不明の言葉を呟く。
「ふれんどしっぷ計画……」
「な、なんだよそれ」
「今の十南ちゃんが本物じゃないってことは……もしかして、前の十南ちゃんはもう死んでる……というか、十南ちゃんが殺したんじゃないですか?」
「…………ッ!」
「うれしいです。やっぱり、運命ってあるんですね」
運命って……何を言ってるんだ、こいつは。
「だんだんと思い出してきました。本官にとって、十南ちゃんは一目惚れで。絶対に友達になりたいって思ってたけど、上手くいきませんでした。思いは募るばかりで、気づいたら3000万文字の大作を書いてしまいました。でも、それは全部、作り話でしかありません。だって、十南ちゃんは人殺しじゃないから」
「それは、どういう意味?」
「本官は人殺しとしか友達になれないんです。不思議な話ですけど」
それは……呪いとか、そういうものだろうか。
あるいは宿命なのか?
にわかには信じられない話だが、なぜか呑み込めてしまう。
「本官が警察官をやっている理由の一つがそれです。こんな仕事でもなければ、殺人犯の友達なんか見つけられないので……でも、やっと、一人、見つけた」
前の十南ではダメだった。
なぜなら、彼女は殺人犯ではないから。
このボクを求める人が目の前にいる。
他の誰でもない、今ここにいる、このボクを。
「ボクで……いいの?」
「あなたじゃなきゃ、ダメなんです」
カバンの中に突っ込んだ手。
噴霧器の引き金にかけた指の力が、自然と外れた。
敵対心はもう無い。
殺すつもりなど失せてしまった。
新町古都子は、人殺しであるボクと同じ穴のムジナ。
いいや、それ以上の悪なのかもしれない。
毒婦。
魅惑的な響きが脳内を駆け巡る。
「こ……古都子、ちゃん」
「はぁい。あなたの古都子ですよ」
ああ。ボクは、今のボクはいったい……。
誰と友誼を結んでしまったのか。
もはや後戻りができないことだけは確かであった。
赤黒い血がしたたる手を伸ばして新町は問いかける。
「本官にも呼ばせてください。
古都子の名前を読んでくれたように。
友達になれるかもしれない、
あなたの名前を呼ばせてください。
ねぇ――あなたは、だぁれ?」
EpisodeⅣ『Be The One』…END
Next Episode FINAL…『Desire Drivers』




